24 魔導士セレス=ヴァルナローデンは祈る
朝六時前。
私は、第六塔から頼まれていた急ぎの資料を取りに、リュシアン先生の執務室を訪れた。
すると、扉の前には所在なげに立ち尽くす清掃係の女性。
「……お掃除をと思ったのですが、結界が張られていて、扉が開かないのです」
先生は二日前、突然「今月中に部屋を整理すると誓います」と宣言していた。もしかすると、その反動で徹夜が続いているのだろうか。扉に触れると、防壁結界はすんなり解けた。
中へ入ると、目に飛び込んできたのは――書類の山に埋もれた白いソファ。その真ん中で、リュシアン先生がゆるく寝そべっていた。深い眠りについたまま片腕が落ちている。散乱した魔導書と空になった茶器が、昨日も徹夜だったことを雄弁に物語っていた。
「……先生、朝になりましたよ」
そっと声をかけると、先生はゆっくりと目を開き、寝ぼけたまま体を起こした。
「……ん」
その短い息遣いに、背後にいた清掃係の女性が小さく悲鳴を上げた。
「っ……失礼いたします!」
頬を真っ赤にし、あわてて部屋から飛び出していく。
何事かと思って先生に視線を戻すと――眠気を引きずる柔らかな眼差し、乱れた髪、わずかに緩んだ襟元。“中身”を知らない若い女性が頬を赤らめるのも無理はない。思わず、短くため息をついた。
しかし肝心の先生は、そんなことに一切頓着がないようだった。
「……セレス?私は、今……寝ていましたか?」
「ええ。かなり、しっかりと」
「では……これは夢ではないのですね。夢なら、部屋がきちんと片付いているはずです」
いつもながらの返答に、思わず笑ってしまう。そのとき――
「本日、遠征より十五日経過」
甲高い声が室内に響いた。棚の上の自動記録書だ。
あれから、十五日、か。あの地での光景が鮮やかに蘇ってきた。
「……先生、アリア様たちは、どうされているでしょう」
「そうですね。あの後、私たちもすぐ帝都へ戻りましたから。……アリア嬢が健やかであれば良いですね」
”アリア嬢”と呼ぶ先生の瞳はどこか遠くを見つめているようで、その声には深く静かな熱があった。
「先生……」と思わず話しかけてから、時計が目に入る。まずい。会議に間に合わなくなってしまう。
「その自動記録書は解除しておいたほうが良いですよ」
目当ての資料を救出すると、私は足早に部屋を出た。
***
先生と初めて出会ったのは三年前のことだ。
北方の小領ヴァルナローデン家の末子である私は、家の継ぎ手としての役割を兄たちが担うなか、“余白”のような立場だった。
だからこそ、自分の道は自分で決めようと思い、帝都魔導院の研究生となった。
魔導院に来たばかりの私を、先生は淡々と見下ろして言った。
「理を学ぶ者は、感情に溺れてはいけません」
あまりに静かで、あまりに厳しくて、当時の私はその意味をうまく掴めなかった。
けれど、先生の背中を見つめるうちに、少しずつ理解した。
帝国始まって以来の魔導の天才。
幼くして塔に入り、今では第二塔を率いる院長。
敬意をもって迎えられ、多くの者がその才に跪く。
なのに、先生の口から、家族の話も、友の名も、一度として聞いたことがなかった。
誰よりも高みにありながら、それゆえに、誰よりも孤独な、至高の存在。
先生は、失敗しても叱らない。成功しても褒めない。
必要な言葉だけを残し、静かに離れていく。
冷たく見えるはずなのに――その声は、なぜかいつもあたたかかった。
帝都に来てしばらくした頃、先生が研究棟の廊下でじっと立ち止まっていたことがある。
深刻そうな表情だったので近づくと、先生は真顔でこう言った。
「……セレス君。私は今、どこに向かっていましたっけ」
見ると、手にしている魔導書のしおりは“上下逆”で、今日の予定欄には魔導式がびっしり書かれていた。
予定を式で書き入れる人を、私は初めて見た。
「道に迷われたのですか?」
「いえ、迷ってはいないのです。ただ場所を完全に見失っただけです」
それは世の中では“迷う”と言うのだ、と思って、私は胸の内でそっと笑った。
先生の不器用さが、なぜだか愛しいほど親しみ深く感じられた。
以来、リュシアン先生は、私の学問の師であると同時に、兄となり、弟ともなった。
そんな先生の視線が、アリア様に向いていると気づいたとき――
胸の奥が、ふわりとあたたかくなった。
あの孤独な人が、誰かに向けて“感情”を動かしている。
それが、とても嬉しかった。
だから私は、先生を応援したいと思った。
アリア様を見ていると、自然と胸が軽くなる。
彼女の言葉には、人を励まし、明るい方へ導く力がある。
リュシアン先生がアリア様に惹かれたのも、至極当然のことだと思えた。
彼女に向けられる先生の視線は、いつもどこか迷い子のようだった。
懐かしいものを探しているようでもあり、触れれば壊れてしまうものを前にした時の、それ以上近づけない静けさでもあった。
孤独という名の塔に自ら籠り、感情を測定値のように扱い、
誰にも寄りかからず、寄りかからせもせず、
ただ、理に生きてきた人。
その人が、誰かひとりの存在を大切に思い、
その無事を願い、その未来を案じている。
先生が伸ばしたその手が、
アリア様という光へ向かっているのなら――
私はそれを、応援したい。
孤独なあの人が、ようやく自覚した“願い”なのだから。
セレスは、リュシアンの事が本当に好きなんだなと書いてて思いました。
次回から、新章『帝都惑乱 =皇家=』が始まります。
しばらくの間、気合を入れて週四日更新(月水金日)で参りますので
何卒よろしくお願いします!




