21 無能な妹は義兄と春を味わう
春は、音を立てずにやって来た。
あの夜――黎明星が森を白く照らし、氷花がほどけた夜から季節は確かに進んだのだと、柔らかな日差しが教えてくれる。
「アリア様。ローズとラベンダーのお茶です」
サラサが盆を抱えてやって来る。丸いカップの縁で、湯気がほどける。
「ありがとう、サラサ。……今日もとっても良い日ね」
「ええ。本当に」
アザル公爵家の朝は、驚くほど穏やかだ。廊下の絨毯は陽の匂いを含み、磨かれた窓は庭を一幅の絵のように切り取る。
代わり映えのしない日常って、いいなぁ。異世界――実は私の生まれた世界だったけど――に来てからの怒涛の日々を思って、しみじみとしてしまう。
氷花の森の一件のあと、リュシアンとセレスは報告のため、すぐ帝都へ戻っていった。エルヴィンは騎士団にかん口令を敷き、私――現世のアリア――の身元を再調査させた。けれど、どの記録をたどっても途中で関係者の証言がぼやけ、誰も私のことをはっきりと覚えていない。子ども時代のアリアも、養女としてやってきたアリアも、どこかで霧に包まれたように、輪郭を失っている。
……絶対、黎明星の仕業だよね。虚星から逃れるためには仕方ないことだったとはいえ、自分が何者なのか分からないのは、やっぱりもやもやする。それに、もし、この世界にアリアの両親がいたなら――会ってみたかったな。
庭へ出ると、白薔薇園の砂利道には朝露が残っていた。
生い茂った葉の向こうに、黒い影がふと動く。エルヴィンだ。剪定鋏を持つ庭師に何か短く言葉を掛けている。横顔は冬の湖のように静かで、見ているこちらが息をひそめてしまうほど美しい。
実は、エルヴィンとはうまく話せる気がしなくて、あれからずっと避けてしまってるんだよね。貴族の義兄として距離をとって接するべきか、幼馴染として気軽に話しかけるべきなのか……どちらにしても私にとって大切なお兄さんであることは、変わりないんだけど。ただ、こないだ、夜にふらふらと屋敷をさまよっててエルヴィンに偶然会ったとき「近づくな」って言われちゃったから、エルヴィンも私の扱いを決めかねているのかも…とほほ。
「アリア」
振り向けば、エルヴィンがそばにいた。深い碧の瞳がまっすぐに私を映している。
「体の調子はどうだ」
「もうすっかり元気ですわ。お気遣いありがとうございます」
「おまえが安らかならば、それでいい」
二人の間を、白い薔薇のかすかな香りが行き来する。
エルヴィンの眼差しが、ほんのわずか、やわらぐ。
「あの頃も、こんな風に二人でこの庭にいたな」
「……覚えていたんですか? あの頃のこと」
「少しだけな。だが夢か幻だと思っていた。しかし――あのときの記憶よりずっと、おまえは美しい」
「そんな……」
「事実を言ったまでだ」
短くそう言ってから、エルヴィンは少しだけ息を吐いた。
「再びアリアと出会えて、うれしい」
その声音には、珍しく迷いが混じっていた。
「だが……黎明星の加護を持っていることが広まれば――この屋敷にアリアを留めておくことは難しくなるだろう。帝国は、黎明星の乙女を手に入れようとする。だが、私はおまえを手放すつもりはない」
彼の言葉には、苦しみと、強い決意が滲んでいた。
「お義兄さまが私を家族として大事にしてくれていることは、うれしく思っています。でも、帝国の危機を自分が救えるのだとしたら、それが私の使命なのかもしれません。それに、帝都に行けば、私の力のことも、もっとわかるかもしれないでしょう?」
もちろん、最終的には今もスローライフを目指してはいる。でも、虚星が復活した今、そんなことも言ってられないわけで。まずは帝国の危機とやらを救ってから、なんとかこの公爵領に無事に帰ってくることを目指します!
「アリアは強いな」と、エルヴィンが自分に言い聞かせるように言った。
「お義兄様」
そう呼ぶと、彼の表情がほんのわずかやわらいだ。
「エルヴィン、と。春は短い。今しばらくは、この季節を二人で楽しもう」
朝の光が、祈りのように彼の髪を輝かせる。
どこからか蹄の音がした。
春の静けさを割るように、それが屋敷に向かってきているのだと、私には分かった。
読んでいただきありがとうございます。
少し転章を挟みつつ、物語は新たな展開へ参ります
次回、『氷刃公の告解』
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