12 騎士団員ユリス=カンベルのつぶやき
――俺たち公爵家騎士団の訓練は、いつも氷のように張り詰めている。
だが、あの日は違った。空気がどこか、淡く光っていた。
「総長が……笑った?」
仲間の呟きが、ざわめきが広がってゆく。
まさか、あの氷刃公が。感情を見せるなど一度もなかったことだったからだ。
俺――ユリス=カンベルは二十歳。憧れの公爵家騎士団に任ぜられて四年目の騎士だ。配属されてすぐエルヴィン総長の強さに魅せられ、以来、総長のようになることを目標に剣技と魔術を磨いてきた。
アザル公爵領は、帝国の北限。隣国や魔物の脅威に常に晒されている。アザル公は代々、自ら剣を執り、騎士団を率いて戦場に立つことが多く、領民からは畏敬の念を込めて「闘う爵位」と呼ばれている。
厳しい状況がそうなせるのか、俺はあの方が笑ったところを見たことがない。といって貴族社会に広がる噂のようにただの冷徹な人ではなく、誰よりも自分の部下の命を大切にする人だ。戦場では誰よりも真っ先に敵に斬りこんでいき、俺や仲間は何度もその命を救われてきた。
けれど今、訓練場の中央に立つあの人は――
冷徹な氷刃公ではなく“誰か”のために剣を振るう男の顔をしていた。
……そして、彼女が現れた。
薄藤の美しく長い髪、夜の淡い星空をそのまま閉じ込めたような碧い瞳。まだあどけなさの残る美しい顔は、聖女オリアもかくやと思わせるものだった。濃い藤色のドレスは彼女の持つ優美な曲線を引立て、胸元に煌めくエメラルドの首飾りはまるで彼女が誰のものであるかを示す警告にも見える。
――彼女が、氷刃公の義妹。
社交の場に一切出てこず、庶民の出であることから、二目と見られぬ顔をしているのではないか、魔術を使えぬ無能なのではないかと囁かれていたのは知っている。しかし、どうだ。これほど噂があてにならないことがあるだろうか。
――アリア様が駆け寄るだけで、訓練場の空気が変わる。
風が甘くなるというのは、こういうことかと思った。
「申し訳ありません、お義兄様。はやる気持ちが抑えられず――」
そう言って微笑んだその瞬間、総長の氷が溶けた。
まるで春が訪れたかのように。
「……アリア、私の義妹はお転婆と見える」
言葉は穏やかだが、その声音の柔らかさは初めて聞くものだった。
そして、信じられないことが起きた。
総長はアリア様の手の甲に、そっと唇を寄せたのだ。
その刹那、歓声と悲鳴が入り混じった。
俺も思わず息を呑んだ。氷刃公が……誰かに触れた。それも愛おしげに。
「……エルヴィン様、笑ったよな?」
「ええ、あんな顔……初めてです」
周りの騎士たちがざわめく。
けれど俺は黙って見ていた。
あの眼差し――氷よりも深く、星よりも遠い。
それが、ひとりの女性に向けられている。
そして総長は、再び外套を翻し、冷徹な声で言った。
「模擬訓練は以上だ。午後は対群突破の復習をする」
その声を聞いた瞬間、全員が直立した。
けれど俺たちは見てしまったのだ。
氷刃公の“心”という、帝国で最も貴いものを。
後にあの日の出来事は、団内でこう語り継がれることになる。
――「氷花が咲いた日」と。
次回は、エルヴィン視点のお話です。
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