逃走、嘘
──虫もさえ鳴かない、静かな夜更け。
俺は扉を開き、廊下を歩き始めた。
豪華な赤いカーペットが敷かれた、長い廊下。
忍び足で歩いているのもあるが、今の俺には途方も長く感じられる。
歩いている途中にも様々な考えが浮かぶ。
もしバレたらどうなるのだろうか。
あの時もし、俺がライアじゃないと素直に言えていたら。
例えそれでもきっと、記憶喪失の扱いになるのは変わりないだろう。
呼吸さえ抑えて、苦しさを感じながらも歩みを止めない。
この苦しさも今、生きる為に必要な事だから。
年甲斐も無く泣き出してしまいそうな心を制御しながら、俺は足を進める。
──そんな時、背後から視線を感じた。
嫌だ、走って逃げ出したい。
そんな心をグッと抑えて、淡々とゆっくり足を進め続ける。
気の所為だ、そう思いながら。
もう少しで辿り着く、やっとの事で玄関近くのエントランスが見えてきた。
焦りで少し歩幅が大きくなる、音が少し鳴ってしまう。
目を閉じて、深呼吸をして焦りを無くす。
そして玄関前に辿り着くと、ドアノブに手を伸ばす。
そんな瞬間に、背後から声がした。
「ライア、何処に行くの?」
はっ、と驚いて後ろを振り向いてしまう。
そこには燦々と輝いていたはずの瞳が鈍く黒に染まっている笑顔のユイアが居た。
「ちょ、ちょっと、外に散歩に行きたかったんだ……考えを整理したくて」
「嘘、つかないで? ライアは嘘つく時、左下に目線が行くもん。ね、なんで外に行くの?」
俺さえ知らない、俺の癖。
ユイアはそれを知っていた。
嘘は通じない、本当の事を言うしかない。
「俺、俺は……顔も、背丈も同じで何もかもライアに似てるけど……ライアじゃないんだ」
俺がそう言うと、ユイアは疑心に苛まれながらも保っていた笑顔を辞め、真顔になった。
ユイアはゆっくり俺に近付いてくる。
今しか、逃げる瞬間は無い。
そう確信した俺は、ドアノブを勢いよく回し外へと逃げ出す。
必死に息をこぼしながら、後ろを振り向かず走り始める。
遠くから「ライア!!!」とユイアが叫ぶ声が聞こえる。
我慢していた涙が溢れ出す、恐怖でガチガチと歯を鳴らす。
路地を通り、何処かもわからない街の中へと逃げ込んでいく。
人通りも街灯もない、静かな街の中に。
空き地に辿り着くと、物陰に隠れ息を吐く。
ろくに運動もしていないせいで、体力に限界が来ていた。
俺は吐いた息を吸う様に息を整える。
後先考えずに逃げ出したせいで、逃げ道はもう無い。
俺はこれから、どうしたら良いんだろうか。
「助けて……母さん、父さん……」
そう、弱音を呟いてしまう。
憧れの異世界がこんな恐怖で充ちた物になるだなんて思ってもいなかった。
閉じていた目を開く。
思わず、声にもならない小さな悲鳴を上げる。
──俺の目の前にはユイアがいた。
至近距離、それも唇がぶつかってしまいそうな距離に。
ユイアの鈍く黒い瞳が俺を静かに見つめていた。
「ライア、酷いよ。ライアじゃないなんて嘘までついて、私から逃げようとするなんて。帰ろ? 今なら、許してあげるから。もしも帰らないなら……お仕置きしてあげなきゃ。ね?」
ユイアは俺の手を力強く掴むと、ギルドの本拠地の方に引っ張り始めた。
抵抗しようにも、力では勝てない。
星風の力を使ったとしても無駄だろう。
諦めるしかない、そう思った時だった。
あの時、俺に力を与えた声が耳元でまた囁く。
「君はここで『ライア』に戻ったら……つまらない。これから先に待つ『冴羽礼』としての出会いを見たいのに。……もう一度、君に力を貸そうじゃないか」
そんな言葉を聞いた瞬間、銀色の剣閃がユイアを襲う。
ユイアは素手でその一閃を弾き返し、臨戦態勢を取る。
「流石英雄様、と言った所かな? 不意打ちで終わってもつまらないから、逆にありがたいかもね?」
「誰、君。私とライアの邪魔しないで」
空中から静かにゆっくりと降りてきた、一人の女性。
特徴的なラベンダー色のポニーテールと、深い赤色の瞳。
目の前の女性は閉じていた目を開くと、その細身の剣をユイアに向ける。
「レイくん、僕にユイア様は任せて欲しいな。君はもう『ライア』では無い。お礼はこれから君が奏でる協奏曲を僕に聞かせてくれたら結構さ」
女性は右手を振るうと、俺の体はあの時──意識を失い異世界へと召喚された時と同じ魔法陣に包まれる。
この世界に召喚されたのは、この人の力なのか?
そう考える暇もなく、一瞬で俺の体は魔法陣に包まれていく。
意識を失う瞬間、ユイアの声が聞こえた。
「逃がさない」
その声に恐怖を覚えながら、俺はあの時と同じ様に意識を失った。
──────
ちゅん、ちゅん。
小鳥の声が俺の目を覚ます。
白いベッドの上で目を覚ました俺は、辺りを見回す。
俺が目を覚ましたのは診療所の様な場所だった。
「あら、起きたのね? 良かった……貴方、ここの前で倒れてたのよ? 私の診療所のお客様かしら?」
薄い緑色のローツインテール、優しい雰囲気の目元。
白い衣装……正式名称は俺は知らないが、医者がよく着ている服装をした女性が俺を見つめていた。
俺は助かったの……だろうか?
デジャヴを感じる、このセリフを言うのは。