第八章 イラワジ川辺、銀河の下のキス、燃えた夜
この章で触れた楽曲、演奏者
■惑星/冨田勲
■夢の途中/来生たかお
「毎回思うけど、ミン・ミン・エイの店の方がおいしいね」と英一。
「そうだね、俺もそう思う」と隆。
「イラワジ川の大きなエビの煮込みは、めちゃくちゃおいしかったね」
「そうそう、同感。それと比べるとこのレストランのステーキ肉は少し固いし」と美奈子。
三人にとってこのホテルのレストランの食事はあまり魅力的ではなかった。
美奈子は語る、
「ビルマの人はあまり牛肉は食べないらしいの。食用の牛さんもあまりいないんだって。宗教的な理由じゃあなくて、牛さんは農作業を手伝ってくれる大切な仲間って思ってるらしいのよね」
「そうなんだ」と隆と英一は、そう言いながら固い肉をほうばる。
隆はビールを飲みながら、レストランの壁面数か所にはめ込まれている縦3m横1mほどの大きな装飾パネルを指さして、
「前から気になっていたけど、この絵はすごいんじゃあないかい」
黒い下地に金色で、ビルマの古代の伝統的な様式の仏伝らしき絵画が描かれているものだ。実はこれはパガンの伝統工芸の漆絵である。金色にみえたのは金箔である。
「確かに、立派な工芸品だわね。パガンは漆器工芸が地場産業だって言うわ」
隆は思った。(ここは俺の名前と同じ漆の原なんだな)
「この仏伝のような絵は、そこの土産物コーナーにある小さな漆器に描いてある模様とは次元が違うね」と英一。
隆は、仏陀の教えがビルマの人々の生活や文化に幅広く浸透していることに感心した。
後でホテルのスタッフから、地元で有名な漆絵作家の作品だと聞いてパガンでも優れたアーティストがいることを見直した。
そう言った会話を楽しみながら三人はビルマ産のビールを飲み、食事を楽しんだ。
食事の後はバーに移って、ハイボール等を軽く飲んで会話の続きを楽しんだ。顔なじみになったバーテンは、
「この美しい人はどっちの奥さんかい」と、聞いてきた。
隆と英一は同時にそろって
「私の奥さんだよ」
と笑いながら答える。
色々な雑談の中で隆と英一が美奈子を探しに来た卒業後の文化祭の話題になり、更に遡って高校時代の予餞会祭でのバンド演奏の話になった。
「隆は、あの時オリジナルのインストルメンタル二曲を披露したけど、ヴォーカルパートのある曲も作っていて、英一が多重録音したテープを聞いたのを覚えているわ。あの曲の中にもいいのがあったわよね」
「ああ、これかな」
と隆は自作曲の中の自信作の初めの部分を小声で口ずさんでみたら美奈子は、歌をさえぎって、
「隆!音痴なのね。曲は作れるけど歌は得意じゃあないのね」
「そうだよ、だから、英一に歌ってもらってるんだ」
英一は笑いながら、
「そうなんだよ、こいつはちょっと音程がずれるんだよ」
でも、美奈子は
「詩はいいのよね。さすがに感性豊かな隆だと思ったのに、歌はだめなんだあ」
三人は大笑いして、昔を懐かしんだ。
バーから出て部屋に戻る際に、隆は美奈子に
「あとで、川の方に二人で散歩に行かないか。ここの空気は澄んでいるし、街の明かりがほとんどないので星空がよく見えるんだ。宇宙そのものかもね」と言ってみた。
美奈子は
「いいわよ、二人でね?」
英一に向けてウインクし、いたずらっぽい笑みを浮かべて答えた。
「じゃあ、あとでドアをノックするよ」
「オーケー」
隆は英一に断った上で、美奈子の部屋の前に行きドアをノックした。
昼は三十度くらいの暑さだったが、夜は二十六、七度くらいで湿度が少ないのでしのぎやすかった。
シャワー浴びて違うTシャツに着替えて出てきた美奈子をイラワジ川の川辺に連れて行った。ティリピサヤホテルの敷地はかなり広く、プールサイドの小道を5分ほど歩いていくと、川辺に出る。何も囲いの無いプールでは水着姿の欧米人のカップルが楽し気に語らっていた。
「あの人たち、恋人同士かしらね。夜でもプールで楽しめるのは良いわよね」
「美奈子は水着持ってきてないよね」
「人が少ないから、裸で泳いじゃおうかしら」
「俺と英一はパンツ一丁で泳いだけどね」笑いながら美奈子の冗談受け流す。
隆は
「美奈子、さっきのプールのカップルはそれぞれ相方がいるのに、逃避行でパガンまでやって来たんだよ」
「あら、違うわよ。あの二人は、別れ話がまとまって、このパガンで最後の記念のデートをしているのよ」
二人は、それぞれ勝手な妄想をして楽しんだが、幸せそうな恋人同士の羨ましい姿は許せなかったのだろうか。
ところが、プールの欧米人カップルは、プールサイドの小道を楽しげに川の方に歩いていく隆たちを見て、冗談半分で彼らはきっと普通の夫婦ではない不倫同士なんだろうと適当な会話をしていた。
あながち間違いではない観察をされたことを、隆たちは知るよしもなかった。
イラワジ川は川幅がかなり広く、砂浜は海岸のようだった。二人は砂浜に並んで座った。
「夜も気持ちいいわね。川の先の山の上に明かりが見えるわね」
「あれは、夕日を眺めたときに見えた山の上のパゴダの尖塔の照明らしいよ。行ってみたいけど、川を超えるのが難儀そうだ」
「私も行ってみたいわ」
隆は空を指さし、
「美奈子、空を見てごらんよ。星がすごいだろう。日本じゃあ中々見れない」
「本当ね、すごいわね。天の川がよく見えるわ」
「おれは、この空見ると『宇宙』をリアリティで感じるんだよ」
「コスモスね」
1982年のパガンの夜空には満天の星空、天の川と呼ばれる銀河が輝いていた。パガンの澄んだ空気のせいで、日本では見たことの無いあまりの多くの星々が輝く情景をみると、隆は銀河の集団がちりばめられた宇宙を感じ、英一が貸してくれた「コスモス」を思い出した。
この時に見えている星の数は多分何億個もあるはずだが、宇宙には地球から見えない何十億光年も離れた遠くの星も入れれば見当もつかない数の銀河や星があることが不思議で、その中の多くの星には何らかの生命体があるという。
隆は、六年ほど前に発売された「冨田勲」のシンセサイザーによる「ホルスト」の組曲「惑星」を事務所でBGMとして良く流していたが、その不思議なサウンドは今日の夜空にはぴったりだと思うのであった。
隆は、宇宙の広がりや地球があまりにちっぽけな存在だというような話をすると、博識の美奈子は、概ねそのような知識はすでに持っているようで、話がはずんだ。美奈子はブルーバックスシリーズのファンで「相対論的宇宙論」等の宇宙や相対性理論に関する本をよく読んでいて隆よりはるかに詳しかったのである。
隆は、
「哲学堂公園で撮影しているときに、どんな花が好きかって聞いたよね」
「ああ、そんなことあったわね」
「コスモスしか知らないって、答えたけど覚えてる?」
「なんとなくね」
「あの時は薔薇とかアジサイくらいは知っていたけど咄嗟に出なかった。でも、その程度のことしか知らなくて相変わらず花の知識は乏しいよ」
「少しは進歩したのかしらね」
「それから、高校時代の時だったけど、ヴィーナスの絵を譲ってあげた後で手紙くれたよね。」
「あげたわね」
「撮影の後でも話したと思うけど、梶井基次郎の『檸檬』は全部読んだんだ。俺の絵が梶井の作品の様だと言ってくれたけど、そこらへんはまだ理解はできてないよ」
「いいのよ、私の写真見せてくれたけど、そこには感受性の豊かさが溢れているわよ、それでいいのよ」
「いいのかな」
「いいのよ、私のことを素敵に撮ってくれて嬉しいわ、それをいつまでも持っていてくれたのも嬉しいわね、今度も素敵に撮ってよね」
「美奈子はあのとき素敵だったよ、それをちゃんと撮れたのも嬉しかったよ。美奈子は今でも素敵だから、今回もしっかり撮るよ」
美奈子は、星明りだけでかなり暗い川辺で隆に抱きつき、隆の唇に自分の唇を合わせていった。
隆は自然にそのキスに応えた。
隆は何とも言えない幸福感を感じた。
美奈子も同様だった。
「美奈子、会いたかったよ。長い時間たったけど、こうやって抱くことができるなんて、嬉しいよ」
「そうね、私も嬉しいわ。もっと強く抱いてね」
隆は、長い間待ち続けた美奈子を抱くということが、今ようやくかなえられたことに幸せを感じていた。至福の時だった。
ふたりはしばらく川辺での幸せな抱擁を続けていたが、そろそろ戻ろうと言ってコテージに向かった。美奈子の部屋に入ると二人は又抱き合った。
「今日は、美奈子と結ばれたいんだ。美奈子が欲しいんだ」
「いいわよ。そうして。私も今日は解放されるんだ」
隆は、性欲と同時に創作欲も沸いた。
「その前に、美奈子の裸も撮ってみたい。哲学堂公園の時は俺も若かったしそんな気が起きなかったんだけど、この歳になって少しは変わったんだ」
「そう、いやらしくなったのかしらね。ふふ、」
「もっと、美奈子の魅力を引き出したいんだよ」
「もう、三十過ぎのおばさんよ。若くはないのに、いいの?」
「ああ、君は、十分に若いよ」
隆は昼間のパゴダ巡りで美奈子の素朴で可愛らしい姿をフィルムに焼き付けていったのだが、さらに欲を出して余計なものを身に着けない素朴な美奈子の姿をフィルムに残したかったのだ。
英一は、なかなか帰ってこない隆が、美奈子の部屋に行って、きっと愛し合っているのだろうと想像し、もう戻らないと思って一人でさっさとベッドにもぐりこんだ。
部屋の中で美奈子はすべての服を脱ぎ、少し恥ずかし気に隆のカメラの前でポーズをとった。麗奈ほどは豊満な肉体ではなかったが、十分に良い作品を撮れるモデルであった。
数枚の撮影が終わると裸の美奈子を抱きしめ、昔から漠然と期待していた美奈子との深い関係を持つこと、それが今実現しようとしていることに興奮した。
二人はベッドの中で静かに、しかし激しく抱き合った。
隆は、香音とはどちらかといえば精神的な結びつきが多く夜の体験はあまり思い出さなかったが、肉感的だった麗奈の豊かな体や胸はつい思い出してしまった。しかし、美奈子の裸体は豊満とは言えなくても十分に美しく、その乳房の谷間に顔を埋める幸せに震えた。そして、二人は共にかつてないエクスタシーを感じながら頂点に達した。
美奈子は明け方にどちらかといえばやかましい鳥のさえずりで目を覚ました。隣で幸せそうに寝息を立てている隆を見ながら思う。
(私は、夫に裏切られて苦しんだ。隆は奥さんを裏切っている。隆の奥さんはどんな人なのかしら)
しかし、それ以上考えることはやめた。考えても仕方ないことだと思うから。
一方、隆は夢の中にいた。パゴダの中で観音様のような仏像に「今そこにいる人を大事にしなさい」と言われたところで目が覚めた。あとで思い出すとその観音様は妻のような顔立ちだったような気がした。
「美奈子、おはよう」
「おはよう」
二人は目覚めのキスを交わす。隆は、昨晩の愛の営みの余韻に浸りながらも、さらに美奈子との幸せな時間を過ごしたいと思った。
「気持ちの良い朝だから、散歩に行かないか?」
「ああ、行く行く」
庭に出て鳥たちが元気にさえずっている敷地内をすがすがしい気持ちでそろって散策した。ブーゲンビリアの花に囲まれた人影のないところに行くと、
「美奈子、その花の名前は知ってるんだよ。ブーゲンビリアって言うんだそうだね。その花の前でTシャツだけ脱げるかな?ちょっと明るい日差しの中でも美奈子のヌードを撮影したいんだ」
「えっ、ここで脱ぐの?」
「ああ、ここは、人がそんなに来ないはずだから、二、三分で済むからさ」
「ほんとう?大丈夫かしら。じゃあ撮ってよ、素早くね!」
隆は制作意欲がわき出てきて、美奈子の美しい裸を撮りたいと思い、明るい光の下ですばやく数枚のショットを撮影した。
屋外でのセミヌード撮影になったが、美奈子は少し恥ずかしがって躊躇したものの、平素の控えめな態度とは裏腹に哲学堂公園でも見せたように時として大胆な行動も取るのである。
英一は隆がドアを開けて入って来たので起こされたが、昨晩に何があったか察しがついていたので隆には何も言わなかった。
レストランでの朝食では、隆と美奈子は何もなかったかの様に普通にふるまった。
英一は、美奈子の心の中に良い方向での変化があることは感じていた。
隆と英一は、この日から二日ほど調査作業をするので、美奈子に一人で帰るか、それとも隆たちの作業終了後に一緒に帰るかをたずねた。
美奈子は迷ったが、せっかくパガンに来たので、二人が仕事中は一人であちこち回ってみるとことにした。美奈子は、例の「マウン・ウー」のホースカーをチャーターし、彼の案内で野菜や魚であふれる市場、パガンで盛んな漆器細工の工房や中心部から少し離れた余り観光客が来ない村などを見て回った。
「マウンさん、いつもは西洋人観光客を乗せてるの?日本人は来ないのかしら」
彼の答えは、一年を通じてやってくるのはほとんど欧米人で日本人は慰霊巡拝の人たちの少数に限られるとのことだった。
美奈子は、このバガン遺跡のすばらしさを欧米人はよく知っているのに日本人は有名観光地に気を取られていてこの遺跡に気が付いていない現実を残念だと思うのだった。
美奈子は、気になったパゴダも巡ってみたが、朝を過ぎると裸足にならなくてはならない境内のモルタルや石張りの床は太陽に熱せられてかなり熱く、平気で歩く現地の人々のようにはいかない。
しかし、この季節は時々30分ほどのスコールに見舞われ雨のせいで床が冷やされる。美奈子は不意にやってくるこの小さな嵐に感謝して、心置きなく境内を歩き回った。
昼食は「ミン・ミン・エイ」のレストランで女同士の会話は楽しかった。パガンを満喫し、すっかりパガンにほれ込んでいた。
ホースカーにのんびりと揺られながらユーミンの曲をイヤホンで聞いていると、このアルバム「PEARL・PIERCE」の曲のどれもがこの旅にとても合っているように思えた。もっとも夫のホテルのベッドの下にイヤリングの片方を置いてくることは、しなかったが。
二日目も三日目の夜も、隆は美奈子の部屋の同じベッドで過ごした。昼間は英一とパゴダの調査をこなしていくが、夜の逢瀬を楽しみに暑さの中の作業に励んだ。
三人での夕食とその日の出来事を語り合うことは毎回楽しいひと時であったが、そのあとの二人だけの時間は何より替えがたい時間であった。
二人だけになると、余計なことは考えず、今までの空白を埋めるように、二人は愛し合った。
「隆、仏教の教えの五戒を知っているわよね。私たち、この仏教の聖地でそれを破っているから、地獄に落ちるかもしれないわね」
「美奈子と一緒なら、地獄に落ちても良いかもしれないよ」
「ああ、お釈迦様になんていえばよいのかしら」
そして、抱き合うのだった。
帰る日が近づくと、美奈子は夫との関係の清算問題に決着をつけなくてはならない現実を思い出し、すこし気が重くなった。
夫の裏切りは、美奈子の心に大きな傷をつけた。夫と別れたら日本に帰国することになるだろう。
隆とは愛し合ったが、隆は既婚者だ。
日本に帰って、隆との関係を続けることはできない。
隆に妻と別れてもらうことなどは望んではいない。
美奈子はせっかくパガンにきてリフレッシュしたのに、現実に引き戻されることに憂鬱になった。
隆も、帰国が迫ると現実の状況への対応に悩んだ。
美奈子とパガンで愛を確かめたが、妻をきらいになったわけではないし、別れるつもりもない。美奈子が夫と別れて帰国したあと、日本で美奈子との関係を続けることは考えていない。
しかし、十四年ぶりに再会した美奈子のことは妻と出会う前からの特別な思いがあった。
隆は悩んだ。
英一は、そんな隆の悩みは手に取るようにわかるが、何も言うことは思いつかない。
十七年前からの隆の美奈子への思いは親友として見てきたからよくわかるが、隆に対しては何も言えない。
「美奈子、タイに戻ったら、つらいことがあるだろうけど、気をしっかり持ってね」
「隆、ありがとう。今回はパガンに来て本当に良かった。パガンでの隆との日々は忘れないわ」
問題を抱えたまま、三人はパガンからラングーン行の便に、そしてそこから乗り換えてバンコック行きの国際線でタイに着いた。
隆は、断腸の思いで美奈子にここで別れようと伝えた。
美奈子も隆の気持ちはよくわかっているし、自分も同じ考えなので、だまってうなずいた。
隆は、最後に「さよなら」と美奈子に言った。
「さよならはわかれの言葉じゃなくて再び会うまでの遠い約束」という「来生たかお」の「夢の途中」の歌詞が思い出され、再び会うことができるだろうかと、頭の中でその歌詞がぐるぐる飛び回っていた。
空港で隆と英一が乗った成田行きの国際線を見送る美奈子。離陸していく旅客機が歪んで見えたのは、瞳が潤んでいたからだろう。
つづく




