第六章 エメラルド寺院は二人を引き寄せた
この章で触れた楽曲、演奏者
■順子/長渕剛
■異邦人/久保田早紀
■竹内まりあ
■昔の彼に会うのなら/ユーミン
「隆、このパガンの遺跡群の構造は面白いよ。ヴォールト構造だよ。」
「なんだよ、そのヴォールト構造って?」
英一は、隆に同行した寺院プロジェクトの予備調査で、パガンを初訪問する。1980年のことだ。
隆に連れられてモデルとなる壮大な遺跡寺院・パゴダに行き、その存在感に感動する。八百年前の平安時代と同じ時期に栄えたパガン王朝時代に造営された数々のパゴダの中で、隆お気に入りの煉瓦造の「ダマヤンジーパゴダ」は、英一も建築士としても大いに興味を掻き立てられた。
英一はパゴダを観察し、その建築様式を理解し、隆に説明する。
「パガンのパゴダはほとんどが煉瓦造のヴォールト構造だよ。ヴォールト構造は石やレンガを積んで空間を作るのだが、天井のあたりは楔形の部材をアーチ状に積むことで、空間を確保できる。石造りの橋などでよく見れるよね」
「ああ、京都の『南禅寺』にある煉瓦づくりの『水路閣』みたいなもんだね」
「その昔の仏教徒たちが仏陀像を祀る空間をできるだけ広くしたいという熱意から、当時の職人たちがこの構造を採用したのだろうね」
「そういうことか」
「日本の木造建築は、太い梁を柱と柱の上に渡して空間を作るので、ある程度は広い空間作れるけど、ヴォールト構造は天井は高く出来るけど、幅は広くは出来ないんだ」
「そうか、それで回廊の幅がそんなに広くないんだ」
大きな寺院、パゴダは天井は10m以上あっても回廊の幅は3~4mほどしかない。
隆は、英一の説明で、その昔の仏教徒たちの宗教心や熱意がそういう広さを求めたのだろうと感心した。
隆は以前の訪問時にガイドから聞いたパゴダの由来などを英一に話す。
「当時の王侯貴族は熱心な仏教徒で、大きさを競って寄進したそうなんだ。今でも信仰の対象となるパガンの有名な寺院は、ビルマの人々が毎日参拝に来たり、お賽銭つまり寄付金で外壁に金箔を貼るんだよ」
隆のお気に入りの「ダマヤンジーパゴダ」はこの時は人気がないせいか煉瓦のままであり、人の気配が全くなかった。
「このパゴダは悪い王様が作ったらしくて、パガンの人たちの人気がないらしい。だから煉瓦のままなんだってさ」
しかし二人にとっては魅力ある歴史感のあるパゴダではあった。
その後も依頼されたプロジェクトの為にたびたび二人でビルマを訪問することになった。
仏教徒の国の寺院で多くの仏陀像を目にして、人間としての仏陀と信仰の対象の超人の仏陀の落差を感じつつも、仏陀の力を感じる二人。二人はパガン遺跡で仏陀のすばらしさについて語り合う。
ところが、ひとたびビルマから離れてタイに行くと、二人の敬虔な気持ちは萎んでいった。タイも仏教国であるのだが、ビルマのパガンの雰囲気とは異なり、俗世界の雰囲気にあふれていたからであろう。
1980年の何回目かの調査の帰路、ハードな作業から解放された二人は経由地のタイで羽目を外して楽しんだ。バンコックの夜は誘惑も多い。繁華街のタイスタイルのカラオケ店では客一人一人にコンパニオンの女性がつくが客が女性でもついてくるのが面白かった。オープンなフロアで長渕剛の「順子」など日本の歌を歌うと彼女たちは大いによろこんだ。
今まで奥手だった隆はその借りを返すかのようにはしゃいだ。バーやクラブなどで女性たちとの会話を楽しんだ。隆はホテル近くの小さなバーに寄った際に、そこにいたずば抜けてチャーミングな女性を酔った勢いで口説いてみたら、思いかけずに応じてくれて甘美な一夜を過ごしたのだった。彼女のベッドの中でのもてなしは申し分なく、隆に至福の時を与えてくれたのだった。
日本では久保田早紀の「異邦人」が流行っていたころであるが、異邦人である二人は異邦人であるが故の異国での開放感を味わって女性たちとの楽しい時間を過ごした。
隆の妻は、本気の浮気は許さないつもりだが海外での遊びにたいしては寛大だったので、気にせず楽しんだ。英一は子育てに励む妻の顔が頭をよぎり、少し罪悪感を持ちながらも現地のエキゾチックな美人たちの微笑みの誘惑には勝てず、隆に付き合うのだった。
隆は、三田の英一の仕事場をよく訪れたが、ある日、机の上にあった「コスモス」という本に目が留まった。英一は、最近出版されたので購入したと言い、「カール・セーガン」という著者と本の内容を説明し、いかに宇宙について考えたりすることが楽しいかを話す。もう読んでしまったので、隆に「貸すよ」と言い、隆はこの本を借りていった。
自宅に戻って、台所で洗い物している妻の香音に、
「『カール・セーガン』という学者の本借りてきたけど、知っている?」
香音は、出版したばかりだというのにその本のことは知っていたのはさすがである。少し離れた台所から香音は答えた。
「コスモスという本しか知らない!」
この本を読み終えたころ英一が隆の住まいに遊びに来たのでこの本を返しこう言った。
「英一、この本は面白いね、カール・セーガンはすごいね。『コスモス』に、平家蟹や壇ノ浦の戦いが出てくるのが意外だったよ。大いに宇宙に興味がわいたぞ」
「よく、宇宙人が本当にいるのかというような議論やテレビの番組があるけど、それがどれだけバカげたことか、地球人の身の程知らずがわかってないのだな」と英一。
「宇宙に知的生命体はごまんといるはずだ」
「しかし地球に来るには光速でやってきても何百年、何千年かかるから不可能なんだと思う」
英一は以前隆から借りた「人間仏陀」を思い出し、
「宇宙の起源と仏陀の教えは全く無縁ではないんじゃあないんだろうね。」
隆は
「『コスモス』という本のタイトルで哲学堂公園での撮影の際の美奈子との会話を思い出したんだ。俺が、花の名前は『コスモス』くらいしか知らないっていったら、美奈子に笑われたんだよ」
「ほんとうはコスモス以外の花も知ってるんだろ?」
「ああ、もちろんだよ、少しはね。あの時は、撮影に集中してたので、とっさにそう答えてしまったんだ」
1982年、日本ではホテルニュージャパンの大火災があり、英一は建築士として有名ホテルにもかかわらずの防火対策の不備に唖然とした。工事監理はどうなっているんだと大きな疑問を持つのだった。
この年、二人は何度目かの寺院調査でビルマへ向かった。ビルマへ行く際に、バンコックでの乗り継ぎの関係で一泊する必要があり、時間が出来たので宿泊している「モンティエンホテル」からそう遠くない「ワットプラケオ」とも呼ばれる「エメラルド寺院」に観光に出かけた。有名な「暁の寺院」や「ワットポー」はすでに見たので、今回はこの寺院を選んだ。日中なので、敬虔な気持ちで寺院に向かう。
同じ仏教国でもビルマとは全く違う様式の寺院はそれなりに見ごたえがあった。全般的に豪華であった。ビルマでは寺院内は素足にならなければならないが、タイでは靴下までは脱ぐ必要はない。
隆はエメラルドといえば、美奈子が生まれた月が5月なので誕生石がエメラルドなのよと言っていたことを思い出し、親近感を覚えた。
寺院本堂を見て回っているときに、英一が人ごみの中から祀られている翡翠の仏陀に目を閉じてじっと手を合わせている日本人らしい女性に注目した。派手さがないパンツルックのカジュアルな服装で遠目からも魅力的に見えた。この寺院ではサングラスや帽子が禁止されているので、顔もよく見えた。
「隆、あれ、瀬尾さんじゃあないの」
隆もその人物を見てみたが、美奈子によく似た女性とは思ったが確信はない。
二人はその人に近づいてみた。
「ああ、美奈子だよ」隆はつぶやいて、その女性に声をかけた。
「せ、瀬尾さん、美奈子さんだよね」
美奈子は驚いて隆を見た。
「ああ、漆原さん、隆さん、こんなところでお会いするなんて!驚いたわ」
「瀬尾さん、美奈子さん、何でバンコックにいるの?」
「ええ、夫がここに駐在しているのよ」
「夫!結婚したんだ」
「ええ、だいぶ前にね」
今回も美奈子を見つけるレースに英一に先を越されて、隆は少し悔しかった。
哲学堂公園での撮影の時から、実に13年が経過していた。その年月の経過を得ても美奈子の容貌は衰えていなかった。
この再会は偶然ではあったのだが、隆は美奈子との間に何か見えない引き合う力があって、お互いに引き寄せられたのではないかと思った。隆はずっと後で自分の誕生日の3月17日の誕生石もエメラルドであることを知り、美奈子と寺院で出会うことが出来たわけがそこにあったのかと、勝手な解釈をするのだった。
この時美奈子の姓は「大村」であったが、「瀬尾」という旧姓で呼ばれて一瞬で古い時代に戻った感覚があった。
この時、二人とも33歳となっていたが、美奈子はその歳より若く見えた。美奈子はそもそもの素顔が美しいので、そんなに化粧をしていないのに綺麗だった。肩までの髪の長さは昔と変わっていないように見えた。
美奈子は大村からの離婚の申し出について話し合うために休暇を取ってバンコックにやってきていた。大村の現地会社に近いホテルに宿泊していて、乱れた心を癒すため、気分転換のためにホテルの近くのこの寺院にやって来たのである。
「美奈子さん、よかったら食事でもしませんか」と英一。隆も、
「そう、ぜひ、行きましょう。良い店を知っていますから」
三人は、エメラルド寺院を出て、バンコック市内の「モンティエンホテル」近くのタイスキの名店「コカ飯店」に行き。夕食をとりながら、昔話を交わした。
隆は、店に着くとすぐにいつも持ち歩いている美奈子のポートレートの小ぶりのプリント数枚を美奈子に見せた。哲学堂公園で撮影したもので、髪をかき上げ挑発的な視線でレンズの方を見るショット、可憐な様子で繁みの中でほほ笑むショットなどだ。
「わあ、これ私なのね。よく映っているのね、ありがとう」
「ようやく、美奈子さんにこの写真見せることが出来た」
隆は、ようやく本人に彼女の写る写真を見せることができて感慨深かった。もちろん、美奈子と再開し話ができたことの喜びは更に大きいものであった。
「現像し、引き延ばした写真が出来たので渡そうかと思って美奈子さんにハガキ出したけど、戻ってきてしまったんだよ」
美奈子は少し小さな声で
「私、隆さんに誤らなければいけないわね。いろいろあって、住まいも変えたけど、貴方に連絡しなかった。あの頃は、正直新しい環境と新しい出会いがあって、結婚して、貴方のこと思い出す余裕が無かったのよ」
隆は、少し悲しい気分になった。
「そうだったんだ」
「ごめんなさい、その後職場で日々多忙で連絡しなかったの、やはり、愛する人が出来たのが大きいのね。その後いろいろあって、今はつらいの」
美奈子は、その「いろいろあった」ことなのか、思い出したことで顔が曇った。そして、さらに心の内を話し始めた。
「私、いま、すごく苦しいの。主人のことで悩んでるの」
「ご主人のこと?」
「ええ、まあ、主人の浮気ね」
「ご主人は、バンコックに単身赴任してるんだね」
美奈子は、さらに顔を曇らせた。
「私は、今でも主人を愛しているのよ。単なる浮気なら、まだいいんだけど。本気なのよ」
「相手は、タイ人?」
「ええ、そう、主人の会社の現地スタッフの女よ」
「単なる浮気ではなく、本気になっちゃったのか」
隆は、複雑な気持ちだった。美奈子にそんな思いの話させるなって、なんて奴だと思う。
「私は別れたくないんだけど、主人はその女に惑わされているのよ。確かに若くてきれいで仕事もできる女なのよ」
愛し愛されて結婚した商社マンの夫がバンコックに単身赴任中現地の女性と恋仲になり、美奈子に別れ話を持ち出したそうだ。異国の地の異国の女性は男を惑わす非日常性の不思議な魅力がある。男を引き付ける磁力を発散する絹の羽衣のようなオーラでもまとっているのだろうか。
隆もタイの若い女性の魅力にはまったことがないわけではないので、旦那の気持ちはわからないではなかった。
美奈子は夫への愛を失ってはいなかったので、別れ話に焦燥していたのだ。その悩みを聞いた親友の美登里は言う。
「私、簡単には言えないけど、旦那の気持ちは貴女にはないのでしょ。一緒にいる意味ないじゃあない。でも、どうするか決めるのは、貴女ね。一度バンコックへ行って、直接旦那と話し合ってみたら?」
既婚者である親友の美登里は、何度も美奈子と会って、悩みを聞き、相談に乗っていた。夫と別れる方が美奈子にとっては良いと思うがそう簡単に割り切れる話ではないとも思うのであった。
しかし美奈子にとって親身になって話を聞いてくれる美登里の存在は大きかった。いろいろの助言を胸にしまって、夫と話し会うためにタイへ向かったのであった。
美奈子は一人バンコックへ向かう機中で、気を紛らわすためにソニーのカセットウオークマンで大好きな「ユーミン」や「竹内まりあ」を聞いていた。1980年の中野サンプラザでの「竹内まりあ」のコンサートに同じ趣向の美登里と一緒に行くほどの「シティポップ」ファンであった。
「ユーミン」の作る曲はどれも大好きで、この年に発売された「PEARL PIERCE」というアルバムをカセットにコピーしていた。その中には「昔の彼に会うのなら」という曲があり、結局は会いに行かないという結末の歌詞だったが、この日は歌詞とはうらはらな展開になった。
隆は、美奈子に明日一緒にビルマに行かないかと思い切った提案をした。英一もその提案を強く後押しした。
隆は
「実は、俺たちは日本でのビルマ風寺院建設のための調査で、何回かビルマのパガンに調査に行ってるんだ。パガンはすごくいいところなんだ。大平原に、めちゃくちゃ沢山のパゴダがあるんだ。不思議な光景なんだよ。バンコックからならそう遠くないよ」
英一は
「そういえば、美奈子さんが拝んでいたエメラルド寺院の仏陀は翡翠らしいけど、多分その翡翠はビルマで取れるらしいんだよ」とビルマへの関心をあおるのだった。
隆は、パガンのパゴダ林立風景の小サイズのカラープリント数枚を美奈子に見せた。
今度は英一が
「絶対に、美奈子さんが今まで見たことの無い世界なんだよ」
二人はパガンについて熱く語った。
「そうなの?それなら、行ってみようかしら」
「ああ、ぜひ行こうよ。案内するからさ」
隆は、美奈子の前向きな返事にそう言って、嬉しそうにうなずいた。
博識な美奈子はパガン遺跡の存在は知っていたが詳しくは知らない。二人の熱い言葉から、きっと素晴らしいところなんだろうなと興味を掻き立てられた。
タイからの観光旅行の短期渡航ならビザがいらないので、美奈子は沈み込んでいる気持ちを懐かしい隆と知らない国に行くことで、変えてみようとビルマ訪問について行くことにした。
つづく




