第五章 香音との新たな暮らし、そして初めてのパガン
この章で触れた楽曲、演奏者
■夢で逢えたら/吉田美奈子
「嶋田さん、あなたの絵は素敵ですね」
「漆原さんは、絵をかかないのですか?」
美大在学中の会話である。
隆は1976年に デザイン会社も辞めて独立した。この年に美大の同期の絵画科の嶋田香音と結婚した。
美大在学中から香音をなんとなく意識していたが、麗奈との半同棲が破綻した1年後くらいから、改めて香音を強く意識し出した。
香音は、八王子の本屋の一人娘で、大学時代は同じ美大の女子学生と共同で借りた都内の低家賃の木造アパートから美大に通っていた。
香音は、美人というより個性的な顔立ちで人を惹きつける魅力があり、ストレートヘヤーが似合っていた。美奈子とはタイプが違うが、隆の好みの範疇であることは間違いなかった。彼女は、おおらかな性格で隆とは相性がよかった。
卒業後に元クラスメート同士の飲み会があり、隆はその席で思い切って香音に付き合ってほしいと伝えた。隆もこの歳になると麗奈との恋愛経験から交際申し込みはスンナリできるようになっていた。在学中から、お互いに馬が合うことは認識していたので、香音はあっさりと隆の申し出を受け入れ、交際が始まった。
そして、四年ほどの穏やかな交際ののち、穏やかに結婚した。
隆は自動車にも興味があり、18歳で免許を取っていたが、24歳になって安価だった中古の「ホンダZ」という軽自動車を購入していた。360㏄水冷4気筒5速マニュアルという特異な癖のある車で、扱いも難しかったが楽しい車だった。
香音との交際中にはその車で何回も二人でドライブしていたが、ある時その車で京都に旅行した。お寺巡りの後で奮発して予約した東山にある高級ホテルにチェックインし、そのゆったりした贅沢なホテルライフを楽しんだ。そして二人は自然の流れで初めての夜を迎えた。
香音は昼の穏やかなふるまいと異なり、結構激しく燃えて隆を喜ばせた。決してグラマーではないが、それなりに魅力的な肢体で、もちろん隆はその裸体を撮影した。
「香音、香音は優しいね。俺は、そのやさしさに惚れたんだ。包まれている気分だよ」
「まあ、そうなの。せいぜい包んであげるわ」
「香音、一緒になろう」
「そうね、いいわよ」
そうして1974年の隆が27歳の時に二人は結婚し、平和な夫婦生活を始めた。ただ、生活は厳しかった。隆は写真作品をコンテストに応募し続けたが、なかなか入選せず、事務所の売り上げも芳しくなかった。香音もアルバイトなどで家計を助けていた。
香音は、隆が描く絵や写真作品は、豊かな感性によるものだと評価していた。理屈ではなく、感性なのだ。
隆の写真作品には女性のヌードもあったが、まったく気にしてないどころか、的確な評価を下していて、同じ芸術家として相互に協力する関係であった。
香音は、隆の心の中に思う人がいるのだろうということは何となくわかっていた。女性のポートレート作品の中に、その人がいるのではないかと予想した。しかし、単純なやきもちを焼く女ではなかった。
香音は隆が良い作品を作るように陰ながらサポートしている。
隆は香音自身の作品も評価していた。様々な色の油絵の具をペインティングナイフでキャンバスに規則的にこすりつけた抽象画などを描いていた。油絵を始めたころは、具象的な絵をかいていたが、だんだんと抽象画に変化していた。
その絵を見た人が、これは何を書いているのかと香音に尋ねることもあったが、何を書いてあるかを探っても意味はない。その絵から、何を感じるかが大事なのだ。そこに見た人を感動させる何かがあるかどうかが芸術としての評価の分かれ目である。
「香音、最近の作品はいいね。もう、俺よりずっといい絵を描くんじゃあないの」
「あなたは、まだ絵を描くつもり?写真家じゃあないの?」
「そりゃあ、最近は写真とグラフィックデザインが多いけど、たまには油絵も描きたくなるよ」
「だったら、描きなさいよ。わたしの筆とパレット使っていいわよ。」
隆は高校時代に描いたヴィーナスの絵と美奈子の手紙を思い出すが、結局、油絵を描くことは無かった。
そんな二人はよく上野の美術館に出向いて、いろいろな分野の作品を見に行き、カフェで作品の評価を論じることが共通の楽しみだった。喧嘩をすることがめったに無いほんわかした関係の夫婦だった。ただ、香音は隆の心に何か秘めたる思いがくすぶっているのを見抜いてはいた。
1976年の秋に、国立西洋美術館で開催の「ゴッホ展」を二人で見に行った。
香音は隆に言う。
「やはりゴッホの絵は個性的よね。オリジナリティがあふれている。でも、生前はほとんど評価されなくて亡くなってから認められたというじゃあない。あなたの写真も死んでから評価されるかもしれないね」
「そうかもね。お前の絵も同じじゃあないかな」
二人で笑いながら冗談を言い合った。
「ゴッホ見てたら、また油絵を描いてみたいと、ちょっと思ったよ」
「だから、描けばって言ったでしょ。なにかこだわってるの?」
「こだわっているわけじゃあないけど、高校時代にサムホールサイズの油絵作品をせがまれて人にあげたことがあるんだ。まあ、よい思い出なのさ」
「ふーん」
香音はそれ以上、聞きだすことはしなかった。
隆と英一は「音楽」というものから縁が切れない。ライブに時々いくことがある。1977年の中野サンプラザでの「吉田美奈子」というJポップシンガーのライブコンサートに行ったのは、英一がプロのバンドとの交流から吉田美奈子の関係者と縁ができ、LPアルバム「MINAKO」を手に入れてきてそれを隆に貸したからだった。
隆も美奈子と同じ名前だからというわけではなく、彼女の独特の歌声に魅せられファンになった
翌年の1976年にリリースされたこのアルバムの中の「夢で逢えたら」は、その後も長く聞き続けていたが飽きることはない。なんと、現在でも大手不動産会社のCMに利用されているのは驚きであるし、この会社のセンスの良さと判断力は評価できる。
しかし、同じ名前というのは、やはり縁を感じ、応援したくなるものである。もちろんライブで吉田美奈子の歌を聴きながら、瀬尾美奈子のことを思い出す隆であった。
二人は、サンプラザの公演の後はやはりいつもの「十番」に行き、ビールを飲みながらステージの感動を語り合った。
その晩、隆は英一を家に誘った。
隆は、自分の部屋に入ると、引出しからそっと古い封筒を取り出した。「美奈子」で思い出したのだ。
「高校二年の時に瀬尾さんに俺の絵を上げたのを覚えているかい」
「ああ、覚えてる」
「その時に瀬尾さんから感想の手紙がきたことは言ったけど、見せたことないよね」
「ああ、梶井基次郎のような絵だとか、そんなことだったね」
「そう、俺の絵が感性に溢れてる、梶井基次郎を絵にしたようだっていう内容なんだ」
と言って、その手紙を英一に見せた。
「ああ、『檸檬』の梶井基次郎だよね?」
「英一は梶井基次郎のことは、かなり知っているんだよね?」
「ああ、知ってるよ、知る人ぞ知る作家だからね」
「俺も、この間御茶ノ水に一緒に行ったとき、丸善で『檸檬』買ったんだ。」
「そうだったね、読んだんだろ」
「読んだんだけど、その良さは充分にはわかってないんだ」
英一は、美奈子の手紙をすべて読んで、
「いいねえ、瀬尾さんってすごいじゃん、もっと付き合えばよかったんじゃあない?」
「そうなんだ、この頃になって後悔している。でも、香音への愛がなくなったわけじゃあないんだ」
「そうだろうね、香音ちゃんも素敵だし」
美奈子がいまどうしているか二人して思いめぐらせていたのだった。
同窓会で美奈子の友人の美登里から、彼女が職場結婚したことや、勤務先の商社の社長秘書に就いていることも聞いた。二人は、あの美しく聡明な美奈子ならそういうこともあるだろうと意外ではないと思った。
二人とも美奈子に会いたいと思ったが、その度合いは隆と英一では温度差がある。
英一は、設計事務所として苦戦していた。ハンサムであることは多少は仕事にプラスだが、営業効果アップの決定打にはならない。
英一は、なかなか家を建てたい人からの直接の設計の受注が取れず、やむなく低料金で工務店の下請けをおこなっている。実はこのことは自分の首を絞めることになるのだが、背に腹は代えられない。妻と暮らしていくには仕事を選ぶ余裕はなかった。
そういった仕事でも、建て主と直に打合せすることがあるが、ときとして工務店の利害にそぐわない正論を述べて、工務店から嫌われる。
工務店からの依頼の場合、工事監理は受けないことが多いが、たまに受けたときには、不適切な施工を指摘するので、やはり嫌われる。よって、そういう仕事も少なくなる。
「風間さん、あんたはこちらが仕事をお願いしてるんだから、しゃちほこ張ったこと言わないでくださいよ。」
「そう言われても、私は、正規の工事監理者ですから、法律に沿って指摘すべきことは指摘しなくては行けなんですよ」
この業者は、その後も英一の指摘を真摯に受け止めず、これ以上工事監理者を続けられないとして、この仕事から降りるのだった。
「工事監理」とはよく「工事管理」と間違われるが、現場などで設計通りに施工されているかをチェックする大切な法律に規定されている業務である。同じ利害関係にある施工会社の人間が的確に施工ミスを指摘することはなかなか難しい。
また、工事費の中に設計業務の人件費などの作業分は盛り込んでいても、見積書には設計料を不当に低くして表示し、設計事務所から仕事を奪っている設計施工業者の多い現実に悩まされる。
英一は、建築士関係の団体の会員になり、この不条理の解消を訴えるが、会員には設計施工業者も居て協会内で奮闘しても理解者は少なく、思うような成果は見込めないでいた。後に、このことから協会を退会することになる。
1977年の二十八歳の時、隆は急死した戦中派の父親の代わりに父の戦友たちとビルマ各地に慰霊旅行で訪れた。戦跡ではないもののパガン遺跡もコースに組まれていた。
隆は、無能な指揮官の下で多くの日本兵が無駄死にした事実を、各地の戦跡を訪れて知った。生き残った日本兵の証言をもとにドキュメンタリーを記した最近の遠藤美幸氏の著作にも様々な不条理が記されている。
しかし、隆はその悲劇よりも千年の歴史のあるパガンの仏教の痕跡に心を奪われてしまった。
「なんだ、このパガン!まるでデジャブーじゃあないか」
隆は思わず小さく叫んだ。
現地ガイドの案内で、パガンの仏塔群が一望できる大きなタッピンニュウ・パゴダに登ってみたが、そこから見ると大平原に無数の仏塔が林立している様子が見えて、初めて来たのにそれは何か夢で見たことのあるようなデジャブーのような景観に思えたのだった。
日本語ガイドは
「シノハラさん、どうですか、この寺院は高いので、パガンの沢山のパゴダの様子がよく見えるでしょう」
「そうですね、素晴らしいですね。こんな景色見たことないです。」
「夕方なら、この寺院から夕日が沈むのを見ると、もっといいですよ」
隆は大いに感動し、写真を撮って廻る。貴重なフィルムを無駄にしないように、しかしなるべく多くの様々なパゴダ、寺院を撮影した。仏塔は小さなものを含めると三千にもなるという。パガンでは一泊だけの短期滞在だったがこのほかの有名な「アーナンダ寺院」や「シュエジゴンパゴダ」等をいくつか巡り、パガンのすばらしさにほれ込んだ。特に煉瓦造そのままの「ダマヤンジーパゴダ」は一番のお気に入りになった。
隆は、ビルマの人々がおおむね日本人に好意的なことに不思議な感じがした。戦中に日本はビルマに進軍し占領したのに、敵対心を持つ人に出会うことがなかった。そんなに単純な話ではないが日本が進出する前にイギリスが植民地支配して、それを同じアジアの日本が追い払ってくれたというような感覚があるらしい。
同じ仏教徒ということもあったかもしれない。隆が会うビルマ人は皆、やさしかったのだ。広い心を持つようにと言う仏陀の教えもあったのだろう。
「ビルマの竪琴」という本は、僧侶が竪琴を引くなどあり得ない設定でビルマ人には評判は良くない。ビルマに行ったことの無い作者が書いた話だが、ここに書かれているビルマ人の信心深さは間違いではないだろう。
ビルマは南の国で基本的に暑い。しかしラングーンに比べてパガンは湿気が少なく、暑くてもいくらかは過ごしやすい。そういう地域だからパガン王朝が栄えたと言われる。
パガン訪問の翌年に隆が雑誌に投稿したパガンやビルマの写真を見たある企業から日本でのビルマ風の寺院建設の計画があり、協力してほしいとの依頼があった。当然建築士の力が必要であろうからと、英一のことを紹介した。
隆は、この依頼に大喜びだった。ふたたび、あのパガンに行けるのだ。
隆はパガン訪問が決まったころ、英一に「人間仏陀」という本を貸した。
「これ、読んでみるといいよ。ビルマは仏教国なので何か参考になるところがあると思う。盲目的な仏教信仰ではなく、仏陀が人間としていかに素晴らしいか、本当の仏陀の教えとはどういうものかを教えてくれる本だよ」
「おお、そりゃあ、興味がわくね、ありがと、借りていくよ」
隆は1970年の大阪万博でも、月の石は見ないでインドなどのアジアの仏教国のパビリオンばかりを見て回ったが、理屈ではなくて仏教絵画に惹かれていた。隆の父は、ビルマ戦線に駆り出されていた元兵士で、その辺も影響があったのかもしれない。
日本も仏教国だが、アジアの仏教国の信仰具合は大分違うのである。
ビルマの僧侶は僧院にて修行し、寺院を保有したりしない。毎朝托鉢し村人が施してくれた食材で食事をとる。食事は午前中に限られる。厳しい戒律を守り、ストイックな生活を続けるのである。
一方、日本では「お寺も商売ですから」と平然と話す坊守がいたり、幼稚園や駐車場を経営したりしている。日本の各宗派の中にも、そのような状況に疑問を持ち、本来の仏陀の教えに忠実に仏道に励む宗派や僧侶もいることはいる。中には、ビルマに修行に出向く僧侶もいるのだ。
1978年には、隆より先に結婚した英一に子供ができた。女の子であった。妻幸代共々、大いに喜んだ。英一は生まれる前は淡々としていたが、いざ新しい生命が誕生すると、ガラッと変わって子を持つ喜びを実感し、隆に仕事に張り合いができたと嬉しそうに語っていた。
寺院プロジェクトでのビルマ訪問を前に大いに張り切る英一であった。
つづく




