第三章 美奈子が佇む哲学堂公園は、宇宙の入り口?
この章で触れた楽曲、演奏者
■ローリング・ストーンズ
■ヤードバーズ
■バスストップ/ホリーズ
■ビコーズ/デーブ・クラーク・ファイブ
■ハーマンズ・ハーミッツ
■エルビス・プレスリー
「瀬尾さん、写真のモデルになってください」
「ええ、漆原さん、いいわよ」
美奈子は隆との文化祭での再会でモデルになることを了解し、1969年の秋の日曜日に中野の「哲学堂公園」で撮影することになったのである。
そして、その約束の日、隆はニコンFと二眼レフのマミヤを持って、待ち合わせの中野駅に向かった。美奈子を待たせてはいけないと思い15分前には駅に着いた。駅で待つ間に、昔のほろ苦い思い出がよみがえった。
バイト先で知り合ったチャーミングな女性に写真モデルをお願いし、この中野駅で待ち合わせしたが、すっぽかされたのだ。30分待っても来ない。連絡先も知らない相手だった。
以外にあっさりとお願いを聞いてくれた女性の気持ちをつかむのはそんなに簡単ではないことを認識した。駅に備えられた伝言板にメッセージを書く気持ちも起きず、がっかりして帰宅したのだった。
でも、さすがに美奈子は違った。5分前には改札口に現れ隆の不安は消滅した。美奈子は隆を見てほほ笑んだが、その顔つきから機嫌はよさそうに思えた。
美奈子は、質素な黒いハイネックセーターとやはり黒いスカートで現れた。隆は、彼女を撮影できるだけで嬉しくて、着るものに注文付けるような余裕が無かったのである。結果、彼女の好みに任せていたが、この日のファッションは、好感が持てた。
「瀬尾さん、今日はありがとう。新しいカメラで、自分の感性でいい写真が撮れるように頑張るからね」
「ええ、頑張ってね。あなたの感性に期待してきたんだからね」
駅で会ってバスに乗る前に、美奈子は隆に
「美奈子って呼んでいいのよ」
と笑って言ってくれた。
広い敷地の哲学堂公園には、有名な「時空岡」という広場のあたりから離れた「妙正寺川」沿いに雑木林の静かなエリアもある。この辺りの状況を知っている隆は、あまり人通りがないこの場所を選んだ。
「美奈子、さん、ここなら落ち着いて撮影できると思うんだ。あらためて 今日は、宜しく!」
「はあい、こちらこそよろしく。『さん』はいらないわよ。素敵に撮ってよね」
隆は、すでに紅葉が始まっている秋の静かな一日をだれにも邪魔されずにできるだけ多くのシャッターを押すつもりでいた。多少の人通りはあるが、だれも男女カップルが写真を撮っていることにはあまり気にしないようだった。
一昨日は雨で、この日も天気が心配だったが晴天とはいかないものの、まずまずの空模様で一安心。かえって日差しが強くない方が撮影向きである。
6×6版二眼レフとニコンの35㎜一眼レフとそれぞれ用のモノクロフィルムを用意していた。カラーフィルムは高価で、現像料もモノクロより高いので手が出ない。モノクロフィルムなら自分で現像もできる。
隆は、そのモノクロフィルムでも節約していた。ヨドバシカメラでコダックの35㎜用100フィートの缶入りフィルムを買って店頭に置いてある無料の使用済のパトローネをもらい、すべての明かりを消した自分の部屋で、手探りで36コマ枚分に切断し仕込んだ。十本以上は取れるのであった。
もっぱら解像力の高いニコンで撮影したが、マミヤも三脚に据え付け、美奈子の顔をアップで狙う。ファインダーの反転を錯覚した後で、大きめのファインダーに写る素顔のほくろの反転にも気が付いたのだった。
哲学堂公園にはさまざまな木々や植物が生えていた。特に妙正寺川沿いには大小の樹木が群生していた。美奈子に雑木林の中に入ってもらったり、起伏のある丘への階段前でポーズしてもらい撮影した。
「美奈子、もっと笑顔を頂戴。そして、時にはすまし顔もお願いね」
「はいはい、ご指示通りにしますよ。これでどうかしら」
美奈子はモデルとしていやな顔もせず隆のリクエストに従ってあちこち場所を変え、表情を変えカメラの前に立った。どちらかというとプライドの高い美奈子がこの日は素直に隆の指示にしたがった。
時には髪の毛を両手でたくし上げ、挑発するような視線を隆に投げていた。勘違いしてしまうような美奈子の大胆な姿だった。
隆は構えた二眼レフカメラから目を離し、
「美奈子、今度はまたニコンで写すからね」
「了解!どんな風に違うのかしらね。とにかく、言う通りに動くわよ」
美奈子は隆がニコンを準備する間、興味を持った二眼レフカメラをいろいろ触り、ファインダーを覗いていたが、しばらくして少し小さな声で叫んだ。
「まあ、なによ、これ、左右が逆なのね。それで私に逆方向の指示出したのね。それでわかったわよ」
ニコンで撮影再開した隆は、レンズをまっすぐに見つめる美奈子の瞳のきらめきに引き込まれてしまうのだ。
美奈子は単なる美人ではない個性的な魅力を持つ女性だった。二重瞼の整った顔立ちで、化粧などは一切しない素顔でも自然な美しさを表している。この日もほとんど素顔だった。肩までのびた髪は自然なウエーブで、染めたりはしていない。
「隆、着ているものは適当に選んだけど、これでよかったかしら?」
「ああ、いいよ、似合っているよ」
隆は、撮影にあたって美奈子の装いについての一切の注文を付けなかったが、黒っぽいセーターに膝上5センチほどのミニスカートのシンプルさは隆も気に入った。
三脚を据えていろいろなポーズを頼んで撮影していった。ファインダーの美奈子のいつもと違う横顔に見とれながらシャッターを押し続け、彼女の魅力的な姿を一枚一枚フィルムに焼き付けていくことに、ほのかな興奮を覚えた。
秋のさわやかな風の中、あちこちと場所を変えながら撮影を続けて行く。
美奈子はポーズをとりながら隆に尋ねる。
「ねえ、この公園にはたくさんの花があるんでしょう?」
「ああ、あると思うよ」
「隆は、どんな花が好きなの」
「そうだな、「コスモス」くらいしか知らないよ」
「『コスモス』は、確かにきれいだよね。確か、『宇宙』という意味もあったと思うわ。他にはないの」
「ああ、すぐには思い浮かばない」
隆は、薔薇も、つつじも、チューリップも、キンモクセイも、スイレンも知ってはいたが、撮影に集中したいので、適当に答えてしまった。色彩に敏感な隆はつい先日行った浜離宮で見たコスモスのカラフルさが印象に残っていたので、ついそう答えたのだった。
「なによ、花には疎いのね」
美奈子は続けて
「でも、隆は音楽には詳しいもんね」
「ああ、リバプールサウンドのグループならたくさん知っているよ」
隆達が二年生の時の1966年は「ビートルズ」初来日の年で、日本武道館で30分程度の短いライブ演奏を数回おこなった。
この前後、多くの若者がこのイギリスの新生グループのとりこになっていた。このバンドは1962年にデビューしてから、今までにない革新性で徐々に世界に知れ渡るようになっていた。
親友のバンド仲間の風間英一は、
「隆、ビートルズはすごいね、よく聞くとコード進行が革新的だよ」
「ああ、そこまでわからなかったが、今までの洋楽とは全く違うね」と隆。
「あ、女の子が大騒ぎしていてミーハー的なのかと持ったら、曲の作り方がすごいよね」
「そうだよ。今までのポップスとは違うよね」
それまでの欧米ポップスは「エルビス・プレスリー」に象徴されるが、レコード会社やプロダクションが用意した楽曲で歌手やグループがプレイするという、いわばお仕着せのスタイルが普通であったところ、ビートルズはじめリバプールの音楽好きの若者は自らの手で曲を作り、演奏するという革命を起こしたのであった。
その波はしばらくしてイギリスから日本に押し寄せてきて、日本の若者にも刺激を与えた、
隆や英一達は、それ以前の「ベンチャーズ」スタイルの学内エレキバンドを組んでいたが、イギリスのリバプールサウンドの洗礼を受け、彼らを夢中にさせていたのだった。隆は、その影響から作詞作曲に励み、高校時代には十曲ほど完成させていた。もっとも英一以外のバンドメンバーの連中は隆の曲をあまり評価してくれなかった。
日本の多くの若者がビートルズになびきはじめると、英国に多くのロックバンドがあることを知っている隆は、もっと他にもいいバンドがあるぞと、言いたくなる。
隆は、「ローリング・ストーンズ」や「ヤードバーズ」などはもっと知られても良いメジャーなバンドと思っているが、日本ではあまり知られていない「ホリーズ」を特にひいきにしていた。クラスの仲間に、このバンドの名前を言っても誰も知らないことにがっかりした。しかし、「ローリング・ストーンズ」はやがて日本の音楽好きの若者で知らない者はいない存在になり、「ミック・ジャガー」は今でも現役でステージをこなしている。
この年の8月にはウッドストックという歴史的ライブイベントがあったが、隆たちはその模様はしばらく後で知ることになる。
美奈子も在校時には時々隆と英一と音楽の話をすることがあったが、彼女もまた西洋音楽ファンであった。
「私は、『デーブ・クラーク・ファイブ』や『ハーマンズ・ハーミッツ』も好きよ。『ビコーズ』なんて泣けるわよね。メロディが素敵」
「結構渋いところ、知ってるね」と英一。
当然ながら皆「ビートルズ」が一番なのだが、彼らだけを聞くことはせず、幅広く米英音楽に興味を持っていて、文化祭の後の喫茶店での隆のマニアックな話にも興味を示していた。そこにも美奈子の感性の広さに感心したのだった。
そんな話をしている隆の頭の中で、「ホリーズ」の「バスストップ」が流れていた。
この曲は、イギリスでヒットしてから60年近くたった2024年のテレビドラマ「何曜日に生まれたの」のテーマ曲に採用されていたが、歳を重ねた隆は、そのドラマを見ながら自分の生まれた日は(木曜だ、鼠だ)とつぶやきながら、どんなに時が流れても良い曲は色褪せることは無いと改めて思うのだった。
美奈子はいろいろなポーズをとりながら、
「ねえ、コスモスしか知らない隆君、ほかの花も教えてあげるから、写真撮り終わったら公園を廻ってみようよ」
「ああ、いいよ」
隆は持ってきたフィルムを使い切ってしまったので撮影を終わらせ、
「残念ながら、もうフィルムがないのでこれで終了だ。美奈子、お疲れさま、ありがとう」と言って、カメラをバッグにしまう。
「もっと撮ってもらってもよいけど、フィルムがきれたんじゃあ、しょうがないわね。お疲れさま」
美奈子は、真剣にひたすらに自分のことを撮影してくれた隆に少し感動していた。帰り支度している隆の背中越しに軽く抱きついた。
「ご苦労様、どんな写真ができるか楽しみね」と言って、今度は前に廻って隆のほほを両手で挟んで軽くキスしてきた。
「お礼の、ご褒美よ」
いままで、美奈子とのキスまでは想像したことがなかった隆は驚いたが、嬉しくてすこし控えめにキスを返した。
美奈子の提案通り、撮影の後で公園内を廻ってみた。隆は軽いキスを許してくれた流れから美奈子と手をつないで歩きたかったが、言い出せないまま並んで園内を廻った。広い敷地に、さまざまな花や樹木があり、美奈子は自分が好きだという花を見つけて隆にその名前や哲学的なコメントを話していった。しかし、ここにはコスモスは見当たらなかった。
階段を上り「時空岡」と名付けられた広場に出ると、いくつかの木造の特徴的な建物があった。美奈子はある建物の前で立ち止まり、小さく叫んだ。
「隆!隆!ここに『宇宙館』という建物があるわよ。コスモスよ、花はないけど『宇宙』があったわよ。」
「ええっ、そうなの、すごいね」
「四聖堂」や「六賢台」などの哲学に関したこれらの木造建築は大正や明治時代の建造で、かなり時代を感じさせ、傷んでいるところもあったが、これらの建物に囲まれた広場は不思議な空間であった。美奈子は説明文を見ながら、一つ一つ感心し、楽しんでいた。
そこに、一瞬風が吹いてきたと思ったら一人の老人がやってきて、二人に声をかけてきた。公園の管理人なのかわからなかったが、
「お二人さん、この広場の真ん中で目を閉じてごらん。二人だから手を繋ぐといいよ。そうやって目を閉じたら何かが見えるかもしれないよ」
二人は自然の流れで手をつないで目を閉じる。
隆にはしばらくして頭の中で多くの星々が瞬く夜空が見えてきた。一方、美奈子には、雲に乗ったお釈迦様が自分の周りをぐるっと廻っているような景色が見えていた。
二人は頭の中の不思議な光景にしばらく見とれていたが、数分して目を開けると。いつの間にか老人はいなくなっていた。
二人は、見たものを言葉で説明できないような、おぼろげな物であったので、伝えられないとは思ったが何とか見たものを話してみた。
「美奈子、何か宇宙みたいのが見えてたよ」
「隆、私は何か仏教画のような、お釈迦様が見えたわ。何でだろう、不思議だわ」
ただ、二人ともその体験は何か心地よいものであった。
その後、木々の生い茂る広場の周りの小道を歩いてみたが、さっきの老人はいなかった。
隆は、やはり花や建物のことより、今日撮影したフィルムの現像の結果、美奈子の魅力をしっかり表現できているのかどうかに気持ちが行ってしまっていた。
そんな隆の心情を理解したのかどうか、ひと通り廻ったところで散策を終わらせることにし、バスで中野駅まで行き、駅近くの喫茶店に入った。
二人とも無事に撮影が終えたことをそれぞれほっとして、コーヒーを飲みながら雑談を交わした。
隆は
「今日は、ありがとう。現像するまで良い写真が撮れたかどうかわからないけど、多分、大丈夫だと思う」
「出来上がりが楽しみね。今日の哲学堂公園は、なかなか楽しかったわ。いい場所を選んでくれたのね。」
「何回か行ったことがあって、古い建物の事は良く知らなかったけど、雑木林で静かに撮影できそうなので選んだんだ」
「コスモスしか知らない隆なのに、宇宙館がある場所を知らずに選んだのね。何かの力で引きつけられたんじゃないのかしら」
「ああ、そうなんだろうか」
「あなたも、不思議なパワー持ってたりしてね」
隆は苦笑いし、美奈子と知り合いになったきっかけの話をする。
「それで、あの君にあげたヴィーナスの絵はまだ持っている?」
「あたりまえでしょ、大事にしてるわよ」
「絵をあげた後で手紙くれてたよね。この間お茶の水に英一とベースギター買いに行ったあとで丸善書店に行って梶井基次郎の『檸檬』を買ったんだ。しかし、なかなか難しかったよ」
「そうね、感性第一の人には、梶井の言いたいことは判らないかもしれないわね。私だって十分に理解しているわけではないわ。」
「健康な大人の話ではなかったね」
「そうよ、梶井は結局自殺してしまったんだから、やはり心の病みたいなものをもってたんだわね。隆は、そういう病的な精神とは無縁の、天真爛漫なところもあるし、梶井のことを理解しろと言うのは、無理かもね。」
梶井は病死だったのだが、梶井の文章での病的な精神描写から美奈子はそう思い込んでいた。
「そう言われれば、自殺何て全然思いもしないよね。美奈子はそんな気持ちになるのかな」
「自殺何て考えないけど、だれでも心の闇があると思うわよ。あ、隆はそんなこと気にしないで、いい写真撮ったり、いい曲を作ったり、そんなことに夢中になってよ。感性を磨いてね」
「ああ、そうするよ」
隆は、気持ちがやや不消化だったが、話を変える。
「それで、フィルムの現像、焼き付けは、少し時間がかかるけど終わったら連絡するよ」
「ええ、楽しみに待っているわ。よろしくね」と美奈子。
そういった会話を交わした後、二人はそれぞれの自宅に帰っていった。しかし隆が美奈子と再び会うのは相当に後のことになるのだった。
なぜ、美奈子は それまで学内でもあまり口をきいたことがなく、そんなに目立ついい男としての評判があったわけではない隆の頼みを聞いたのだろうか……
それは、隆の絵画作品から隆の感受性のすばらしさに気が付いたからである。
隆がこの後ずっと美奈子の存在をかけがえのないものだと自覚するのは、そして愛を自覚するのは、この日の撮影にいやな顔をせずに、結構楽しんで付き合ってくれたことからである。自分への気持ちが少なからずあるものと思ったことである。更に、撮影を通じて美奈子の魅力をあらためて再認識してしまったことである。
隆は、つくづく今日は忘れられない日になったと思うのだった。
隆は、自分の暗室でフィルムを現像し、しっかり撮れていたことを確認する。
そのフィルムを引き伸ばし機にセットし、印画紙に焼き付けをする。バットに入れた印画紙から、徐々に美奈子の姿が浮かび上がってくる。この瞬間はいつもドキドキする。
そしてタイミングを失わないように注意しながら、バットから取り出して定着させる。乾かすためにその印画紙を吊るして、美奈子の姿を惚れ惚れしながら見つめるのだった。
つづく