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第一章 貴方の描いた絵は、梶井基次郎のようです

この章で触れた楽曲名

■ペルシャの市場にて

■引き潮

「美奈子!右、右だよ!」

「何よ、隆、右に行ってるじゃあないのよ!」

「ああ、ご、ごめん、そうだった!左だった、左です!」


 二眼レフカメラの上部にある5㎝角の大型のすりガラスのようなファインダーは、左右が反転して裏返しに映る仕組みなのだ。隆はそのことは理解しているはずなのに、瞬間的に錯覚した。

 隆は、ファインダーに写る美奈子の顔を見ながら、立ち位置の方向を指示した際のうっかりミスであった。


「美奈子、いいよ、そのまま、こっちを向いてよ」

「隆、ちゃんと写してるのね? まあ、言う通りにするわよ」


 隆は、落ち着いてファインダーを覗き、美奈子の顔をアップする。左頬にあるはずの「ほくろ」が右頬に見えて新鮮だ。


 隆のモデルオファーを受けた美奈子は、楽しみながらこの哲学堂公園で隆のカメラの前でポーズを取った。

 二人とも二十一歳になっていた、1969年の秋である。



 隆が初めて美奈子と会話を交わしたのは二年前の1967年の高校三年の時であった。 

 美奈子―瀬尾美奈子は、隆―漆原隆とはクラスは違ったが高校同期生である。その整った顔立ちの容貌から400名ほどの同学年生徒の間でも知らない者はいない美少女であった。

 隆もその美奈子のことは知っていた。しかしそれほど目立つわけではない隆には、美奈子は遠い存在だった。


 隆は絵が得意で、美術部に属していた。美術部の部室は授業が無ければ通常は生徒が通らない校舎のはずれの実習室の隣にあった。そこで、放課後は同じ部員の風間英一などと毎日会話を交わしていたが、どちらかというと音楽の話が多かった。

 三年生になった隆は美術部長になり、今までにない企画をいくつか立てた。例えば、「美術史展」と銘打って近代西洋美術史に残る主要な時代を選び、部員に割り当て、展示資料を作成させた。印象派やキュービズム等を選んだ部員を優先させ、隆自身はこの展示での初段階の「アングル」を代表とする新古典主義を選び写真集を展示し解説コメントをそえた。アングルの描く女性のリアルで美しい裸体に惹かれたこともあるようだ。また、各部員の作品発表の機会を増やすために部員展の企画を立て開催した。各部員は、それぞれ自由な油絵作品を描き、実習室に展示した。


 美奈子は文学が好きで、知識も豊富な才色兼備の美少女と言えた。美術にも関心があり、美術部員がそれぞれ描いたこの部員展をふらっと見学に来たのだった。隆はそれまで会話をしたことは無いが存在は十分に知っている美少女が会場にやって来ると、少しばかり意識した。


 美奈子は会場を見て回り、あるサムホールサイズの「ヴィーナス」の横顔をアレンジしたブルーのモノトーンの変わった作品に目をとめた。そして、魅せられた。


 その絵は、初めからそのような表現をイメージして制作したものではなく、ある意味で偶然に出来てしまったものである。既にその小さなキャンバスに描いていた絵が、そんなに気に入らなかったので、その絵をつぶすために「ミロのヴィーナス」の横顔を描き、下地の絵の筆跡を隠すためにブルーの絵具を一面に塗り、乾かないうちに筆で横になぞってできた作品であった。

 美奈子はその絵が欲しくなった。隆の作品と知ると、思い切って隆にその絵を譲ってほしいと言ってみることにした。


「あのう、篠原さんですか?あの「ヴィーナス」の絵を描いた方ですよね」

 美奈子は少し恥ずかし気に隆に声をかけた。

「ああ、はい、私ですよ、あの絵を描いたのは。私のことを知ってるんですか?」

 隆は美少女に声をかけられ緊張した。


「はい、バンドのメンバーですよね?文化祭のステージ見ましたので。それで漆原さん、あの絵、素敵ですよね。どうしてあんな絵を描けるのでしょうかしら」

「そうですか。ちょっと気に食わない絵の上から「ヴィーナス」の顔をかいてみたんですけど、気に入りましたか?」

 美奈子は、遠くを見るような目つきになって、少し首を傾けて話を続ける。

「はい、私あの絵に気持ちが吸い込まれてしまいました。感動しました。すごいですよね」

 隆は、その言葉に気持ちをつかまれた。

「ちょっと、勝手なお願いですが、あの絵を貰えませんか?」

「ええっ、あの絵が欲しいの?」

「はい、出来ればでいいんですが」

「そんなに良い出来ではないんだけど、気に入ったのなら、まあ、あげてもいいですが」


挿絵(By みてみん)


 いままで、別クラスでもありほとんど話したことはない美奈子の思いかけずの申し出に驚いた。美奈子と会話を交わしたのはこれが初めてであった。

 隆は、自分の作品をかなりの熱意でほしがる人がいること自体に戸惑った。そしていつかは話しをしてみたいと思っていた美人の美奈子からのリクエストは格別にうれしいことでもあり、すこし迷ったが譲ってあげることにした。


 同じ部員で親友の風間英一は、

「お前の絵を欲しがる奴がいるんだね、それもあの瀬尾さんがね」

 半分、やっかみみたいのもあったかもしれない。

「ああ、そうなんだよ。親戚のおばさんに描いた絵を欲しいと言われたことはあったけど、高校の女子生徒からいわれたのははじめてで、それもあの瀬尾さんからというのは少々驚いた。あの可愛い人から熱心に頼まれたんで、譲ってあげたよ」

 隆は英一に聞いてみた。

「英一よ、お前は瀬尾さんみたいなタイプは好みなんだよな?彼女に交際申込んだことがあるのかい?」

「あー、申込んだことは無いけど、声をかけたことはある。しかし、何も発展はしなかったんだ」

 少し安心した隆だった。


 絵を譲ってあげて四、五日して美奈子が隆のクラスにやってきて、手紙とお礼として最新号の美術雑誌を持ってきたのだった。

 隆はドキドキした。クラスの何人かは美奈子が隆のところにやってきたことに、すこし驚いていた。


 その手紙には

「あなたがあの絵で何を言いたいのか私は知りません。しかし、私にはあの絵が分かります。そして思うところあなたの感受性は素晴らしいと。私がとった勝手な解釈ならあの絵の中には詩があるということ。あの絵を見た時、頭の中に『梶井基次郎』が浮かび上がりました。……」

「『梶井基次郎』を絵にしたら、あなたが描くような絵になるのではないかと……」

「あなたの内部で生きることが表現であり、絵そのものであるようなことが貴方にとって必要になる時が来ると思います……」


 美奈子は、隆の感受性だけでなく、「ヴィーナス」の横顔を全く異なる美しさで表現したイマジネーションをも評価していた。


 隆は、初めから描こうと思っていた構想ではなく、やや偶然に生まれたものではあるが、最終的には自分の感性においてまとめあげたものではある。よって、その作品の評価を素直に受け止めた。


 隆は「梶井基次郎」については全く知識がなく、美奈子が言っている意味も十分に理解はできなかった。ただ、自らも感受性は高い方だと思っていたので、そのような評価は嬉しかった。


 美奈子は、おおげさな表情は出さない一見クールな女だが、心の中では情熱を醸成しているタイプで、この時も淡々としていたが、心の熱さは感じさせられた。校内でも人気のある女学生が自分のことに関心を持ってくれたことで、一気に彼女を異性として意識した。このことが縁で、学内でときどき会話するようになったがクラスが違うこともあり、交際に発展することはなかった。


 隆は美奈子の魅力に惹かれてはいた。惹かれてはいても、付き合ってほしいと言う度胸がなくそのまま卒業を迎えてしまう。それでも、時々廊下で美奈子と会う際の何気ない「絵画」や「音楽」の話は楽しいものだった。


 美奈子は、母子家庭の一人娘で、母親が働いて美奈子を育てていた。一人っ子だが中学生時代も反抗期を問題なく過ごし、素直に育っていた。そもそも知識欲が強く好奇心も旺盛で、成績もよかった。隆と同じ地域の都立高校に入学し、世界に対する好奇心のアンテナを張って、毎日の高校生時代を過ごしていた。

 感受性も豊かで、趣味も広く、毎日、様々な分野の本を読んでいた。勉強だけに励むというのではなく、放送委員会でアナウンサーも務めていた。よって、校内での知名度は抜群であった。


「ああ、瀬尾さんをデートに誘ったんだけど、だめだったよ」

 ある男子学生の玉砕宣言である。


 一方、隆はスリムで長髪のそれなりの見栄えの男子だが、学内で人気がある生徒ではなかった。普通の家族構成の一家の長男で、成績も美術以外はぱっとしない。ただし、知能指数は高く、人見知りがあるくせに自己顕示欲は強い。絵画的な表現力は高く、俗に言う「絵がうまい奴」だった。


 高校では絵の得意さから美術部に属し、西洋美術が好みで「アングル」から「ダリ」までの画家の全集などを購入していた。しかし、「ミレー」や大好きな「ダリ」のように緻密な絵をコツコツ我慢強く描いていくことは得意ではなかった。根性が、集中力が今一つなのである。

「ねえ、美術部の漆原さんて、結構素敵じゃあないかしら」

「えっ、貴方変わった趣向なのね」

「バンドのメンバーなのよ」

「ええっ、そうだったかしら、覚えてないわよ。風間さんなら素敵って思うけど」


 隆のファンは限られていたが、隆にもラブレターとは言えないものの、それを匂わすハガキをもらったこともある。1年生の時同じクラスで比較的仲良しのグループの中の女生徒が、隆が送った凝った自撮りの年賀はがきについて、「素敵な顔が、良く見えなくて残念」というようなコメントがあり、まあ、文面からして隆に気があることが伺えた。また、2年の時に体育祭のリレー競技で必死に走る隆に感動した下級生の女生徒が、「一緒にお菓子食べませんか」と言ってきた。隆はおどろいたが、自分好みのタイプではなかったこともあり断ってしまった。

「変わった趣向」の女子もいるのである。しかし甘い青春模様はこの程度で、付きあっているような相手はいなかった。


 隆は小学生の頃から親に買ってもらった簡易な「スタートカメラ」で写真というものに馴染んでいった。絵画を地道に描くより写真が手っ取り早いので、向いていた。写真でもシャッターチャンスをじっと待つたり、現像や引き延ばしの手間はかかるが、絵を描くのとはかなり違う。そして、一瞬の映像を切り取ることは感性の出番である。そんなことから自己表現ツールとして写真を選んでいったのである。


 隆は、また西洋音楽にもはまっていて、親友の英一が結成した校内バンドのメンバーにもなっていた。


 英一は、高校時代は勉強はよくできていて、好奇心も旺盛で、宇宙に関心が深く、その方面の本をよく読んでいた。アインシュタインの相対性理論をモチーフにした本、ジョージ・ガモフ著の「不思議の国のトムキンス」などが愛読書だった。

 かといってガリガリの頭でっかちではなく、音楽も愛し、隆と同様に英米ロック音楽にはまっていたので、校内でバンドを結成したのである。


 隆よりハンサムで、高校では女高生の間で人気があり、かなりもてていた。文化祭や予餞会でのバンド演奏では、隆を目立たなくさせるほどのオーラを発して、後輩の女生徒たちの熱視線を浴びていた。


「ねえ、風間さんて、頭が良いし、ギター演奏もかっこいいわよね」

「そうそう、私ファンレター書いちゃったわ」

 隆は、少し焼きもちを焼いたが張り合う気持ちはなく、他のバンドメンバー共々英一の人気を喜んでいた。


 英一は姉が一人の親子四人暮らし。父親が建築士で、母も看護師として働いていた。ただ、家計はそれほど裕福ではなかったが、家族そろっての応援もあり建築科のある理科系大学へ進学した。


 高校卒業後の1968年に、隆は美大に、英一は建築科のある私立大学に入学した。大学が違ってもバンドとしての活動は細々と続けていたので、二人は相変わらずの親友でいた。



 卒業を目前とした二月の予餞会では隆や英一と組んでいた校内エレキバンドでエントリーし、インストルメンタル曲を十曲ほど演奏した。「ペルシャの市場にて」、「引き潮」等のクラッシックやスタンダード、そして二曲の隆のオリジナル曲だ。


 その日の夕方の学校近くの喫茶店での打ち上げ会で、参加していたある女生徒が隆に

「ねえ、貴方、ギターを持っているけど、貴方は今日のメンバーにいたの?ほんと?気が付かなかったわ」と話すと、隣にいた英一が、

「こいつベースギターで、地味だから目だたなかったかもしれないけど、最後の二曲はこいつの作曲だよ」


 美奈子も隆たちのバンドが演奏するというので聞きに来ていて、打ち上げ会にも顔を出していた。

 隆は六人のメンバーだけのステージで演奏したのに、良く知らない女生徒に記憶に残ってないと言われてがっかりした。しかし、そばで聞いていた美奈子はすこし憤慨して話に割り込み、

「この人、ちゃんと居たし、この人が作った曲も素敵だったじゃない」

とフォローしてくれた。


 美奈子は、隆の自作曲を英一が多重録音で歌う録音テープを英一から借りたことがあり結構気に入っていた。隆は美奈子のその助け舟に愛情を感じさらに親近感を持ったが、美奈子が隆を異性として意識してくれたのかどうかは、鈍い隆には確証が持てなかった。


「梶井基次郎」を持ち出して、自分の考えを書き綴っていた手紙からは、美奈子の知識の深さと豊かな感性を示していた。隆は気おくれしたところもあったが、美奈子は一方で気さくで理屈だけで押し通すタイプではなかった。


 美奈子は自分より思慮が深いと思えない隆であっても感性と想像力の点は評価していたので、隆には友情以上の感情も持つようになったのであるが隆にその事を告げることは無かった。


 交際まで発展していたわけではないので、住所は校内名簿で分かるものの、電話番号を聞くまでの関係性はなく、卒業後はお互いに連絡を取り合うことは無かった。


 それでも隆は、美奈子のことは忘れることは無かった。



つづく




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次回以降も楽しみに読ませてもらいます。
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