(完結)
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パロル氏の顔の横に、人型のクッキーが立っていた。
パロル氏の鼻くらいの大きさだから、クッキーにしては少し大ぶりだが、やはりパロル氏から見れば、小さい。
これは、「ジンジャーブレッドマン」だ。
パロル氏は子どもの頃、絵本でこのクッキーを見たことがある。
イギリスに伝わる民話だったか、同じタイトルでさまざまな作家のバージョンによる絵本があった。
パロル氏はこの話が好きで、繰り返し母親に読み聞かせをねだったものだ。
人型に抜かれたショウガ入りのクッキー、すなわちジンジャーブレッドマンがオーブンを飛び出し、森へ逃げていく。
その道中、さまざまな動物や人間に食べられそうになるが、もちまえの俊足で難を逃れていく。
しかし、捕食者は次から次へと現れる。ジンジャーブレッドマンの運命やいかに? という話だ。
食べられることこそないものの、パロル氏の今の境遇も似たようなものだった。
——月給も厚生年金もなくした、俺の運命やいかに。
ジンジャーブレッドマンは、パロル氏の顔の横にぼんやりと立っていた。
絵本の中だとずっと走り続けていたが、今はただただ呆然としている。
走り疲れでもしたのだろうか。
和を思わせる竹林の風景の中に、こんな欧米めいたデザインのクッキーがいる姿も何だか奇妙だった。
——腹が減った。俺はこれを食べてもいいんだろうか。
こいつだって、頑張って逃げているというのに。
パロル氏は五秒待つことにした。五秒待って、こいつが動き出さなければ、いただいてしまおう。
だって、ひどく腹が空いているから。
パロル氏は仰向けに寝たまま、横目でジンジャーブレッドマンを盗み見た。
三秒数えたところで、ジンジャーブレッドマンはそのこんがりと焼けた脚をぐにゃりと折り畳み、天板に膝をついた。
こいつは、今、弱っているのだ。
パロル氏は、もう五秒待った。
そして、顔を横に向け、しゃがんだジンジャーブレッドマンを利き手で引き寄せ、口の中に引きずり込んだ。
バターがたっぷり使われた生地の芳醇な香り。
ショウガもピリリと利いていた。
口の中の水分が持っていかれるので、口内がもそもそする。
ああ、お茶が飲みたい。
紅茶がいい。
けれど、竹林にお茶なんてない。
それともデスクに念を送れば、湧き水のあるところにでも連れて行ってくれるのだろうか。
ジンジャーブレッドマンは、とても腹の足しになるような食料ではなかった。
でも、パロル氏は満たされるような思いがした。
ああ、ジンジャーブレッドマンって、こういう味だったんだな。
あれだけ絵本を繰り返し読んでもらっていたが、実際に食べてみようという発想があの頃のパロル氏にはなかった。
パロル氏がねだれば、このショウガ入りのクッキーを母親はおそらく焼いてくれただろう。
プレーンなバタークッキーは、よく作ってくれていたから。
製法はおよそ似たようなものだろう。
仰向けになって目を閉じているうちに、意識が竹林の底に沈み込んでいく。
デスクも眠くなってきたようで、脚を四つともぐにゃりと畳み、パロル氏を乗せたまま地面に臥せった。
【完】
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