フー・マンさんといっしょ
「ケンジ。いいひとに貰われていくのよ」
母さんのことばを憶えている。
ぼくがまだ幼稚園ぐらいの頃だ。母さんはそう言って、優しくぼくに母乳を与えてくれた。
ファームの仲間たちはみんないいやつだった。でもぼくは知っていた。大人になる前に、まだかわいいと言ってもらえる子供のうちに、ここを出て行かないといけないことを。そう、教えられていた。
でも不思議だったので、母さんに聞いた。
「どうしてママはここにいるの?」
母さんはぼくの拙いことばの意味をわかってくれた。
「わたしのような種類の人間はいいの、ここにずっといて、ここで死ぬのよ。でもあなたは出て行かなければいけない。出て行かないと……」
「どうなるの?」
「わからない」
そう言って、母さんはただ優しく微笑んだ。
「どうなるのかしらね」
母さんの母乳の味をまだ憶えている。
ぼくはまだ貰い足りていなかったのかもしれない。
ぼくがファームを出たのは七歳の時だった。
外にできたじぶんの部屋のハンモックで一人、ぼくが寝ていた時、フー・マンさんと初めて出会った。
おおきなおおきなフー・マンさんの顔が、空の上からぼくを眺めていた。
何か空に遠く轟音のような声がしばらく響いていたかと思うと、フー・マンさんの手が伸びてきて、ぼくの体を掴んだ。
ぼくは高く高く、空へ持ち上がっていった。
ぼくを見つめて笑うフー・マンさんのおおきな目玉はやさしかった。ぼくは一目で好きになったから、そのおおきな鼻の頭にふざけて噛みついた。
馴れ馴れしくしたのがよかったのだろう。ぼくはそれからすぐに、フー・マンさんの家に貰われていった。
フー・マンさんはやっぱりやさしかった。ぼくの寝床を作ってくれた。ベッドは綿がいっぱいでフカフカだった。
フー・マンさんのことばはわからなかったけれど、ひとつだけ、なんとなくそうかなと思うことばがあった。
【ふがし】
おおきな声をやさしくひそめて、ぼくに何度もそう言った。寝ているぼくを起こして抱き上げる時も、ごはんをくれる時もそう言った。どうやらそれがぼくの新しい名前らしかった。ぼくはケンジじゃなくなって、ふがしになった。
最初のうち、狭い檻の中で寝させられていたけど、そのうち外に出して貰えるようになった。外とはいってもフー・マンさんの部屋の中だ。
フー・マンさんの部屋は天井がばかみたいに高くて、走り回って遊んでもどこにもぶつからないぐらい広かった。
やがてぼくはまたいくつか、フー・マンさんのことばを覚えた。
【ふがし。みちりち】
何かを命令されているようだったけど、最初は意味がわからなかった。それを言いながらフー・マンさんがぼくの手を握るので、そのうち理解した。それを言われた時にフー・マンさんのてのひらにぼくが手を置くと、おやつのクッキーが貰えた。
他にもフー・マンさんのことばに合わせてぼくがその場でくるくる回ったり、座り込んだりするとおやつが貰えた。フー・マンさんといっしょに遊ぶのは楽しかった。
ぼくはフー・マンさんが大好きになっていった。
フー・マンさんが出掛けている時や、べつの部屋で何かをしている時は寂しかった。ぼくは泣きべそをかきながら、かまって貰えるのを待った。
フー・マンさんが戻ってくると、ぼくは踊るようにはしゃぎ回りながら、体をフー・マンさんのおおきな足に擦りつけた。
ぼくを抱きあげて、フー・マンさんが笑う。真っ白で毛のひとつもないその顔は、ちょっと気持ち悪いといつも思うけど、やさしい目玉がぎょろりとぼくを見つめてくれるのが好きだった。
フー・マンさんの部屋で、ぼくは毎日寝て、起きて、遊んで、食べて過ごした。同じような毎日だけど、フー・マンさんといっしょだったら退屈はしなかった。ぼくはもう母さんの顔なんて忘れていた。
誰も会話する人間はいなかったけど、ぼくは人間のことばを忘れなかった。フー・マンさんに一方的に話しかけていたからだ。
「フー・マンさん、おかえりー!」
「おなかすいたー! ごはんちょうだい」
「ミルクが飲みたい! ミルクミルクミルクミルク!」
ぼくが甘えてそう言うと、フー・マンさんは嬉しそうに、ぼくの頭をおおきな指で撫でてくれた。その指に噛みついてあげると部屋を響かせるぐらいの声で笑って、おしりを軽く叩いてくれた。
フー・マンさんのことが大好きだった。
それなのに……
ある日、たぶん夜のこと。部屋は白く明るかったけど、窓の外が暗いような気がした。
フー・マンさんが料理をしていた。ぼくの見えない高いところで、フライパンの上で何かを炒めていた。
出来上がった料理を持ってきて、高い建物みたいなテーブルの上に置いた。
「フー・マンさん、何を作ったの?」
ぼくは階段をつたってテーブルの上にあがり、お皿の中を見てぎょっとしてしまった。
お皿の中には人間が三人、お腹の中身を抜いて炒められていた。赤い野菜の上に乗せられたそれを、足をつまんで持ち上げると、フー・マンさんは鋭い歯でバキボキと音を立てて、食べた。
怖くなって、慌てて逃げた。テーブルの上から床に降りると、走って物陰に隠れた。フー・マンさんは追ってこなかった。
恐ろしくて物陰から出ていけなかった。もしかしたらぼくのことも、殺して食べるつもりで育てていたんだろうか。ぼくが大人になる前に、お肉がやわらかいうちに、そうするつもりなんだろうか。
やがて食後のまったりをし終えたフー・マンさんが動き出した。
床を震動させて歩きながら、ぼくの名前を呼んだ。
【ふがしー】
【ふがし、きみまろ?】
【ふがし、おのろご、みたきり!】
とても低いその声が部屋を響かせて、地震みたいな足音がぼくを探して歩き回る。
ぼくはお母さんを思い出していた。
お母さん、助けて!
お母さんに会いたい!
そう祈りながら、動けずに震えていると、高い所からフー・マンさんが見下ろしてきた。見つかった!
【ふがし! いきにきに!】
フー・マンさんの手が、ぼくに向かって伸びてきた。反射的にぼくは前へ駆け出した。
「いやぁ! 怖い!」
叫びながら前へつんのめり、転んでしまった。
前に突きだすような格好になったぼくの腕を、フー・マンさんの巨大な岩みたいな足が、踏んづけた。
思わずおおきな声をあげてしまった。腕が折れたと思った。ぎちぎちと肉が裂けて骨が折れる音が聞こえたような気がした。
【ふがし!】
フー・マンさんに捕まってしまった。いつもと違う檻の中に閉じ込められると、それが激しく揺れだした。あたりが暗くなった。部屋から外へ連れ出される気配がした。
ぼくはただ怯えて泣くしかできなかった。
長いこと電気の唸るような音が聞こえていた。地面が揺れて、ゴゴゴゴと地響きみたいな音もずっとしていた。
やがて明るい場所に運び込まれ、檻から出されると、フー・マンさんが三体になっていた。
広くて黒いテーブルの上にぼくは投げ出された。三体のフー・マンさんがぼくを見下ろして、何か話し合っていた。
白い衣服を着たフー・マンさんがぼくの痛む腕を掴むと、肉を引きちぎるみたいなことをしはじめた。
「痛い! 痛い!」
ぼくは絶叫した。
「お母さん! 助けて!」
気がつくと、いつもの見慣れたフー・マンさんの部屋だった。
ぼくはじぶんのベッドの上で寝ていて、枕元にはおやつのクッキーが置いてある。それを食べると、フー・マンさんを探した。
「フー・マンさん、どこ?」
すると『のしっ』と床が揺れて、フー・マンさんが隣の部屋から姿を現した。
「フー・マンさん!」
ぼくは嬉しくなって、フー・マンさんに駆け寄った。腕はまだ痛かったけど、フー・マンさんに会えた喜びがぜんぶを吹っ飛ばした。
【ふがし。めんめな】
そう言って、やさしくぼくの頭を指で撫でてくれるのは、いつものフー・マンさんだった。
もう、怖くはなかった。
考えたらぼくはフー・マンさんといっしょにしか、生きてはいけないのだった。