起
人それぞれ自分の人生を変えた出会いがある。
それは人であったり物であったりスポーツであったり宗教であったり様々だ。
どれだけ時間が立ち、歳を取り、出会った当初よりも思いが薄れてしまっても、思い出す回数が減ってしまっても、それは自身の根幹に残り、混ざり合い、溶け合い、既に自身の一部となっている。
それだけ大切な思い出が誰にだってある。
当然、私にもある。
だから、今の状況もすぐに飲み込めてしまった。
「グネヴィさん、具合でも悪いのですか?体調が悪いのであればお休みしていただいても構いませんよ」
私に声をかける女教師をぼんやりと見やる。
今は学園での授業中。
挨拶をした後に皆が着席した中で私だけが立ち尽くしていた。
脳内では思考が高速で回転し、こんな事がありえるはずもない、夢に決まっている、しかし、現実感が凄い、目眩を起こしそうだ。
「あ……あり……ありがとうございます。今日はどうにも体調が優れなくて……申し訳ありませんがお言葉に甘えて休息を取らせていただきます」
私の口から発せられる声は弱々しく掠れていただろう。
誰が見ても儚い深遠の令嬢だ。
しかし、私は知っている。
この女が承認欲求の固まりであり、他人を蹴落とすことなど何とも思わぬ女だと言う事を。
(ちょっとちょっと……どうなってんの?なんか急に頭に色々流れ込んできたし!あの教師とかめちゃくちゃ見覚えあるし!それに私の名前……グネヴィって……まさか……そんな事!)
体調不良を言い訳に本日の勤めを免除してもらった私は聖堂から足早に自室を目指す。
決して走らず慌てず優雅に、しかして頭の中は大混乱。
それでも迷うこと無く自分の部屋へと戻れるという事は、この世界での記憶もしっかりあるという事。
余計にわけがわからない。
ただ一つ、確かな事がある。
受け入れなければいけない事がある。
姿見の前に映る姿を何度も見返す。
長いブロンドの髪、キツイ目をした美貌、ニヤリと笑ってみれば何度も画面越しに見たことある悪い笑顔。
「ど~なってんのぉ!これって私の大好きな乙女ゲー!ムーンプリンセスの世界じゃん!」
そう、私は悪役令嬢に転生してしまったのだった。
◇
「おーけー、落ち着こう、落ち着きました。私は大丈夫冷静だ……こちとら三十路越えてんのよ、いろんな耐性はあるってーの」
改めて現状を整理してみる。
私は自分の大好きだったゲームの世界に転生してしまった。
恐らくそれは間違いがない。
先程の聖堂、見覚えのあるシスター、それに何よりも頭の中に残るこの世界の知識が私が把握しているムーンプリンセスの世界観と全く同一だからだ。
理由や原因などはわかりもしない。
しかし、転生前の地球でヲタクをしていた私とこの世界で生きてきていたグネヴィの知識が混ざり合ってしまっている。
グネヴィには悪いが、彼女の体に私の意識と知識が入れられた状態なのだろう。
すまん、グネヴィ。
「しかし……よりによってグネヴィ……どうすんよこれ……」
このムーンプリンセスは恋愛ゲームであり、貴族やら平民やら色々な者が通う学園で騒動が巻き起こりながら主人公である少女とイケメンが結ばれるまでの一年間を描く典型的な物だ。
世間では結構人気があったが何か特別な要素があるわけでもなく、数あるゲーム中の一つ。
しかし、私が初めて手にした乙女ゲーと言うやつで、何よりも思い入れが深い物だ。
大好きなゲームの世界に来れたなんてヲタクであれば泣いて喜ぶところだが私は別の意味で泣きそうである。
何故なら、このグネヴィというのは所謂、悪役令嬢だったからだ。
「かぁ……このまま行けば私は聖女を虐めて、邪魔して、最後に暴漢を差し向けて、悪事がバレて人生真っ逆さまになるわけか」
そう、このグネヴィというのは碌な奴じゃない。
実家は大貴族であり、色々な権力や財力も半端ではない。
容姿もキツめではあるが美人であり、典型的なお嬢様だ。
そして主人公である「リア」と聖女の座を争うライバルでもある。
しかも、魔力は主役であるリアを凌ぎ、聖女候補筆頭だ。
普通に過ごしていればグネヴィは聖女になることも可能だった。
しかし、性格が悪かった。とにかく悪かった。
自分が一番でなければ満足せず、そのため聖女としての力を高めていくリアに対してあらゆる妨害をする。
それらの悪行を何ら悪いと思っていない。
むしろ、自分の邪魔になる主人公であるリアのほうが悪いと思っているような人間だ。
そのリアが聖女に選ばれ、攻略対象の男性に見初められてしまった事を知ったグネヴィは金で暴漢を雇い、リアを襲わせる。
当然、そんな悪事が実ることもなく暴漢は撃退され、そこからグネヴィの悪事が露見して学園や実家からも追い出され行方知れずとなる。
それがこのゲームにおけるグネヴィの末路だった。
「どうしよう……どうすんのよ……あぁもう!なんでグネヴィなのよ!リアで良いじゃんリアで!いや、贅沢は言わないわ!同級生Aでも良いっての!」
私の嘆きは止まらない。
意識だけ復活したのか何なのかわからないが、意味不明にゲーム世界へ転生したのであれば、そこは素直に主役になれば良いじゃない。
神様は太っ腹のようでケチ臭い。
ゲームの中に入りたい?よし叶えよう!だけど主人公にはしてやんねー!クソして寝ろ!とか、お前は邪神か!
「くそぅ……神様への悪態しか出てこなくなってきた……はぁ……でも、本当にどうしようかしら……」
自室のベッドに倒れ込んで考え込む。
私はこれからの事を考えなければならない。
このまま行けば私を待ち受けるのは完膚無きまでの破滅だ。
だが、それは特に問題が無い。
グネヴィが破滅するのはあの女の自業自得。
聖女となるリアに対して行った行為の数々を考えれば当然すぎて疑問は湧いてこない。
あんな事をしていれば誰だって地に落ちる。
逆に言えば、あんな行動を取らなければ問題など起こりはしない。
「意識は私が完全に上書きされちゃってるみたいだからね……虐めとか胸糞悪いから絶対やりたくないし、私が破滅を回避する分には簡単なのよね」
ぶっちゃけた話、私は品行方正に過ごせばそれだけで破滅を回避する事ができる。
リアと友人になることだってできるだろうし、攻略ルートから外れたイケメン男子とくっ付く事だってできるかもしれない。
しかし、それではいけない。
私は破滅を回避してはいけない。
何故か?
簡単な話だ。
私はこのゲームを愛している。
青春時代の全てを捧げたと言っても良いこの作品の全てが愛おしい。
何度もプレイした。
飽きるほどに何周も何周もプレイした。
いくつもいくつもキャラ達を描いた。
何度も何度も二次創作を書いた。
同じ趣味の友人達とこのゲームについて語り明かした。
社会人になって、いい歳になって、それでも何度もこの作品を思い返す。
ゲームやアニメ、漫画や映画、数多のエンターテイメント、素晴らしい名作に触れてきた。
それでも私にとっての原点はこれだ。
このムーンプリンセスなんだ。
リアが聖女になり、攻略対象となった素敵な男性と結ばれるにはグネヴィが必要なのだ。
私が愛したムーンプリンセスにはグネヴィという悪役令嬢がたしかに存在した。
悪役は役割があるから居るのだ。
悪だからと排除すれば話が成り立たない。
それを自分が破滅したく無いからと言って改変する事などできはしない。
二次創作でやるようにゲーム世界で好き勝手をするのも悪くはないのかもしれない。
それでも私にはできない。
この世界がムーンプリンセスそのものなのであれば、そんな事はできない。
愛した世界を自分勝手にいじくり回す事なんて私には無理だ。
だって、そうだろう。
「私はムーンプリンセスが大好きなんだからぁぁぁぁぁ!」