貫入-7
帰り道に少年と会うことが多くなった。以前はこれほど見かけたことがあっただろうか。少年のことを意識してしまうことになったためにそう感じるだけだろうか。とにもかくにも、あと一刻で陽が世界の光をすべて吸い込むそんな時間まで、少年は決まってあそこにいる。土手もあと半分を過ぎたところで少年は土手に座っていた。そして話しかけるのはいつも少年だった。
「あ、おねえちゃん。今、帰り?」
「うん、そう」
人通りも少なく街灯もないこんな場所で、まだ小学低学年というのに不審者に襲われたら危険極まりない。だからわたしが少年の家の近くまで送り届けるようにしている。そのせいもあって、家に帰る時間が遅くなってしまい母に問い詰められたこともあった。だから少年には遅くまで遊ばないことを伝えているのだが、一切言うことを聞かない。こんなことも考えたことがある、自分とは関係ないから違う道から帰ってしまおうと。だが七星に言われた「根が優しい」というのがよほど深く刺さっているのか、自転車の車輪はいつもの通学路に轍を作る。これが「損するタイプ」なのだろう。
歯医者の案内看板が括りつけてある電柱で「またね」と言って少年と別れた。
「またね」というのはまた会うのだろう。
家までの帰り道、よく考えることがある。少年はなぜいつも一人であそこにいるのだろうか。友達はいないのだろうか。なぜ「わたし」なのだろうか。いくら考えても答えを導き出すことはできなかった。
部活の帰りに、美浪の付き合いで商店街の本屋に寄った。店の前で「ちょっと待ってて」と美浪に制止され、不満に思いながら寒空の下で待っていた。少年は今日も待っているだろうか、と考えていると、その少年が目の前にいた。少年の隣には妹だろうか、少年よりも幼い女の子を連れていた。そしていつものように「あ、おねえちゃん。今、帰り?」と少年は言った。
わたしもいつものように「うん、そう」と返答した。そして視線は少年の隣の女の子へ移り、気付いた少年は女の子の背中を押した。
「妹だよ」
妹は前に押し出されようとも、兄の背中にしがみつく。
小さい子はそんなものだと思う。恥ずかしいというよりかは怖いのだ。
本屋に入ってからものの一分で出てきた美浪は、足元が凍りついたようにピタッと止まった。
「だれ?」
「例の少年とその妹」
「へー、そう」美浪は少年には目もくれず、視線は明らかに妹に向いている。
「おねえちゃんのお友だち?」
「うん、そうだよ」
美浪は「よろしくね」と手を差し出した。その手は少年の背後にいる妹がキレイに振り払ってわたしを指さした。
「わたし、あっちのおねえちゃんがいい」
手を払われた上、まるで拒否された美浪は心をなくした虚ろの目になり、ゆっくりと手を引っ込めた。わたしは美浪を気の毒に思い、ポンと肩を叩いた。
「もう暗くなるから帰るね。またね」
「うん、気を付けて帰るんだよ」
少年は妹の手を引いてわたしたちの帰る方向に歩いていった。それならば一緒に帰ろうと声をかけようと思ったが、石像のように固まった美浪を捨て置くわけにはいかずに、黙って二人の背中を見送った。
後日、少年から相談を受けた。神妙な感じはしなかったが、家族のことと聞いたときは嫌な気しかしなかった。そもそもわたしは家族間の関係が良いわけでは無いと思っている。左右の先端の長さが違うシーソーにおもりで微妙に調整した均衡をかろうじて保っている。バランスを崩れようとするとさらにおもりを追加するものだから、シーソーの板が折れるのが先か、均衡が崩れるのが先か、どちらにせよ正常な関係だとは思わない。
わたしは身構えて少年の話を聞いた。
「パパは遠くで働いているんだけれど、帰ってくるとイヤな感じになる」
単身赴任だろうか。わたしの父は単身赴任中で、帰ってくるたびに空気がピリッとするのをしばしば感じる。それと同じ感覚だろうか。
「なんでなのか分からないんだけど、おねえちゃんは分かる?」
仲が悪いからだ。相性が悪いだけ。これが正解なのか。わたしだってその答えを知りたい。きっとわたしだけではなく、当人たちも知りたいのではなかろうか。自身の面目を考えたわけでも、少年の前でカッコつけたいわけでもなく、わたしはこう言った。
「疲れていたり嫌なことがあったらイライラするでしょ。互いにイライラしていただけじゃないのかな」
少年は間髪入れずに「なんでイライラしてたんだろう」とつぶやいた。
イライラする。間違っていないだろうその言葉に、わたしはなんて寛容な言葉なのだろうと心にじんときた。
そしてこんな相談が徐々に増えてきた。答えられる日、濁してやんわりと話をすり替える日、答えられず黙ってしまう日、わたしは少年と会うのが億劫に感じてしまうことがある。それでもわたしのことを会うのが楽しみなのか、ルーティンと化しているのか、少年はそこでいつも待っている。こんな寒く昼が短い季節にわたしは放っておくことができなかった。
日曜日の部活の帰り道、顧問の先生と新入生に向けた部活動紹介の打ち合わせですっかり日が沈んでそこそこ遅い時間帯になっていた。待つという選択肢がない美浪はもちろん先に帰った。形だけのキャプテンに得はない。
駅前を通り過ぎ、たまたま横道をチラッと見ると、思わずわたしはブレーキを引いて自転車を止めていた。通り過ぎる人はそれから離れて歩いていたのだが、間違いなく人が倒れている。
わたしは自転車から降りて、恐る恐る近づいてみた。格好は男性のようだが、暗いから表情までハッキリと見えなかった。そしてわたしらしくもなく気付いたら「大丈夫ですか」と声をかけていた。
「大丈夫、大丈夫」
まるで意識があるように話してはいるが、そんな人が口元に血を付けているのだから、そんな言葉を信じられるわけがない。地面には尾を引くように血の線が描かれている。そんなにおじさんの顔に近づいた訳でもないのに、ふんわりと香るお酒の匂い。
ただ馬鹿正直に「大丈夫じゃないですよね。何を言っているんですか?」と自分の感想を述べることはさすがにできないので「そうですか」と相打ちを打った。大丈夫ということならば放っておけばいいものの、ふと過去のことを思い出すとそういうわけにはいかなかった。
何年も前の話だが、地下鉄のエスカレーターを下った先にうずくまっている人がいた。わたしは変質者の可能性を疑って無視を決め込んでいたが、母さんは「大丈夫ですか」と聞いた。その人は少し体調が悪かっただけだった。母さんは変質者であるとかそんなことを考えずに、単純に困っている人というだけで声をかけて、看病をしていたその姿がわたしの脳裏によみがえった。
母さんの影がこのおじさんを看病している。わたしは母さんの背中を見ているだけ、というのが悔しかった。
自分だけではどうしようもない。たぶん、警察か救急車を呼ぶべきなのだろう。携帯電話を開いて、まず警察を呼んだ。通話している間、ただならぬ緊張があった。警察は状況を見てから救急車を呼ぶらしい。警察が来るまでの間、おじさんと監視しなければならなくなった。
おじさんは近くの手すりに手を伸ばして立ち上がろうとしている。だが痺れているかのように体を震わせて、思うような動作ができなかった。
いつまでも冬の地面に倒れたままというのは辛いだろうに、座らせてあげたいなと思った。「手を貸しましょうか」
「大丈夫、大丈夫」
わたしは倒れているままのおじさんを見て、ため息をついた。
そうして警察が来るまでの間、おじさんが公道に出ないように行く手を妨害して見守ることしかできなかった。通行人は歩く速さを緩めてはチラッとこっちを見て、また元の速さに戻る。わたしがおじさんを蹴っているように見えるのかもしれない。
こんなに長い待ち時間はあまり経験したことないし、こんなに警察を待ち遠しいと思ったのは初めてだ。
すると遠くから赤色灯が見える。サイレン音はなく、静かにわたしの前で止まった。パトカーから二人の警察官が現れわたしと足元で倒れているおじさんを交互に見た。「通報されたのはあなたですか」
「はい」上ずりそうな声を抑えて、続けて説明をした。「ずっとここに倒れているみたいで、意識はありますが…ここに、道路に血の跡があります」うまく説明できただろうか、心配になる。
警察官はおじさんに話しかけるが、わたしの時と同じく進まない問答で「ああ」「うん」「大丈夫」を繰り返すばかりだ。しびれを切らした警察官はおじさんの肩をたたいて身元の確認をしたいと伝えると「ああ」と相槌かもしれない返事をするのだった。
もう一人の警察官は救急車を呼び、無線でどこかに状況を伝えているようだ。
身元を確認する警察官は「ああ、あの飲み屋の息子さんね」と知っているような口ぶりで話した。「こんなところで寝てちゃダメじゃない、帰らないと。親御さん、心配してるよ。それとも親御さんに迎えに来てもらう?」
おじさんはピタリと止まり「嫌だ」と駄々をこねるように言う。
「帰る前に一旦、病院に行こう。怪我をしてるから診てもらおうね」まるで子供に諭すようだった。
しばらくすると救急車がやってきた。救急車隊員たちのテキパキとした対応を眺めていたら、わたしは自分の立ち位置を思い出して、とっとと立ち去るべきかを考えた。ただ何も言わずに立ち去ることを想定していて、人としてどうなのかと思うのだが、警察官に話しかけるのは妙に緊張する。足元が落ち着かず、おじさんがストレッチャーに乗せられた時に決心がついた。
「すみません、通報したものですけど、もう大丈夫ですかね?」
警察官がわたしに気付き「ああ、通報ありがとうございました。もう大丈夫ですよ」と帽子のツバを軽く触った。
帰り道、自転車に乗り軽やかにペダルを回した。自転車が糸で引っ張られているかのように、グングン先に進む。
パトカーや救急車の赤色灯から遠ざかり見えなくなると、救急車のサイレンの音が聞こえた。おじさんを乗せて病院に向かうのだろう。
時々こんなことを思うことがある。もしもわたしがその人であったなら、という想像だ。もちろんのこと、わたしはお酒を飲んでべらぼうに酔いつぶれたことなどない。ただ親に心配をかけ、警察にお世話になり、さらに女子高生に介抱されるのは顔から火が出るほど恥ずかしく思う。
もしかしたらおじさんもそうだったのかもしれない。目の前の現実を拒否するために病院に行きたくない、なんて言ったのだろうか。今からでも一人でどうにかする、そんな意思だったのだろうか。
そう思うとわたしが初めに声をかけたのは、おじさんにとっては不都合で余計なことだったのかもしれない。わたしが助けたかったから、という勝手で恩着せがましいことでおじさんは恥をかいてしまったのかもしれない。
ドアの前まで帰ってきた。ただわたしは思うことがあり、親には迷惑をかけたくないと思った。迷惑をかけると親と関わる、わたしはあまり親と関わることをしたくない。