貫入-5
少年と再会するのはそんなに遠くの話ではなかった。
そもそもの話、少年のハンカチはなぜあの土手に落ちていたか、ということである。簡単な話で、そこに少年もいたからだ。そしてその少年はいつもあの土手にいる、ような気がする。それはなぜかというと、わたしの通学路でもある土手を通るたび、何か視線を感じるのだ。チクリと刺す視線の方を振り返ると、サッといなくなる黒い影。それが何日か繰り返すと、振り返る速さが上がったのか目が肥えてきたのか、だんだんその黒い影の正体が分かってきた。確かにあの交番で会った顔。
「―あの子だ!」わたしは探偵アニメの見真似で、人差し指を美浪の前に突き出した。
「指ささないでよ」美浪はわたしの人差し指を払いのける。
昼休みの教室で弁当を食べ終えると、大体の生徒は教室を出てどこかに行く。少し寂しくなった教室にはいくつかのグループが残っていて、わたしと瀬奈と他クラスから来ている美浪もそのグループの一つだ。
「へー、きっとその子は季夏が好きなのね」瀬奈は弁当箱を片付けながら、続けて「そして情熱的」とわたしに温かな視線を注いだ。
「ちょっと意味わかんないんだけど」わたしは怪訝そうに眉をひそめたが、そういえば、まだ瀬奈には少年のことを話していなかった。「ああ、その子ってのは小学低学年くらいの子なんだけど」
瀬奈は目を丸くして「すえって交友が広いのね」と心から感心したように言った。
少しずれはしているが、話をしているうちに分かってもらえるだろう。
「てか、話したいんじゃないの?その子」美浪はあきれたように「あんた、人見知りだから」と言いため息をついた。ため息はすとんと床に落ちていく。
「人見知りに人見知りって言われたかないやい」そうは言うものの、どこか腑に落ちることがあった。もしかしたらあの少年は、何かを伝えたいのではないか、と思ったこともある。だが影を感じるたび、自転車のペダルに思い切り力を入れるのだ。
少し考えていた瀬奈は思いついたように「できれば誰かについてきてほしい、みたいな」とぽろっと言った。独り言のようであったが、わたし、いや美浪にも聞こえていただろう。
なぜこうもわたしの周りはわたしの考えることを言い当てるのだろう。とはいえ自分で言い辛かったことが代わりに吐露されたわけなので、これは好都合なのかもしれない。
「よくわたしのことを理解してるじゃん。ならば―」
「私はパス」と美浪。
「私もちょっと」と瀬奈。
五秒くらい前のわたしの淡い期待を返してほしい。舌の上で留まっている言いかけた言葉を、ゆっくりと飲み込んだ。腹の中がなんだかむかむかする。
「なんでよ」
「だって面倒くさいじゃない」
もうちょっとやんわりと、回りくどくてもいいから、直接的ではない物言いはなかったのだろうか。間違いなく美浪の本心だろう。瀬奈も同じことを考えているのか。とはいえ、確かに「面倒」であることは間違いない。ただ自分としては心細いし、少年と話すことを想像すると不安で押しつぶされそうだ。
わたしが苦い表情をしているので察したのか、美浪は「きっとハンカチのお礼を言いたいんじゃないの?聞いてあげるだけ聞いてあげなさいよ」と諭すように言った。
教室を出る美浪の背中を見送った後、捨てられた犬のように瀬奈に視線を送ると、瀬奈はニコっとわたしに微笑んだ。
美浪の言う通り、少年が話したいだけなのかもしれないが、違うのかもしれない。それも少年に直接聞いてみれば分かる話だ。
「確か、藤見...親太朗という名前だったと思う」授業中も、部活中も交番で警察官が言っていた名前を絞りだして思い出した名前だ。
「そう、じゃあね」
いつも美浪と別れる交差路で、美浪は自転車のペダルに足をかけた。
「薄情者!」片手をひらひらさせて次第に小さくなる背中に罵声を浴びせたが、遠吠えにしかならない。「バ―」と言いかけたところで、出ていく前のグッと言葉を飲み込んだ。なんだかバカらしい。わたしは自転車の重たいペダルをゆっくりと踏み込んだ。
頭の中でわたしと少年は会っている。家に帰る途中、自転車に乗ったわたしは土手にさしかかった。そこから見える変わり映えのない景色は通行する人がいるかいないか、天気がどうかだけの違いであった。珍しく人はいなく、そして天気は静かに今日の終わりを告げようとしていた。土手を走る距離の中間くらい、自転車に速度を落とさせるため一旦道幅が狭まる箇所に差し掛かった。ちょうど土手の坂によって死角になっていたので寸前まで気づかなかった。潜んでいた少年がひょっこりと頭を出して、少年の存在に気付いたわたしは、まるでピタリとブロックがはまったかのように目が合った。私が乗る自転車は自然と速度を落として止まる。そして少年は口を開いた。
これはすべてわたしの想像。
想像を現実と重ね合わせるとピントが現実から離れる。しかしまもなくあの土手に差し掛かると、胸の高鳴る振動にずらされて、ピントが次第にぼやけて現実に変わる。現実は紫がかった薄気味悪い空に、無理に溶け込もうとする灰色の雲が浮き彫りに浮かんでいた。
耳を澄ましてもいないのに、些細な音でさえ耳に届く。草むらの騒ぐ音が四方からするものだから、山賊が躍り出てくるのではないかと、ペダルを踏む足に力が入った。自転車が加速する。ぼやけたピントが風にあおられて、はっきり見えたりぼやけたり、交互にチカチカと目の前をさえぎる。はっきりと見えた一瞬、小さな影が道の上に立っていた。
警鐘を鳴らすシグナルがブレーキに手を伸ばし、不安な感情がペダルを強く踏む矛盾から生まれたわたしの予想は的中した。最終的に、わたしの道徳が自転車の速度を落とし始めた。覚えのある視線がチクチクとわたしに刺さってくる。
純粋な目でじっと見つめる少年は何かを待っているような気がした。
わたしは唾を、のどの手前で飲み込めないまま、意を決して自転車を止めた。その時、わたしは何度も経験している不安にあおられた。少年と目が合ってしまって、その目線をちぎることができなくなってしまった。
じっと見つめ合ったまま、奇妙な時間が流れた。自分の中にいる何人かの会議がまとまらないで投げ合った言葉が頭の中をかき乱したあと、思うことがポン、ポンとこみ上げる。どう切り出せばよいのだろう、怪しまれない言葉は何か、少年は何を考えているのだろうか、わたしは何をやっているんだろう。
「ねえねえ」
目の前がグルグルと搔き混ざり始めようとすると、すぅっと耳に吸い込まれた声。
「ねえねえ」
掻き混ざった世界の焦点が合わさると、目の前に少年がいた。
「うわぁ」わたしは自転車のハンドルをぎゅっと握りしめたまま後ろに飛びのいた。変に力が入ったため、自転車が倒れそうになったが、部活で鍛えられた片足で踏ん張って持ちこたえた。
「ねえねえ、大丈夫?」と少年。
「あ、うん。大丈夫みたい」と言った後にそっぽを向いて黙ってしまい、心配してくれてありがとうね、と言えなかった自分が情けなく感じた。深呼吸ができるくらいの間が空いてしまい、情けなさが後悔に変わると今の状況を客観視することができて、やっとのこさ重い口を開き「どうしたの?」と尋ねた。まるでシラを切ったように。
虚をつかれたのか、少年はまごついて黙ってしまった。
また奇妙な時間が流れた。
わたしはとりあえず自転車のスタンドを立てることにしたのだが、少年は「待って」と慌てるように言った。そして「あ」とばつの悪そうに、スタンドにかかるわたしの足を見つめた。きっとわたしが出発するのと勘違いしたのだろう。
わたしはつい、ふきだして笑ってしまった。
珍しく晴れ晴れとした日で、昼休みになると訪れる美浪はわたしの席の隣に座った。
「それで、どうだったの?」と机に突っ伏すわたしに美浪は覗きこむようにして聞いた。
美浪に対してはすでに昨日の恨みつらみはないが、それは一つのコミュニケーションとして、美浪にはエサを垂らして精一杯じらして遊んでやろうと思った。「裏切者」とむすっとした顔で言い返して見せた。
「何よー。話してくれたっていいじゃない、ケチ」美浪は弁当包みの紐を解きながら、頬を膨らませた。
続いて瀬奈は「すえ、どうなったか教えてほしいな」と柔らかに聞くのだった。
わたしは体を起こして、昨日起こった少年との顛末を話し出すのだった。
そんなわたしを見た美浪は、わたしの肩をスパーンとはたいた。
あれから、少年との会話はなんとなく続いた。
路肩に自転車を停めたわたしは少年と同じ目線までかがんで「ハンカチのお礼?」と聞くと、少年は小さくうなずいた。
「ありがとう、言えなかった」少年はポケットからあわただしく取り出して「ありがとうの気持ち」と差し出した百円玉。
わたしはその百円玉を一度は冷めた目で見てしまったが、「いや、大丈夫だよ。ありがとうの気持ちは伝わったから」と頬をゆるめてできるだけ柔らかく言った。
「そう」と少年は差し出した百円玉をポケットに戻して、わたしの目をじっと見て「ありがとう」と言った。
わたしを見る少年の目があまりにも純粋なものだから、「ありがとう」という言葉が真に深く心に刺さった。そして先ほど差し出した百円玉も素直な感謝の気持ちだったのだろう。
少年は「おねえちゃん、よくここ通るよね。また来るから、またね」と唐突に走り出して風のように去っていった。
「というわけなのだけれど、通学路を変えようかな、と思う」
美浪は二発目の肩スパーンをわたしに食らわせた。「小学生相手に鬼畜」




