貫入-1
おもたい雲が空を覆い続けて五日目になる。もうじき年末年始を迎えるというのに、うかれた気分にもならない。雪は降らないが零度に近い寒さに、セーターやカーディガン、さらにコートを羽織る生徒が下校時間でもないのに廊下を行き交う。その中で体を丸めて首からぬっと顔を出して人と話す姿は、まるでみのむしそのものだ。
しかしその寒さもあと一週間をしのげば冬休みとなる。それを心待ちにしてはいるものの、年を越せばいよいよ意識せねばならなくなるイベントがある。高校二年生の私にとって待ち受ける最大のイベント、受験である。
勉強ができるかといえば、中の下、だと思う。中学までは勉強せずとも何となくできていた勉強も、高校に入学してからはさっぱりできなくなり、同級生との学力差は次第にひらいていった。しかしその差を私は埋めようとは思わなかった。
年末年始の恒例行事、期末テストと年始テストがある。期末テストが悪くても年始テストで頑張ろうとする、期末テストが良かったら年始テストも同等以上の結果を目指そうとする、そんな学校の画策が見え見えである。
学校に対しての反抗ではないが、わたしは勉強をしないので期末テストの結果は悪いし、冬休みは遊ぶか部活をするし、年始テストの結果も悪い。
そして今日、先週行った期末テストの結果が書かれた紙が手渡される。
「松山!」担任が教壇からわたしの名前を呼んだ。
私はのそのそと教壇へ向かい、先生から点数と順位が書かれたおみくじの結果を受け取った。自分の席に戻る途中でおみくじを開き確認してみると、大凶だった。
「すえ、どうだった」わたしの前の席の瀬奈は振り向いた。
わたしは紙をできるだけ小さくたたんで「燃やそうと思う」と答えた。
瀬奈は眉間にしわを寄せた。「え、お母さんに見せないの」
「かれこれの話、高校入学してからこの紙のたぐいは見せたことがないのよ。母上殿が見せてとも言わないしね」母上殿はわたしに興味がないのだろうか、と続けようとしたがやめた。「見せるべきではないよ。見たら母上殿が卒倒してしまう」わたしは折りたたんだ紙を指の中で丸めた。
「えと、そんなに悪いの?」
「見せないのが親孝行だよ、きっと」わたしはゆっくりとうなずいた。
「良い結果を見せるのが親孝行よね、ぜったい」瀬奈はわたしにほほえんだ。
クラスメイトがこの点数と順位の紙に湧きだっている中、担任は大きな声で注目を集めて静めた。そして担任は長々とお説教を始めると、担任の辺りを見回す目線が合うたびに目を伏せる生徒がわたしを含めて何人かいた。担任が満足そうに年始テストの話を終えたのち、下校となった。
「今日はアレあるの?」わたしは帰り支度をしている瀬奈に聞いた。
アレというのは老人・介護施設の手伝いだ。瀬奈の母親はその施設で働いており、瀬奈は毎週4日ほど手伝いをしている。以前にわたしはその施設に訪ねたことがあり、ボランティアのような扱いであるにもかかわらず献身に仕事をする瀬奈を見たことがある。
「ええ、そろそろクリスマスでしょ。クリスマス会をするの。その準備もしないといけないし」瀬奈はカバンを肩にかけた。「すえかも部活でしょ。ほら、アソコ」瀬奈は教室の前の扉からこちらを覗く美浪を指さした。「じゃあね」瀬奈は手をひらひらさせて教室の後ろから出て行った。
瀬奈の残り香が教室に溶け込む。
わたしは荷物をまとめて美浪の元に向かった。「やあやあ、お待たせ」
「うん、部活に行こう」
部室へ向かっていると、すれ違う男子は美浪を横目に見る。美浪は無視してまっすぐ前を見ているが、わたしはそんな美浪と男子を交互に見ていた。時々男子と目が合うと男子の目はみるみる内に泳ぎ始め、ばつの悪そうに足早になる。
「ねえ、美浪。私と付き合ってみない?」美浪と付き合えば、男子たちの羨望はわたしに集まるだろう。
美浪は冷ややかな目でわたしを見て「バカなの?」と突き放す。
わたしは美浪の腕にスルっと巻き付いて美浪に寄りかかった。「毎日こんな風に歩くの。どう」
「歩きづらいし暑苦しいし、毎日とか重い」
「お、前向きじゃん。毎日はやめとくよ」
「そういうことじゃない」美浪はわたしが巻き付いている腕を大きく動かして、わたしを振りほどいた。
「でもさでもさ、美浪ってさ、男子とかと付き合わないの」
美浪という女は美人でパッチリ目、風になびく常に整えられた長髪、頭が良くて気取っている訳でもないのに、極端に社交性が低いせいで友達がいない。休み時間はたいてい読書をしており、近づきがたい人と周囲からささやかれていた。しかし美浪は男子から人気があった。わたしは何度か男子が美浪と付き合いたいという話をしているのを聞いたことがあった。
「え…付き合いたいの、アンタ」
「ん、それってどういうこと」
「だってこの学校の男子って、女子を見る目が何か怖いじゃない」
いや、アンタにだけだよ、と言いたかったがやめておいた。美浪は少し抜けているというか、少しバカなのだと思う。
「じゃあ、わたしと、だったらどっち」
「すえか」美浪は即答した。
部室までの移動中に、懐かしい大きな後ろ姿を見た。同じ学校に通っているはずなのに、夏に部活を引退したみずほ先輩と二か月ぶりに出会った。
「みずほ先輩、お疲れ様です」
「あ、すえと美浪、お疲れ様。久しぶりだね、元気にしてた?」みずほ先輩は身長180センチ超えの体系を隠すように身を縮ませた。
みずほ先輩は恵まれた体格から部活ではアタッカーとして活躍していたが、穏やかで消極的な性格のせいで良いプレーができなかった。不器用だが努力家であり、頑張りすぎてケガをしてしまうこともあった。自分に自信が持てるまで練習を続ける、と一人自主練をする先輩をわたしは尊敬していた。
「はい、先輩も元気そうですね」
「うふ、そうね」みずほ先輩は愛らしく笑った。「これから部活なの?」
「はい、一週間ぶりの体育館練習です」わたしはブイサインを作り指をハサミのように閉じたり開いたりした。
そしてわたしたちは部室方向に向かって歩き出した。
「今の部活ってどう?みんな上手くなっているのかしら」
「そうですね、ぼちぼちってところです。相変わらず体育館はあまり使わせてもらえないし、基本は体力づくりになってますけど、外でもできるトスとスパイクのジャンプをしすぎてる感じです」
「相変わらずなんだ…なんか、ゴメンね」
体育館を使用する部活は多々ある。それゆえ曜日により交代制となっているのだが、大会で良い成績を残している部活はほぼ毎日体育館を使用している。私たちのような万年地方大会一回戦敗退の部活は週に二回使えれば多いとされていた。
「謝らんといてください。七星っているじゃないですか。あの子、メチャクチャ高く飛びますよ。スパイクもしっかり決めますしね。あ、でもここにいる美浪は七星と同じくらい練習しているのにジャンプを三回に一回はネットに絡みますから―」
「どの口が言うか」美浪は私の頬をつねりながらひねる。
「いだぁい、だってほんとーじゃん」
みずほ先輩はクスっと笑った。笑った横顔がとても素敵なのに、人前で笑顔であることは少ない。自身の体格にコンプレックスを感じていることを聞いたことがある。周囲に何か言われたことがあるのかもしれないし、体格を気にしすぎて顔に力が入ってしまうのかもしれない。
わたしは美浪がつねる手をほどき「まあ彼女は成長期なので、今後の成長に期待ですな」
美浪はわたしの腰を強くたたいた。
「ですな」とみずほ先輩はゆるんだ顔で私に続けた。
「もう、先輩まで」美浪はのどを鳴らしてムッとした表情を作った。
「そういえば、すえと美浪は期末のテストどうだったの」
わたしは眉をひそめた。「え、先輩。そんなプライバシーまで踏み込みます?」
美浪は表情を一変してニヤっと笑った。「みずほ先輩、要は人に言えないくらい、とても良い成績だったということですよ。聞いてしまうと、私たちが立ち直れないから、だよね、すえ」
わたしは憎々しい笑顔をする美浪のわき腹を肘で小突いた。
「すえの優しさが身に染みます」
みずほ先輩は気の毒そうな表情をしてわたしから目をそむけ、額に浮き出るニキビをそっと撫でた。
私の頬はカッと熱くなった。
体育館に近づくと、わたしたちとみずほ先輩は別れた。部室棟近くに体育教官室があり、みずほ先輩は体育教師に進路の相談をしに来たらしい。
わたしは教官室に入るみずほ先輩の背中を見届けた。見届けてから思ったが、もう少し突っ込んで話を聞けば良かった、と少し後悔をした。「みずほ先輩の進路って何だろうね」
「聞いたことがあるけれど、大学に行くみたい。体育系だとかなんとか」
「へー、そうなんだ。美浪って人見知りのくせに、先輩と話をするんだね」
「すえも人見知りのくせに、調子のっておしゃべりするよね」
客観的に見たわたしたちの関係はあまり良好ではないと見られがちであるが、裏表なく皮肉たっぷりに言い合うのが楽しいのである。相手よりもおもしろい皮肉が言えたら勝ち、ただ相手を傷つける程のものを言わない。わたしたちが会話している中でいつの間にかルールができ、そして人見知り同士が奇跡的な出会いをしたのだ。
「相も変わらず仲良しおふたりさん、やっほー」
背後から入江の声がした。振り向くとやはり入江がおり、横に七星が立っていた。
「やあやあ、そちらも仲が良いこって」
「へへ、仲が良いって、七星」入江は肩を七星にぶつけた。
「…うん」七星は固い顔で小さくうなずいた。
「へへ、七星、うれしそう」入江は七星を見て二コリと笑った。そしてわたしたちに「ね」と共感を求めた。
だがわたしたちには七星が笑っているのかまったく分からなかった。七星の表情を読み取れたためしはなく、微笑んだりムッとした顔は見たことはあったが、数回程度である。
入江と七星にはツーカーの仲で、バレーでの連携は部内でも随一であった。ほんのわずかな表情の変化なのか、それとも入江にしか感じない何かなのだろう。
部室でサッと着替えて体育館へ向かうと、後輩たちが体育館前で立往生していた。
「あ、キャプテン」
キャプテンというのはわたしのことである。
「どうしたの、早く体育館に入りなよ」
「だって…ホラ」
後輩が指さす体育館の中を見ると、バレー部が使用する予定のコート半分をバスケットボール部が使用していた。
「あら、まあ」
「『あら、まあ』じゃないですよ。週に何度も使えないのに、こんな勝手、許せないですよ」後輩の佐和子は感情的になっていた。
「森ちゃん、落ち着きなさい」わたしは佐和子の頭をなでた。
人数はまだ集まっていないようだが、各自でアップを始めるバスケ部員の中にクラスメイトの和美がいた。彼女はバスケ部のキャプテンで、話せば分かるタイプの人間であるというのは知っている。ルールは守るし、そして勝手にコートを使う、ということはしない。
「ちょっと話をしてくる」わたしは体育館の中に入って柔軟体操をしている和美をコートの端から呼んだ。
「どうしたの」和美は立ち上がり、わたしの元に歩み寄る。そして和美は目じりをピクっとさせた。「もしかして、話が共有されていない感じ?」
わたしは首を傾げて「話ってなにさ」と訊ねた。
「うん、嵐山先生が練習試合が近いからって、体育館を使えってさ。バレー部には言ってあるからって私は聞いたけども」和美は怪訝そうにも、心配そうにも取れるような表情で、顔を曇らせた。
「ああ…なるほど」わたしには思うことがあった。我がバレー部の顧問様は、情報を共有することをサボる節があった。過去にも何度か同じ経験があり、今回もその類であろう。「わかった、一旦、鉢形先生に聞いてみるよ。ありがとね、和美」
「うん…私からも季夏に一言伝えておけばよかった。でか大丈夫なの、バレー部」和美は体育館入口に目を向けた。
そこには獲物を見つけた空腹の野犬が何匹か、目をギラ付かせてこちらを睨みつけていた。体育館に入るバスケ部員に喉を鳴らしているのだろうか、バスケ部員たちは野犬に目を合わせないようにそそくさと入ってきた。
「うん、どうにかする」そう言うものの、わたしの心に黒い雲がかかり始める。
「そ、そうなの…うん、いつか埋め合わせする」
和美はこういうやつだ。憎めない。
「じゃあね。試合がんばってよ」
「うん、ありがとう」
わたしは和美の肩をたたいて別れた。体育館の入り口に向かう足取りが一歩、また一歩進める毎に重くなる。野犬どもと目を合わせないように試みたが、やはりそれは無理難題であった。
「キャプテン、どうでしたか」佐和子は前のめりでわたしに問いただす。
「あー、ね。ちょっと先生に確認してみないとどうにもこうにも…なので聞いてきます。もう少しお待ちください」わたしは部員らにペコリと頭を下げて、職員室へ逃げるように小走りで向かった。
「あ、先輩、私も行きます」佐和子は部員のいる中をスルっと抜けてわたしの後をついてきた。
わたしは追いつかれまいと少し歩を早めると、佐和子も歩を早めてピタリと後をついてくる。あっという間に職員室に到着した。職員室の扉の窓からヌッと中の様子を見て、鉢形先生がいるかを確認した。しかしいつもの席に先生はいなかった。
「松山先輩」佐和子はわたしのウェアを引っ張った。
わたしは振り向くと、こちらに向かって近づいてくる鉢形先生の姿がそこにあった。
「よお、松山と森。今日は部活じゃないのか」鉢形先生はニコやかに話しかけたが、次第に表情を曇らせる。一時、とぼけるように天井を見て、「そういうことだな」と独り言なのか、これからわたしの口から問われることを予見しての反応なのか、そして急に真剣な表情をわたしたちに向けた。「じゃあ、今日も部活がんばれよ」
「今日は体育館を使えないということですかね」
わたしの肩を叩く先生の手は軽かった。「そういうことだな」
先生が職員室に入っていくのをわたしは見届けた。
大人はズルい。
「じゃあ、行こうか、森ちゃん」
佐和子はくぐもった声で返事をした。
佐和子はバレーが好きだ。週に一回の体育館での部活をいつも心待ちにしており、他の部員と格段に違ってイキイキと活動をしている。バレーが好きでたまらなく、部で一番技術があるが、彼女には背丈が圧倒的に足りなかった。努力を重ねて直立跳びなら部の誰よりも高く跳びネットよりも高く跳べるが、長身選手には絶対的にかなわなかった。チームではリベロ的な位置でセッターとしてプレーしている。
そんな佐和子を知っていたからこそ、わたしは彼女の手を引っ張って体育館に向かった。わたしが佐和子の手をぎゅっと握ると、佐和子はわずかな力で握り返した。
体育館の入口で待機する部員たちに事の顛末を伝え、学校周りの外周をすることになった。
「ほら、みんな行くよ」わたしは後輩たちをなだめながら、昇降口で靴を履き替えて校門に向かった。校舎を出るまで納得できない部員もいたが、佐和子が率先して校門に向かうことで、他の一年生たちも忍んで納得できないことを飲み込んだ。
肩を落として校門に向かう後輩の後ろを歩いていると、入江がわたしの横からひょっこりと現れた。
「すえかって、ちゃんとキャプテンしてるよね」
こんな切り出しの会話を過去に何回かしたことがある。
「一年生たちがいつ爆発するか、もうヒヤヒヤでしたよ。もうバルカン半島状態」
「ヒヤヒヤでバルカンだったの?」
「バルカンというよりはピリピリだった」
ヨーロッパの火薬庫のバルカン半島を一年生にたとえて、たとえたのにピリピリに変わっていて、わたしの返答は「えーと。ごめん、ちょっと言ってる意味がわからない」だった。
「つまりね、すえかが職員室に行っている間、一年生はみんなバスケ部を睨みつけていたのよ」入江は元々のつり目をさらに指でつりあげて見せた。
「なるほどね」体育館で威圧するように睨みつける一年生の様子が簡単に想像できた。
「だから私たちは温かい目で見守ってあげましたよ」
「いや、なだめてよ。だからわたし、大変だったじゃんさ」
入江は少し考えるようなそぶりをし、七星に目くばせし「ねー」と笑顔で同意を求めた。
七星はうなずき「うん、松山さんは、ちゃんとキャプテンやってるよ」と言った。
「話が噛みあってないよね」わたしの予想だが、今の「ねー」というのは、やっぱりキャプテンにふさわしいのは季夏で、季夏にしかできないよね、を凝縮したものだと思う。七星は入江のすべてを汲み取って返答したのだが、このツーカーコンビにしか分からない内容をわたしに汲み取れというのは、客観的に見てもなかなか酷だと思う。
七星には一年の面倒を期待していない。寡言だし、表情が読み取れないからだ。ただ指示したことはちゃんとやってくれるし、バレー部でも二年の中では一番上手でいざという時に頼りになる。だからこそ入江と美浪にわたしがいない時にフォローに回ってほしいのだが、入江はネジがとんでいることがしばしばあるし、美浪は頭はいいかもしれないが根っからのバカなのだ。このバレー部の二年はわたし含めて四人、まともな人がいない。
その美浪はというと、空を見ながら歩いていた。そして「うろこ雲?うーん、ひつじ雲?」とつぶやいていた。
「美浪、ヒゲ生えてるよ」
美浪は前を向き、自分のアゴと首元を素早く撫で始めた。そして何か見つけたのか、皮膚をつねり始めた。
「あ、見間違いだったわ」
美浪は手を止め眉間にしわを寄せると、みるみる顔は赤くなり鬼の形相に変わった。そして美浪は無言でわたしを追いかけ始め、鬼ごっこ外周が始まった。
外周を二周もすると、後ろにいるはずの美浪の姿はなかった。校門にさしかかると、校舎からこちらに近づいてくるみずほ先輩の姿を発見した。「みずほ先輩、帰りですか」
みずほ先輩は「うん、そうそう。あれ、今日は体育館練習じゃなかったの」と言うと、察したように何回か小さくうなずいた。
「バスケ部と喧嘩して負けました」
「へー、穏やかじゃないね」
「冗談に決まってるじゃないですか。本当に喧嘩したらバレー部だけ廃部になりますよ」
「それもそうだね」
わたしたちは一緒に笑った。
タイミングとしては唐突だが、わたしはみずほ先輩にあのことを聞いてみた。「そういえば先輩って、高校卒業したらどうするんですか」
「あー、うん…」みずほ先輩はアゴに手を当てて視線を落とした。そして「えーと、大学の進学は、考えているわよ」と慎重に言葉を選んで話しているようだった。
「へー、何の勉強するんですか」こういう時、わたしは図々しい。慣れ親しんでいれば、なおさら態度がデカい。もしかしたら、長所なのかもしれないし、短所なのかもしれない。
「そうね…うーん」みずほ先輩は考え込み始めた。だがすぐに「まあ、いいわ。私、医学的なところに行きたいの」と吹っ切れたように言った。
「医学、っすか」
外周で校門を通り過ぎる後輩たちがみずほ先輩に挨拶をするとみずほ先輩は「お疲れ様」と手を振った。
わたしは少し緊張をした。医学、と聞いてなんか難しそうだな、何で医学なんだろう、と考えた。その様子がみずほ先輩が読み取ったのだろう。表情に出ていたようだ。
「そんなに考え込まないでよ。医学といっても、スポーツ専門だから」みずほ先輩の表情は柔らかく、にこやかだった。
「えと、さらに聞いちゃいますけど、なんでスポーツ専門の医学なんすか」
「そうね、元々、将来はスポーツ関係の仕事に就きたいな、と思っていたんだ。でもスポーツ関係の仕事なんて、山ほどあるじゃない。スポーツ専門紙を書く人とか、道具を作る人とか、インストラクターとかね」
「確かに山ほどありますね」
「うん、私もそう思ったの。次に考えたのがスポーツ関係の何の仕事をしたいか、なの。それを考えると、私には一択しかなかったのよ」
「スポーツ専門の医学」
「うん、そう。私、ケガばかりしていたじゃない。バレー部にも迷惑ばかりかけちゃったしね」一瞬間であったが、夕陽の陰りがみずほ先輩を覆った。「だからこそ、他の人は私みたいになって欲しくないな、て思ってさ。楽しいのに、大好きなのに、好きなことができないって残酷じゃない?少しでもいいから、そんな人を少なくしたいし、私も好きなスポーツを支えていきたいし、本気で貢献したいと思ったのが理由かな」
わたしは自身を省みてしまった。みずほ先輩が思った以上に自身の進路を考えていたことに驚き、圧倒されていた。
「でも、まだまだ分からないことだらけだよ。選手を支えるっといっても、整体とか鍼灸とか、食事の面とか、何したいのかというのは分からないのよ。知らない職業もあるだろうしね。だからちょっと進学して視野を広げたいな、て思ったのさ」みずほ先輩はニコニコ笑っていた。
私も続いて「へへ」と笑ったが、みずほ先輩の眼光が鋭くなっていることに気付いた。
みずほ先輩はハッキリとした口調で「すえ、将来については、アンタは特に、早めに考え始めるのを薦めるよ。しっかりしているように見えて、意外と不精癖があるんだからさ」と言った。
「うすっ」わたしはこう返事するしかなかった。
傾いていた陽もだいぶ沈んだような気がする。
するとわたしの背後から息の荒いゾンビがいるような気がした。わたしは襲って来るであろうゾンビの行動を予想し、身を翻して見事にゾンビの攻撃をかわした。「みずほ先輩、話ありがとうございました」
「うん、いいよ」みずほ先輩は外周に戻ろうとするわたしに、さらに「すえはやればできる子なんだから、ね」と言った。
わたしは会釈をして外周に戻った。
みずほ先輩は足元で息を切らしているゾンビに目線を合わせた。「美浪、アンタもがんばんなさいよ。いつまでも季夏に遊ばれてるんじゃないよ」
美浪は「お疲れ様です、先輩…あの体力バカにはちょっと勝てそうにないです」と息切れぎれに言った。
「こーんな体力ナシじゃ、美浪のなりたいものになれないわよ」
「あああ!言わないで下さいよ…先輩にしか相談してないんですから」美浪は首を小さく振り、人差し指を口元に当てた。「すえにも話してないんですから」
「私は素敵な夢だと思うけど」
「言ったら卒業するまでイジられますよ…トレジャーハンターになりたい、なんて」
みずほ先輩は少し考え「せやな」と言った。
この休日を終えればすぐにクリスマスとなり、そして終業式を迎える。
わたしは部活のない休日を家から逃げるように外出で過ごしていた。今日はフラッと本屋に立ち寄り、そしてファストフード店のカウンターで大きなため息をついていた。みずほ先輩から言われた一言がずっと心に刺さっており、将来についてを考えるようになっていたのだが、その答えは未だに欠片ほども見つからないままだった。
言われたことは確かに間違いない。自身でも分かっていることをズブズブと言われた。タルにどんどん剣を差し込まれていく黒ヒゲの気持ちが分かったような気がする。それも自分から聞いたのだから自業自得であるが、ギュッと心臓を掴まれたようで素直な気持ちは辛かった。
カフェオレに、さらに円を描くようにミルクを入れて、ストローでくるくるとかき混ぜた。わたしの将来と一緒にミルクはコーヒーに溶けていった。
わたしや先輩だけではなく、美浪や瀬奈、他のみんなは自分の将来を考えているのだろうか。数年後の話なのか、さらに先なのか、それは分からないが、きっとわたしよりも明確なのだろう。
ボーっとドーナツをつまみながらガラス越しに外を眺めていると、子供を連れる母親の姿を見かけた。
子供は横断歩道の前でつま先立ちをして右や左に行き交う車を、首を振って追いかけていた。少し体が道にはみ出そうとしているのを見た母親は子供とつないでいる手をぐっと引き寄せると、母親は子供をピシャリと叱っているようであった。
わたしは叱られている子供を見て、ふと小学校に入学した頃の時分と重ね合わせた。母に止められたにもかかわらず喧嘩をして、夜のベランダにつまみ出されて、中に入れてと叫びながらガラス窓を叩いた覚えがある。ガラス越しの長い廊下に差す、ボウっとした暖色系のライトが本当に暖かそうに見えた。
信号が青になると、親子は車が来ないことを一緒に確認して横断歩道を仲良く渡り始めた。親子とすれ違って横断歩道を渡る瀬奈を見かけた。瀬奈は両手に荷物を持って、点滅する信号をそそくさと渡り切った。渡り切ったところでガラス越しのわたしと目が合った。
瀬奈の両手の荷物は何なのだろう。わたしは手を振り、そしてちょいちょいと瀬奈を招いた。
瀬奈は重そうに荷物を上げて腕時計で時間を確認し、首を横に振った。そしてあっちの方向に指を差し、手で三角形を作ったり、荷物を置くようなジェスチャーをしてみせた。
わたしには理解ができなく、とりあえず忙しいのだろうなと思ったので、大きくうなずいて手を振った。
瀬奈は会釈をしてあっちの方向に去って行った。
わたしはカフェオレをすすりながら、瀬奈の荷物の中身やジェスチャーの意味、行き先を改めて考えなおした。答えも出ないまま、カフェオレもドーナツもなくなり、わたしは店を出て瀬奈とは反対方向の商店街へ歩き出した。
商店街のゲートをくぐると、商店街のシンボルツリーが装飾されたり、イルミネーションが空中に張り巡らされており、すっかりクリスマス色に染まっていた。ケーキ屋の店頭で手売り販売をしているサンタ服の店員さん、テントの下で福引の案内を配っているサンタ服のおじさん、その他諸々のサンタたちはこの商店街に何人存在しているのだろうか。
シンボルツリーを通り過ぎ百貨店の前まで歩くと、百貨店の入口から出てくる美浪を見かけた。わたしは立ち止まりじっと美浪を見ていると、美浪もこちらに気付き肩掛けのバッグを隠すような仕草をした。
「押忍、美浪」わたしは体の前で腕をクロスさせて拳を強く握って見せた。
「あんた、いつから空手家になったのよ」美浪は飽きれたような顔をして近づいてきた。「あと、恥ずかしいからやめなって」
周囲を見渡すと確かに道行く人はいるのだが、特にこちらを気にしている様子ではない。「大丈夫っしょ。気にしすぎるとハゲるよ」
「高校生なんだから少しは気にしなさいよ。で、何」
「いやね、たまたま歩いていたら、たまたま美浪と出会って…」わたしはそう言いながら、美浪のバッグを見つめた。美浪はバッグを左から右に移動させ、わたしの視線も左から右に移動する。次にバッグを両手に持ち替えて、わたしの視線はバッグに注がれた。
「…大したものは入ってないわよ」美浪は恐る恐る言った。
「え、わたし、何も言ってないけど。何か大したもの入っているの」わたしはしたり顔で訊ねた。
「今のアンタの顔って、見る人が見たら犯罪者よ」
わたしは飛び切りの作り笑顔を作って「気のせいだよぅ。わたし、美浪のことは超友達的な感じにしか見てないしぃ」と言うと、美浪の顔はみるみる内に冷めていくのが分かった。
「えっとね、このバッグの中は…」
「ちょっとぉ、なんかあるでしょ」
商店街のシンボルツリー下のベンチに座って、美浪はわたしにバッグの中身を見せてくれた。バッグの中身からはきれいな包装紙に包まれた箱が入っていた。
「へー、クリスマスプレゼント?誰かにあげるの」
「…すえかの考えているようなことではないわよ」美浪はバッグからさらに違う箱を取り出した。そしてバッグの中身をすべてわたしに見せた。
「一、二、三…四つあるね。どうしたの、こんなに」
「お父さんに頼まれて買ったのよ。ほら、私って下に二人いるじゃない。みんなにわたさなきゃいけないし」
美浪には一人の姉がおり、下に二人の弟がいる。弟たちは以前に美浪の家へ遊びに行った時に、会ったことがあった。まだ育ち盛りといった小学生で、右から左へ、上から下へ、二階建ての家の中を縦横無尽に騒がしくしていた。
「四つって、確か美浪のお姉ちゃんって、家を出ていなかったっけ」
四つのプレゼントが四兄弟のものであれば、家を出ている美浪の姉の他、残りの一つは誰のものだろうか。
「ああ、二つは弟たちのでいいのだけれど、残りの二つはお父さんとお母さんのよ」
「なるほど。あれ、美浪のプレゼントはいずこ?」
美浪は笑顔で「私のはないわよ」と言った。「クリスマスプレゼントをもらう年齢でもないし…それにお父さんとお母さんにはお世話になっているし、家にずっといられるわけでもないし、たまにはいいんじゃないかな、て」美浪は照れたように頬を紅潮させ、脚を交差させた。
そんな美浪を見ていると、わたしは衝動に駆られて美浪をぎゅっと抱きしめた。「ういのぉ、美浪。とても可愛い奴だな」
「ちょっと、バカ、離しなさいよ」美浪はすぐにわたしの手を振りほどいた。
「いいじゃないか、いいじゃないか。美浪のそういうところが可愛いんだよね」
「ばばば、バカ。そういうこと言わないでよ」美浪は取り出したプレゼントをバッグに詰めなおした。そしてスッと立ち上がり、歩き出した。
「ちょっと待ってよ」わたしは美浪の横にピッタリとくっついて歩いた。「ねえねえ、親へのプレゼントはどうやって渡すの」
美浪は少し考えるように上を見て「普通に渡すかな」と言った。
「えー、つまらない。どうせだったらもっと面白い方法で渡しなって」
「面白いって何よ」
「だからさ」わたしは商店街のサンタたちを見た。「美浪サンタさんが渡すのって、面白くない。ほら、あんな服着てさ」わたしはスカートのサンタ衣装を着た女性を指さし、さらに丈の短いイメージをジェスチャーで伝えた。
美浪はわたしのジェスチャーなど眼中になく「おもしろそうね」と言った。「たまにはいいこと言うじゃない。クリスマスの朝になったら枕元にプレゼントがある、ていうやつよね。とても面白いと思うわ」美浪は何を想像しているのだろうか。ふふっと企みを含んだ笑みを浮かべていた。
わたしは美浪が丈の短いスカートのサンタ衣装を着ている美浪を想像していたが、ともあれ、美浪が楽しそうで良かった。「弟くんたちにもサンタ渡しでプレゼントを渡すの」
「うん、そうなの。まだサンタさんのことを信じているし、毎年ワクワクしながら待っているしね」
どうやら美浪の家庭では、クリスマスプレゼントの渡し方はサンタ渡しらしい。わたしの家もサンタ渡しで、いまだにクリスマスプレゼントは毎年欠かさずサンタさんが届けてくれる。
商店街から出たところで、わたしは「美浪っていつまでサンタさんを信じてた?」と訊ねた。
「そうねえ、私は小学校低学年くらいまでかしら。プレゼントを置く音に目覚めて、ドアから出ていくお母さんの姿を見た時からね。ちょうど出ていく後ろ姿だったからバッタリ目を合わせるなんてことなかったけれども、ああ、そういうことなんだな、て複雑な気持ちになったわ」美浪はその時のことを思い出し、クスリと笑った。「すえかはどうだったの」
「わたし?わたしは」中学に入学してもサンタさんを信じていたなんて言ったら卒業するまで囃されることだろう。「小学校中学年くらいかな」とどうでもいい嘘をついた。
「まあ、そんなものよね」
河に架かる橋を渡り、舗装された土手に差し掛かった。
「寒いね。何というか、刺すような冷たさってこういうことを言うんだろうね」
土手はさえぎるものがないものだから、ビュンビュンと風が吹く。その風で自転車があおられて危うく転倒するのではないか、という場面を何度か見たことがある。そして白いビニール袋宙を踊り、河の向こうへ走り去っていく。
するととても強い風がわたしたちを襲った。腕で顔を覆い、少し時間を待った。風がゆるむと同じくらいに、足元にハンカチタオルが落ちているのを見つけた。ハンカチタオルを拾い上げて広げると、戦隊もののキャラクターがプリントされていた。
「これ、美浪のじゃない」
「そんな訳ないでしょ。落ちていたものにしてはキレイよね。直近で落としたものかしら」
確かに長い間落ちていた感じはしない。というか、今日使用していたようだ。
「どうしよう、これ」
「拾ったのだから、交番に届けたらどう」
「え、本気で言ってるの」交番に行くには来た道を戻って商店街近くまで行かねばならない。正直めんどうくさかった。「美浪が行ってきてよ、というのは図々しいから一緒についてきてよ」
「何でよ。私はこのまま帰るわよ。一人でちゃんと行ってくるのよ」
「え、本気で言ってるの」
「拾ったのも何かの縁よ。誰か探しているかもしれないし、届けてあげなさいって」
わたしは家に帰ろうと一歩踏み出す美浪のコートの裾をつかみ「こっちだよ」と言って引っ張った。
「あっちよ」美浪はわたしが引っ張る手をほどいてさらに歩いていく。
わたしが喚くのよりも先に美浪は「明日の学校で、ちゃんと届けたか教えてね」と言うものだから、わたしは眉間にしわを寄せて美浪の背中を見送った。わたしはきびすを返して交番に向かうことにした。
橋を渡り、まっすぐで緩やかな坂を歩いて商店街のゲート近くまで戻ってきた。すっかり辺りは暗くなってしまった。ゲート前から商店街を覗くと、クリスマスイルミネーションがキラキラと輝いていた。遠くに見えるシンボルツリーも白いライトで美しく雪が積もっているように幻想的に見えた。少し商店街を歩いてみようと思ったが、乾いた風がわたしをさえぎるように吹いた。寒い、早く帰ろう。わたしは駅のロータリー脇の交番に向かった。
駅のロータリーは大きな赤い鳥居がシンボルで、商店街のゲートのすぐ隣にある。鳥居をくぐると、駅の階段からコートを羽織った数多の会社員が出てきた。会社員をよけて歩きながら交番前に来ると、交番内に先客がいるようだった。今すぐに入っていいものかどうかをためらっていると、また乾いた風が吹いた。今度は交番内へ入るように促すような、そんな風だった。
「すいませーん」引き戸を開け、小学生くらいの少年と対面した。
少年はすぐに「それ」とわたしの持っているハンカチタオルを指さした。「それ、ボクの」
警察官はギロっとわたしを見て「キミ、そのハンカチはどこで拾ったのかい」と訊ねた。
わたしは自身に注がれる視線に妙な緊張を覚えて、しどろもどろになった。「あ、えと、風が吹いていて…ああ、あそこの土手歩いていたら飛んできたみたいで、そこで拾ったのですけれども」
少年はハンカチをわたしの手から取り上げ、裏地を見せた。そこには「藤見親太郎」という文字がサインペンで書かれていた。少年は名前を指をさし「ほら、ぼくの名前。ほら」と警察官に見せつけた。
「ああ、よかったね。一応だけど、何か君の名前を証明できるものはないかな」
「えっとね」少年は持っていたランドセルを開き、いくつかノートを見せた。
わたしも以前に使ったことのある、虫や花の写真が載っているノートだった。
「ここ」少年が指さした先に名前が書かれていた。
「藤見親太朗くんだね」警察官は少し困ったような表情をしたが「まあ、ノート全部が同じ名前だし、間違いないだろう。これで本人確認は終わりね」と少年に言った。
「うん、じゃあ、ぼく帰るね」少年はわたしに見向きもせず、交番を出て行った。
すれ違いに、交番に舞い込む冷たい風が、わたしの体を凍らせた。