『悠鯨のハンス』
目が覚めたら、そこは見知らぬ天井だった。
……なんて出来事がこの旅で通算何度目になるのか数えるのをやめたライトは、今自分が置かれている状況について考えを巡らせる。
ざっと辺りを見回してみると、棚に並ぶ数々の医学書を発見した。どうやらここは診療所らしい。
人ひとりに与えられている部屋としてはだいぶ広いが、この診療所では患者一人一人に広い部屋を割り当てているのかもしれない。
「結局、あの後どうなったんだ……?」
乗っていた船に何かが衝突したことまでは覚えているが、そこから先は意識を失ったのか、記憶力に自信があるライトであったが何一つとして思い出せない。
体を動かすだけで刺すような痛みと高熱を発する膨れ上がった彼の右肩は、幸いにも今はこれといった痛みを感じることはない。その代わりに、右肩から手首の付近まで動かさないよう厳重に固定されていた。
癒術ならばまだしも、医術の知識はあまり持ち合わせていないライトだったが、右腕を動かさないようにガッチリと固定されているだけでもある程度の察しはつく。
おそらく痛みの原因は取り除くことができたものの、固定しておかなければ再発する可能性があるのだろう。さもなくばこうも全く動かせないことに説明がつかない。
「お、お前さんも目が覚めたか」
「うわっ!」
「おお、悪かった。デカすぎるワシがこうも近寄ってはビックリして当然だったわい」
唐突に視界に広がっていた天井の全てを塗りつぶされ、ライトは驚く。
同時にやけに部屋が広かったことに合点がいった。
今、自分の顔を覗き込んでいるこの巨大な何かこそ、着崩してはいるが白衣を纏い、聴診器を首からかけているところも含め、この診療所の持ち主なのだということに。
その人物は声の低さやガタイの良さ、そして一人称からおそらく男性。
ライトですらあやふやな判断をしてしまう理由としては、彼の男性が人間ではないからである。
男性の流線形の肉体は艶めく黒と下あごから腹部まで彩られる乳白色の二色で、髪の毛はなく巨体に似つかぬ可愛らしいターコイズブルーの瞳が特徴的な魚人……ではなく、白腹クジラの近親種である獣人だった。
「驚いてすみません。貴方が俺たちを助けて下さったんですね」
「なあに、偶然通りかかっただけだ。運良く二人の命を助けられたのは僥倖だったがのう」
「そういえば、俺の相棒は……」
「おお、そうだったわい! 彼女ならば隣の部屋に居るぞ。一応別の部屋にしておいたが、相部屋でも良かったかのう?」
「相部屋でも気にはしませんが……。とりあえず無事であると確認できただけよかったです」
バリューの無事を確認できたことに安堵したライトは、ほっと胸をなでおろす。
一人でいる場合でもなるべく平静を保つように心がけていた彼だが、あの嵐の中でたった一人だけ助けられたのではないか、と思わなくはなかったのだから。
「せっかくだから久々のご対面としゃれこむかのう。彼女もおぬしを心配しておったからな」
「あ、そのことなのですが……」
「わかっておる。長いこと動いとらんから上手く動けんのだろう? そう焦らんでも彼女は逃げんよ。いや、逃げたくても逃げられないというべきかのう」
「……?」
クジラ男が発したその言葉は、逸りかけていた彼の耳に少しばかりひっかかって伝わる。
バリューがライトを置いてどこかに逃げだそうだなんて、よっぽどのことがない限りありえないはずだが、そのよっぽどのことが発生していたとして、ならばなぜ逃亡する選択ができないのか。
腑に落ちないとばかりに考え始め、動きを止めてしまった青年に、真上からせかすような声が降ってきた。
「なに、会ってみたらわかるわい。ほれ、この杖を支えにしたらある程度は動けんか?」
「あの……抱えてくれたりはしないんですね」
「当たり前だわい。これはおぬしのリハビリも兼ねておるんだからのう」
「ははは、これは手厳しい、ですね……!」
上体を起こし足をベッドから降ろすと、クジラ男が差し出した頑丈そうな朱塗の杖を左手で持ち、一息吐いてゆっくりと立ち上がる。
それと同時に、全身を流れていた血液が僅かながら足へと多く落ちていき、その分の血液が脳内から失われる。故にライトの視界は一瞬だけ暗転し、思わずその場でふらつく。
まるで、自分の体とは思えないくらい、体を動かすことが難しくなっていた。
「おっと、まだ早かったかのう?」
「倒れたら、慰謝料を請求しましょうか?」
「まあまあ、そうならないように支えてやるわい」
流石にこのまま手助けなしだと全く動けないということになりかねないと悟ったのか、クジラ男は服の裾を差し出すが、ライトもプライドがあるのか首を軽く横に振ると、慣れない杖を懸命に操り部屋の出口へと歩いた。
「……これはまた、凄い広さですね」
「何もかもワシに合わせて作られておるもんでのう、ただ単に何もかもが少々大きいだけだわい」
部屋の外に出ると、ライトがついつい口に出してしまうほど広い廊下が広がっていた。
これもクジラ男の体格に合わせているせいか、王宮の大廊下のように広大になっている。
しかし、そんな広い廊下にもかかわらず、すぐ近くの部屋から聞こえてくる大声が反響していた。
「……まさかアイツ、目が覚めてからずっとこんな調子じゃないだろうな?」
「その辺りはおぬしからきつく言ってもらえると助かるんだがのう」
「――――善処します」
頭を抱えられないので、代わりに頭をがっくりと落としたライトは、クジラ男に半ば押されるような形で部屋に入る。
そのタイミングで聞こえてきた言葉は、
「なんでこんな格好で過ごさなくちゃいけないの!?」
だった。
ライトと同じようにベット上で上体を起こしていたバリューが、薄桃色のイルカと人が混じったような姿の女性に、大声で文句を垂れている。
クジラ男よりも小柄で、ライトたちよりほんの少しだけ大きいくらいの背丈。
彼女も白衣を着ていることから、この診療所に勤めている医師の一人なのだろう。
「髪の毛切られていることだってそうだよ! 短くて全然落ち着かないんだけど!」
ぐちぐちと文句を言い続けているバリューだったが、その姿は確かに普段とは全く真逆といっても過言ではなかった。
丈が大きい薄手の短パンに、同じく丈は大きいがお腹周りがすっぱりと切り捨てられた半袖シャツという格好で、上着の下は腹部から鎖骨のあたりまで包帯が巻き付けられている。
そして、何よりも変化していたのは腰辺りまで伸びていた薄い金色の髪が襟足辺りまでバッサリと切られていたことだった。
「あんな鎧を着ている状態で怪我が治るわけないわ! 怪我が治るまであなたたちの武器防具は没収します!」
口を大きく開けて言い返したイルカ女にバリューは、ひっ! と小さく悲鳴を上げつつも、負けじと睨み返す。
彼女が怯むのも無理はない。なにせ正面から見た口を開けたイルカは普通に怖い。それが『傍目は美人、口を開ければ悪魔』とまで言われてしまう散花イルカの近親種に当たる獣人であればなおのことだった。
ぐぬぬ……とうなり続けるバリューをよそ眼に、俺が来ている病衣は普段着よりも丈が大きくなったくらいか……程度のことしか考えていなかったライトだが、イルカ女の話を聞くとすぐさま疑問に思ったことを訊ねる。
「……その話ですが、俺たちの怪我が治るのはいつになるんでしょうか?」
「お前さん方がどのような旅をしておるのかはしらんが、自らの体を顧みないような急ぎの旅なのであろうな」
クジラ男はここにきて、今までためにためていたとばかりに大きなため息を吐く。
そして、呆れとほんの少しの怒りを交えたような顔でライトの右腕に目を向けた。
「おぬしは壊血病にかかっておったし、おまけに右腕の古傷が膿みかけておった。治療がもう少し遅かったら右腕を切断するだけでなく死に至っとったぞ」
壊血病と聞いたライトの背筋にぞっと怖気が走った。
壊血病そのものは死に至る直接的な原因とはならないが、治癒の遅れや感染への抵抗力が減少し、重症化すると古傷まで開く船乗りの大敵だと言われる病である。
だからこそ、完治していなかった彼の右肩が膿む原因となり、長期的に激痛に襲われていた。
それに、利き腕である右腕を壊死で失ってしまえば、壊血病が完治しようとも日常的生活に多大なる支障をきたす。
ましてやそのような状態で旅を続けるなど、ただの自殺行為でしかない行動といっても等しいのだ。
「……すみません」
あまりにもフランクに絡んできたのでついつい軽口をたたいていたが、彼に助けてもらっていなければ船が何かに衝突して転覆しなくとも自分は間違いなく死んでいたと確信したライトは、改めて目の前の人物のおかげで自分が生きていることを実感しなおしていた。
「まあ、わかったならばよい。どちらかといえば、手間がかかったのはそちらのお嬢さんの方でなあ」
そう言うと、未だイルカ女の話を聞きながらむくれているバリューをちらりと横目で見つつライトの耳に顔を近づける。
「(見た目の傷はそこまでではないが、腹の中を開いてみると案の定、内臓や筋骨はボロボロだったわい)」
「っ! それは……!」
「(今の様子を見るに、お前さんは知らなかったのであろう。で、あれば、彼女はお前さんに知られないよう無茶をしていたということになるが……)」
青年の横顔が少しばかり悲痛に歪んでいるのを見て、おそらく無茶をする子だと知っていたのだろうなあと、クジラ男は考察する。
それに銀鉱で出来た鎧を常に纏っていたのならば、青年が彼女の体調に気づくことが遅れるのも致し方がない、とも。
(やはり問題はあの子の方か。ふぅむ、ならば……)
「なに、二人してそう落ち込むことはあるまい。今は英気を養うときと割り切ればよい。それに、おぬしらの怪我が早く完治するよう、できるだけ力になることを約束するわい。この雄大なる海と、わが国から認められた医術の技量、そして、昔の主より賜った『悠鯨』の名のもとにな」
握りこぶしを胸にあて、ニヒルな笑みを見せつけるようにクジラ男は二人を見渡した。
その際、彼らの顔が少し強張ったような気がしたが、自己アピールが強すぎて少し委縮させてしまったのだと医者は解釈する。
(う、嘘でしょ……!?)
(くそ……! やっぱり、ここ最近ついてないな!)
だが、ライトたちは実際に焦りで顔が強張っていた。
二人の命を助けたクジラ男は、自分たちが今一番出会いたくない種類の相手であり、この旅で遭遇するのは二人目となる人物。
『十忠』が一人、『寛大』を誇る『悠鯨のハンス』だったのだから。




