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Prologue:いかなる波濤が押し寄せようとも

『心身に憂愁抱し時、彼の波紋は次第に甚大な波濤となり、辺り一面を呑み込まん』といった(ことわざ)がある。


 悲しみに暮れすぎていると、その影響は次第に周りの人たちも巻き込みかねない。

 だから、苦しいことがあろうとも深く気負うことなく、多少は楽観的に生活するように、との意味合いが込められている。

 極東ではそういった陰鬱気な考えに陥りやすい者が多く、故にこの(ことわざ)所以(ゆえん)となっているそうだ。

 ……などと何処かで聞いた話を思い出しながら、成程確かに、自分が抱いてしまった憂鬱は天候に影響を及ぼすまでに酷いものだったのだな、と皮肉な笑みを浮かべながら、男は急ぎ帰路に就く。


 それは、器に注いだ炭酸水をかき混ぜたのちにひっくり返したかのような、荒れ狂った波風を伴う酷い嵐の夜だった。


 巨鳥の羽ばたきの如き強風は空高く伸びたヤシの木を根こそぎ持ち去ろうとばかりに吹き荒れ、横薙ぎとなった大粒の雨は南国に似つかず温もりあるものから熱を容赦なく奪い去っていく。

 普段なら騒がしいほどの合唱を発する虫や鳥などといった生けるものたちすら気配を殺し、ただひたすらに大嵐が静まることを待ちわびていた。

 下手すればこの世の終わりと勘違いしてしまいかねない天災の中、二つの荷を背負っていた男は何事もなさそうに、()()()()とある孤島の浜へと上がってくる。


 と同時に、遠く離れた雲中の雷鳴から発せられた光が巨漢の姿を映し出した。

 人間の数倍は大きく岩のような筋肉が隆起した流線形の肉体は、人肌にしてはつるりとしており色合いも黒に近い。

 まるでクジラに手足が生えているかのようだった。


 同様に雷光に照らされた荷も、その正体が若い男性と鎧を着た人物であることがわかる。

 彼らはクジラ男が追っている()()()()に船を壊され、海に投げ出されていた。

 その様子を視認したクジラ男は、怪物への追撃よりも二人を救助することを優先して今に至る。


「…………む」


 背負っていた二人を浜辺へゆっくりと降ろしたタイミングでクジラ男は気づいた。

 彼に背負われていた二人のうちの一人……顔色が悪い青年ではなく、青年よりも大きな鎧を着た人物が全く息をしていないということに。


「こいつはいかんな」


 鎧の胴体を右手の平でペタペタと触れる。

 無造作そうにも見えなくはないが、中の人へと負荷がかからないよう丁寧に事を行っていた。


「……うむぅ、こいつはなかなかに難しい。慎重にやらねば」


 何かを感じ取ったかのようにむむむと呟きつつ、クジラ男は一定間隔で胴体に触れていた右手を左わき腹へと移動させ、使っていなかった左手を右胸付近に当てる。


「――――むんっ!」


 そのまま添えていた両腕に力を籠めると、鎧の中にいた人物はビクンと大きく震え、兜の口元から海水と血が混ざった液体が吐き出しながら盛大にむせ始めた。


「……ふぅ、これで良し、と。あとは傷の手当をせねばな。こいつぁ一睡も出来そうにないわい」


 やれやれとばかりに疲れた顔を浮かべるが、それもほんの一瞬のこと。すぐさま神妙な顔つきに戻ったクジラ男は再び二人を担ぎ上げようと、まずは青年の方へと手を伸ばし――――。


「…ライトに、触るな……っ!」

「――――!」


 伸ばした右腕が細腕によって力任せに振り払われる。それも、つい先ほどまで心拍すら停止していたはずの鎧の人物から。

 無論、重症を負っている彼の者の意識は長く持つことなく、すぐさまその場で倒れ伏してしまったが、これにはクジラ男も雨風の感覚すら忘れてしまうほどに驚き、その場で硬直してしまっていた。

 この時、彼は鎧の人物に感服していたのだ。自らの身を顧みることなく、定かでない意識のまま青年の身を案じ、守護しようとしている姿勢を。

 自らが守ると決めた者を絶対に守り抜くという()()の精神を。


 ――――『十忠』の騎士の一人ではないかと思わず勘ぐってしまうほどに。


「いや、流石にそれはなかろうな。『不屈』は『誠実』と共に先の大戦にて犠牲となった哀れな若者であったのだから。……っと、いかんいかん、今はいち早くこやつらの手当てをせねば。老いたワシより若くて未来溢れる命をこれ以上失ってはならん!」


 脳裏に浮上していた雑念を振り払うと、テキパキと二人を担ぎ上げたクジラ男は、暗い島の一部にぼんやりと浮かび上がっている光へ向かって駆け出していく。



 これが、いかなる波濤をも乗り越えてきた男と、未だ波間を漂っているライトとバリューの、切っても切れない奇妙な関係が始まるきっかけとなった。

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