『黒糖』と『黒蜜』
唐突に薬物売りと断言されて、スパイスはたじろぐ。
だが、すぐにライトへ視線を戻し、まるで何事もなかったかのように微笑んだ。
「……わたしは様々な国に行き、様々な人を相手にしたけれど、君たちのような人たちには会ったことはないよ。先ほどまで、わたしの心配をしてくれていたのに、どうして手のひらを反すような真似をするんだい?」
「単に事実を言っているだけだ。シラを切り通すつもりなら、その四肢を砕いてやろうか?」
返事を返すその顔に、先ほどまでの笑みはない。
言葉の勢いを体現しているかのように、ライトは破剣の柄へと瞬時に手を伸ばした。
そんな、今にも襲い掛かりそうになっていた彼を見ても、微笑んでいるスパイスの様子は変わらない。
「わたしとしては、薬物売りだという理由を言ってくれるのなら、正直に認めてもいいのだけどね」
「正直に告げた方が、自分の身のためになるとは思わないか?」
「無実の罪を着せられるぐらいなら、反論した方がいいと思ってね」
「……そこまで言うのなら、一から説明してやるよ」
脅しを受け続けているスパイスは、未だライトの事をじっと見つめるだけで、破剣に添えた腕を一切見ていなかった。
だが、そんな無防備な相手に対しても、ライトは抜刀できる姿勢を維持したまま、一つずつ語り始める。
「一つ目。馬車の中に甘い香りが漂っていたこと」
「荷車に積んでいた果物や植物の香りではないかい? わたしはそのような物を専門に扱って―――」
「俺たちが全ての戦闘を終えても、甘い匂いは消えることなく残っていた。ただの果物でそこまで匂いが残る物など存在しない」
「それは……!」
スパイスが言いかけた話を遮り、ライトは言葉を続ける。
「二つ目。蟲が異様なほど馬車を狙っていたこと」
「なんですって? 蟲はわたしたちを狙ったわけじゃない、とでも言うのですか」
「そうだ。蟲達は俺たちではなく馬車……正確には荷台ばかりを狙って襲い掛かってきていた。だが、それには決定的な理由がある」
「決定的な理由……。馬車の中に食料があると思ったのではないのかい?」
その言葉に、ライトは首を振る。
そのまま、ゆっくりと諭すように言葉を続けた。
「昼間にも行ったけど、ここらの蟲は、音や振動を感知して狩りを行う。横倒しになった馬車もそうだが、俺たちがハクタク以降に戦った蟲も、荷台の方へと吸い寄せられているようだった」
「そ、そんなことは」
「それに、いくら馬車が音を立てているとしても、ここまで荷車の存在に気付く蟲はそういない。その前に他の蟲の移動音に気付くはずだし、二頭同時に三人の人間と二頭の馬を狙うのだと、流石に割に合わない」
スパイスは〈ハクタク〉に襲われたときの事を思い出す。
確かにあの時、最初に狙っていたのは、馬でもスパイスでもなく、その後ろの荷台だった。
だからこそ、馬車は横転して、反撃しようか迷う機会があったのだと。
「それなら、なおさら荷台の食べ物では……」
「原因は恐らく集合フェロモン―――蟲が発する独特な臭いのような物だ。……薬物の中には、昆虫種の内臓を含んでいるものもあるらしいな?」
「―――!」
スパイスはその言葉に口を閉じた。
だが、ライトの話はまだ終わらない。
「三つ目、俺とバリューの体に起こった異変だ」
「それは、君の食欲不振と、バリュー君の腹痛のことかな?」
「それも一つではある。けど、他にも明確なものがあるんだ」
「明確なもの? これといった不調なんて合ったのかい? それどころか、君たちは獅子奮迅の如く……といった言葉が合うぐらいに活躍して―――」
「それだ。普通の人間は、あんな巨大な蟲を討伐することなんて、到底できるはずがない。専門の狩人ですら討伐は大変だろうし、俺たちだって、普通はあれほど撃退することなんてできないはずだった」
「でも、そうならなかった、と?」
「ああ」
ライトは自らの体と剣を軽く見渡し、再度スパイスの方へ向く。
「十二体も蟲を撃退できた理由。それは薬物による疲労感の消失、体の軽量感、視野の向上、筋力の上昇……等だろうな。どれも一時的な物だが、強力な効き目がある。その代わり副作用も強めだ。食欲不振や、意識の混濁、五感の遅鈍化、思考に歯止めが利かなくなり、体が痙攣する。重症になると、幻聴、幻覚、意識の喪失、皮膚や内臓への極度のダメージを負い、場合によって死にも至るどころか、痛みと快楽に溺れて狂い死ぬ。―――実に恐ろしい代物だ、生み出した者は地獄に落ちるべきだな」
「……仮にそうだとしよう。でも、薬物はいつ、どのタイミングで君たちの体の中に入ったんだい? わたしが君たちに薬を盛る暇など無かったと思うけれど」
「それは、恐らくあなたは俺たちに、意図的に薬物を盛ったわけではないからだ」
そう言うと、ライトは懐から小さな麻袋を取り出す。
スパイスはそれを見た瞬間、彼から目を離したことを心底後悔した。
「さっき、荷台から一つ拝借させてもらっている。嗅がないように細心の注意を払って中身を見たら、黄土色の粉が入っていた。そして、この麻袋の近くに同じような形で破れた麻袋があるのにも気が付いた。……これらで、俺たちが中毒症状に陥った原因も把握できる」
ライトは足元に目を向ける。
まばらに草が生えているその大地の色は……。
「この高地の土の色は黄土色。そして、この薬の色も黄土色。おまけに、荷台の中は結構暗いから、粉末が風に乗って飛んでも把握するのは難しい。見えたとしても、高地の砂埃だと勘違いしてしまうだろうな」
「……」
そう、ハクタクに襲われて荷台を倒されたあの時、果物と共にスパイスが薬を入れていた袋のいくつかが破けて、中身が辺りに散乱していた。
ライトが言う通り、この土地の砂と薬物の色はほぼ同色で、匂い以外で薬物か砂か判断するには不可能に近い程だった。
―――だから、ライトたちは気づかずに吸ってしまった。
「これは返す。俺たちが持っていても仕方がない物だ」
「わっ!」
返すと言ってライトは袋を投げた。
スパイスはそれに慌てながら、握りしめないよう優しく袋をキャッチする。
「今のだってそうだ。中身がどうでもいい物だったなら、わざわざそんな行動を取らないだろう? その行動は中身がよっぽど大切なものか、よっぽど危険なものかのどちらかでしか取らない行為だ」
「それは……」
「これ以上、シラを切り通すのは無理だと思うが。どうする?」
「……やっぱり、悪いことは長続きしないって言葉は正しいのかもね」
スパイスはそう呟いて空を見上げる。
その瞳に、天上で光り輝く星々が映る事はない。
虚空を見つめる彼の脳裏には、まだ家族の笑顔が張り付いたかのように残っていた。
「きっと隠し通せると思っていたんだけどね。まさか、君たちが薬物の中毒症状に陥ることになるなんて思わなかったよ。……本当に、済まなかった」
柄から手を離したライトの方へ、ゆっくりと向き直ったスパイスは、頭を深々と下げたのち、こうなった経緯をぽつぽつと語り始めた。
スパイスの家は、他の家庭と比べても貧乏な方だった。
それでも、妻と共働きし、どうにか家計をやりくりすることで、細々ながらも確かな幸せを感じる程度の暮らしができていた。
だが、その幸せも長くは続かなかった。
現勢力に反旗を翻した新勢力が暴動を起こし、それがきっかけとなって内乱が始まったのである。
様々な資源が暴徒の鎮圧、現勢力の粛清という名目で使われ始め、工場で働いていた人手も争乱の為に減らされていった。
だがそれは、ただの正義という建前によるもの。
現勢力は自らが滅びたくないゆえに、好待遇で兵士を募集しており、新勢力側は市民の備蓄を、『革命のため』などという暴論で根こそぎ奪っていく。
それによって自然と物価が上昇、貧富の格差がさらに大きくなり、貧困に悩まされる人々が続出していた。
勿論、内乱による影響は、スパイスの家にも例外なく襲い掛かった。
元々野菜や果実を売り歩いていたスパイスは、仕入れ先の野菜や果物が、内乱の為に手に入れることが困難になっていることを知る。
それでも、どうにかある程度の数を手に入れて売り歩こうとしたが、国の税関にその情報が知らされ、全て没収されてしまった。
国民の大多数が内乱によって飢え、疲れていた。
そして、とうとう戦っている者達以外にも死者が出始める。
飢餓による栄養失調で死ぬものや、絶望し自害する者が現れだしたのだ。
さらに、最悪の事態は重なり加速していく。
この時、すでにスパイスの妻は妊娠していて、まだ歩くこともできないほど幼い息子もいた。
せめて妻に栄養のあるものを与えたい!
愛する息子を飢えによる栄養失調で死なせたくない!!
その一心でがむしゃらに働いた。
そんなある日、スパイスは運よく給料がいい仕事に入れるようになった。
その仕事は……所謂、人体実験の類だった。
なるほど、と納得する。確かに現勢力は非人道的だと言っていた、新勢力の若者の言葉はあながち間違ったものではない。同じ人間を痛めつけながら殺すといった、非人道的行為を推奨していたのだから。
それも、この国民だけではない。どこかの国から連れてこられた奴隷や、社会的に抹殺された人、多くの罪を犯した罪人達もいた。
だが、スパイスは文句一つ言うことなく、彼らと共に多くの人を殺していく。
家族を養う為に、どれ程辛いことがあっても耐え抜いてみせると、そう決心していたから。
現場では人を凄惨に殺し続ける罪悪感や、凄惨な現場を幾度となく見ることによる嫌悪感によって、多くの人がそう長くないうちに、人体実験される側へと入れ替わっていた。
……だが、スパイスはそうならなかった。
いや、正確に言えば、そうなる前に機会を失っていた。
彼は、この現場に来た時には、もう壊れていたのだ。……手遅れだと言われてしまうほどに。
家族のためだったら、何だってする。
家族を守るためなら、どんな手を使っても生き残る。
それ以外の事なんて、彼にとって特にどうでもよかったから。
そんな日々を繰り返して一年ほど経ったある日、幹部まで役職を上り詰めていたスパイスは、上司から金銭に代わる報酬として、疲れに効くという黄土色の薬を貰う。
きっと、いつまでも居座り、順当に上り詰めている彼を働けないように陥れる目的で……いや、そんな生ぬるいものではなく、死んでもらうために渡したのであろう。
それは、スパイスが今売り歩いている薬物『黒糖』だった。
疲れに効く薬が薬物だと思い至るのは、そう難しくなかった。
スパイスは長い間、生きてきた大半を商人として生活してきたのだ、人の悪意なんてすぐに把握できるし、異様に甘い香りがするその薬に、違和感を抱くのも早かった。
貰った当日、危険な薬だと感じたスパイスは、目の前に転がっていた死体へ全て振りかけて、その場を去る。
翌日、死体を見てみると案の定、死体を喰らっていたネズミの一部は酔っているかのように辺りをうろうろとしており、他は異様な死体となって辺りに転がっていた。
それを見たスパイスは、悪魔のような発想に思い至る。
この薬物を使えば、現状を打開できるかもしれないと。
実は、内乱が起きたことによる影響は、決して悪いことだけではない。
元々富裕層だった人々は、彼らの下にいる家来やその家来たちが作った農作物、自らが管理している資材を提供することで、さらに裕福になっていた。
商人歴が長いスパイスにとって、彼らを薬物の虜にするのは、さほど難しくない。
初めはただ横流しするだけだが、隙をついて相手の飲み物に少量の『黒糖』を注ぐ。
それを繰り返すことで、商売相手を薬物無しでは生きられない体にしていった。
こうしてスパイスは、昼は仕事をこなし、夜は『黒糖』を富裕層へ売りさばく売人となり、一部界隈では『黒蜜』と呼ばれるようになる。
そうしているうちに、仕事の上司たちが突如、薬物中毒によって一斉に死亡した。
正確にはスパイスが分量を計算しつつ、感づかれないように少しずつ上司達に薬物を盛っていたのだ。
スパイスはこうして、上司たちが貯蔵していた大量の『黒糖』を手に入れる。
そして、それを売ることで生計を少しずつ立て直していった。
―――ついでとして人体実験施設も崩壊に至ったが、家族の事しか頭にないスパイスには、彼らがこれから先どうなるかなんて、何も考えていなかった。
最終的に、スパイスはたった一人で裕福層を壊滅させ、内乱すらも終わらせている。
けれども、それは全て《家族のため》。
それだけを原動力としていた彼には、そんなことには、一切の関心を持つことすらかった。
……だが、そうしているうちにいくつもの問題が出始める。
スパイスの暮らしている町で、『黒糖』の虜になりそうな富裕層の数が殆ど居なくなってしまったのだ。
そして『黒糖』の強さを舐めていたスパイスは、手足のしびれや食欲不振から、いつからか自分が、薬物中毒に陥っていることに気付き始めた。
(このままではお金を稼ぐことができない。そうしたら、わたしを失った家族はどうなってしまうのか……)
(家族にも薬物による悪影響が出るかもしれない。それどころか、わたしが薬物売りだと辺りに知れ渡ったら、家族に一生負担を与えてしまう……!)
考えに考えたスパイスは、ある手段を考えつく。
近場ではもう殆どの裕福層に売り渡した。
ならば、次はもう少し遠くで『黒糖』を売ればいい。
妻に購入したカメラを持たせたスパイスは、買ったばかりの馬車に乗り、遠くの町へと向かう。
近くの町に行かなかった理由は、薬物を扱っている自分が家族と会う時間を短くするためだった。
勿論、家族に会う時間が短くなるのは、彼にとって地獄のような苦痛である。
だが、もし家族に薬物のことが知られたら……。
薬物を誤って口に含んでしまったら……。
そう考えるだけで、自分が薬物商になっている事自体が、とても悍ましく感じる。
だからといって、家族を養うために、仕事を止めるわけにはいかなかった。
こうして、遠くへ遠くへと向かううちに、他国まで行くこととなったのだ。
「そして、昨日が他国で初めて商売をした日だったんだ」
スパイスは荷台に腰かけたのち、静かに目を閉じる。
その姿はまるで、神に向けて懺悔しているようだった。
だが、彼を睨むライトの顔色は一切変わらない。
「これだけは信じてほしい。君たちを巻き込むつもりは一切なかったんだ!」
「……あのバカの前でそう言っていたら、きっと俺は、あなたを非難することすらできない。―――あいつは、誰に対しても優しすぎるから」
力なく座り込んでいる男へと、苛立ちを隠さずにそう吐き捨てる。
その声がどことなく苦しげだったのは、自分の不甲斐なさを嘆いているからなのかもしれない。
「……そんなに、バリュー君の容体は悪いのかい?」
「俺は毒に対する反応が遅かったから、今になって少し辛い程度で済んでいる。けれど、バリューは荷台に入って直ぐに症状が出ている。ここに着いた時点でも相当に苦痛を受けていた筈だ」
「そんな……! それだったら―――!」
「ああ、そうだ! あなたが作った料理の中にも『黒糖』は付着していたはず! それを一人で……俺の分まであいつは食べたんだ……!!」
「あ、ああ……!」
悲痛な顔で絞り出すように言葉を紡いだ彼に、スパイスはうまく言葉を発することが出来なかった。
その言葉を聞くだけで、すぐに察しがついたから。
バリューが頑なに鎧を脱ごうとしなかった理由。
それは、中毒に罹っている姿を、二人に対して隠していたからではないのか……と。
「繊細でバカなあいつは、あなたが薬物商だって事を俺に隠していた。自分が死にそうになるぐらいに毒を呑んだ癖に、まだ、あなたのことを庇おうとしていた!」
「どうして……そこまでして―――!」
わたしを庇ったのだろうか。と続くだろう言葉は途中で途切れる。
その代わりに、スパイスの瞳からは大粒の雫が零れ落ちた。
「ああ、そうか。『黒糖』が引き起こす薬物中毒について、詳しい症状を知っていたみたいだけど、バリュー君を診断して知ったんだね」
「いいや、あなたが薬物を売った商人に聞いたんだ。正確に言うならその体で調べた、だろうか」
数奇な事に、ライト達もスパイスが寄った国に滞在していて、スパイスが出国するタイミングで、同じように二人も出発しようとしていたところだった。
そんな時、スパイスが『黒糖』を売った商人が二人に声を掛ける。
彼はライト達が富裕層の人間と踏んで、『黒糖』を売りにかかったのだろう。
ライトが軽くあしらい、その場を立ち去ろうとすると、男は急に襲い掛かってきた。
その動きは、まるで常人からかけ離れているように見えた。
しかし、バリューが瞬時に商人を跳ね除け、麻袋の中にある『黒糖』に気付く。
それは一体何なのか。どのような効力があり、どのような危険性があるか分からなかったライトは、バリューの制止を断って、拘束していた商人に『黒糖』を全て用いた。
だから、商人がどのような死に方をしたのか、ライトは全て覚えていた。
「そんな……! 人がやっていい所業じゃない!」
「あなたがそれを言うのか? 俺たちは商人を処分する方法に、商人が用いようとした物を利用しただけだ」
再度睨みつけようと顔を強張らせるライトだったが、表情を変えることなく涙を流しているスパイスの表情を見ていると、どうしても睨みつける気にはなれず、その代用にはならない、何とも言えない悲しげな表情を浮かべる。
「……スパイスさん。あなたはどうしても、薬物売りにならざるを得なかったんですか?」
「わたしたち家族が幸せに暮らしていくには、これしか方法が思いつかなかったんだ。……止めてようと思っても無駄だよ。わたしは、自分がどうなっても構わない。だって、〝いつでもわたしの心は、命は家族の為にあるのだから〟」
「―――ッ!」
ライトの脳裏に、ふっとレイジの姿が浮かびあがる。
彼も、目の前の商人と同じように、故郷に家族を残してきた人だった。
そして、レイジにも愛する娘と妻がいる。
だから、スパイスがその言葉を発することもわかっていた。
けれども、ライトはその言葉に耐えきれず、倒れこみそうになる。
そんな彼へ、脳裏のレイジは振り返って笑いかけた。
『オレは家族のために生きる。もちろん、お前らもそうしろよ? オレにとってお前らも家族なんだからな!』
「うっ―――!」
「ライト君!?」
「……大丈夫です。でも、例え故意でなかったとしても、俺たちに毒を盛ったことを決して許しはしませんよ」
よろめきながらも、けん制するかのようにもう一度、剣の柄に手を触れた。
確かに、彼がやったことは決して許される事ではない。
だが、彼がやってきたことは愉快犯的な行為ではなく、家族を第一に思ってのことだった。
その決心を間違っていると否定出来るだろうか?
許容できない悪だと断罪できるだろうか?
―――少なくとも、ライトには出来なかった。
それを決める権利なんて、彼には存在しないのだから。
*
わたしの信念は揺るがない物だと悟ったのか、ライト君は向けていた視線を外した。
彼はさっき倒れそうになってから、体の震えが止まってない。
わたしが心配なんてしていいはずはないのだけど、今のライト君は、戦いの心得も持たないわたしが倒せてしまいそうなほど、弱々しく見えた。
「……残念です」
心から悲しそうにそう言って、彼はそのまま一瞥もすることなく、後ろを振り返る。
「俺達があなたを護衛できるのはここまでです。念のために目的地を言わなくてよかった。あなたにその場所を毒されるわけにはいかない」
そう言うとライト君は、バリュー君がいるであろう木々の隙間へと消えていった。
彼らを騙すようなまねをし、バリュー君を瀕死に至らしめ、彼らの目的地にも商売の手を広げようかと一瞬でも思ってしまった、わたしの自業自得だ。
彼らに命を救われたのに、彼らの命を奪いかけることになるとは、これっぽっちも思わなかった。
……なんてことを言える筋合いはない。これはわたしの盲目さが招いた悲劇でしかないのだから。
もしかしたら、わたしが知らないだけで、家族にも被害が及んでいるかも―――。
うん、決めた。故郷へと帰ったらわたしが持っているもの全てを売り払おう。
その後、わたしは姿を消そう。
『家族』の幸せではなくて、妻と息子、そして新しく生まれてくる子供の為に……。
「はあ、はあ……これで、よし、と」
翌朝、わたしは荷車の中にあった『黒糖』を、その場に全て埋めるために穴を掘り起こしていた。
でも、本当にこれでいいのだろうか。
私がやって来た事は、こんなことで済んでいいものなのか……。
「……いや、駄目だ。これはまだ使える」
けれど、それを躊躇して、結局荷車の中に戻す。
そして、馬車を飛ばして帰路についた。
荷車の中に充満していた『黒糖』は、目に見える範囲の全てを取り除き、疲れが残っているだろう愛馬に鞭打ちながら、全速力で台地を駆けていく。
背後からずっと追いかけてくる蟲なんて、この際どうでもいい。
この台地から抜け出したら、きっと諦めてくれる。
……とにかく早く帰りたかった。
妻と、息子、新しく家族になった赤ん坊の顔が見たかった。
それにしても、汗が止まらない……。喉も乾いてきた。
首にかけておいた水筒の水を、口に含んで―――
「……………………ん?」
気付けば、わたしは空を見上げていた。
あれ……荷車に屋根はなかったかな?
辺りを見渡そうとして立ち上が……れない。
手足の先端はやけに短くなり、真っ赤に染まっていた。
おかしいなぁ……。こんなに手足って短いものだったかな?
少し離れた所に小さな小屋らしきものがあるけど……。
あれはもうダメみたいだ。ボロボロで何者かが荒らしているみたいだから。
近くには馬らしきものが転がってはいたけれど、それは馬とはいえなかった。
赤と茶色が混ざり合っている。それに中から白っぽいものが転がり出てきた。
やっぱり、あれは馬じゃないな。
……ん? わたしは馬に乗ってきたのだったか?
なんでだろう、いまいち思い出せないな。
「えーと、何をしようとしていたんだっけ?」
必死に考えてみるけれど、靄が掛かっているみたいで何も頭に浮かんでこない。
周りを見ていなかったからか、いつの間にか目の前に黒い影があった。
硬そうな体でたくさんの足が生えている。
―――蟲だ。
「あ、うあ……!」
蟲は怖い!
わたしを食べるつもりだ!!
―――いや、違う! 確か……。
こ、こ……粉を食べるんだ!
―――なんだ、全然怖くないじゃないか。
むしろ、嬉しそうに私を見てくれて……。
そうか。馬がいなくなったから、代わりに家まで送ってくれるんだね。
助かるよ。
蟲がわたしを咥えた。
おびただしい赤が、地めんを染めていく。
蟲のよだれかな?
下はんしんに、いわ感がはしった。
でも、すぐにおさまった。
ありがとう、ようやくいえにかえれるんだね……。
*
(それにしても不思議な人たちだったな……)
『黒蜜』は、最期に会った二人組の事をふと思い出す。
彼らは、皮革製の鎧を着た青年と、巨大な甲冑に身を包んでいる人物といった、明らかに旅に適していなさそうな二人組だった。
それに、旅をしているという割にはやけに軽装備で、戦いに使うとは思えない形をした武器を、それぞれ持っていた。
(彼らとの出会いは、わたしにとって運が良かったとも、悪かったとも取れるな……)
こうして、薬物中毒により脳が崩壊しかけたスパイスは、微睡む視界の中、蟲に咀嚼されながら、彼らとの経緯をまた振り返っていく……。




