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"理想郷" その一

「はあ、はあ……。そろそろ、かな……?」


 乱れた息を落ち着かせるため、バリューはゆっくりと呼吸のリズムを整える。

 突如として雨が降り始めたおかげで、火の勢いは多少弱まりつつあったが未だ消える見込みは無い。

 また、空気中には煙や煤が蔓延しており、深呼吸することも儘ならなかった。


 二十人近い荒くれ者たちを相手し、フードコートにて薬で操られた獣人たちとの死闘を乗り越え、道を邪魔する守衛や奴隷たちを無下にする商人を蹴散らしつつも、囚われていた者たちを解放していた彼女の顔は、その運動量の激しさ故に、疲れと酸欠で焦燥しきった顔になっている。

 けれども、マーケットの中心、競りが行われていた大テント付近まで進んできた歩みを止めることはない。

 それは、ただ与えられた計画を守るための行動ではなく、この地獄のような様相を望んだ()と対峙するためでもあった。


「…出てこい。貴様の事だ、既に到着しているのだろう?」

「いやいや、そんなことはないよ。僕もついさっき到着したばかりさ」


 火が燃え移っていない物陰から、のっそりとサルヴェイは現れる。

 遅い到着となった原因と思わしき、全身の()()を気にしながら。


「おや、随分と酷い有様だね。まあ、僕も人のことは言えないか。とはいえ、ここまで服が汚れたのは久々でね。雨で落ちてくれたら万々歳なんだけど、流石に厳しそうだ。早く帰ってシャワーを浴びたいよ」

「…そうだな。その恰好はあまりにも酷い。()()()()に足でも取られて転んだのか?」

「まあそんなところだよ。随分としつこい()()()()でね、無理やり抜け出したら逆に酷く汚れてしまったから、そりゃあもう大変だったんだ」


(何が、「無理やり抜け出したら逆に酷く汚れてしまったから、そりゃあもう大変だった」、よ。スーツの()()()()()()()()()()()血塗(ちまみ)れになっているのに、何事もなく笑っていられるなんて、正気だとは思えないんだけど……)


 スーツは擦り切れ、所々に穴が開いていたが、怪我をしている様子は見受けられない。

 つまり、彼の全身を塗り潰している紅い液体は、誰かの返り血なのだろう。

 だが、それは何もスーツだけではない。シルクハットの頂点からつま先に至るまで、全てがドス黒い真紅に染まっていた。


 雨のせいでもあるだろうが、付着した返り血は未だにサルヴェイの体から滴り落ちている。

 どれほど(おびただ)しい量を浴びればあのようになるのか、彼女には見当もつかない。

 大粒の雨でも洗い流すのが難しいのか、滲んだ印鑑のようになっている紅く染め上げられた革靴の足跡が、点々とサルヴェイの背後に残っていた。


「…サルヴェイ、()()()貴様の目的か?」

「少し想定外の事態があるけど、おおよそその通りかな」

「…そうか」

「大体言おうとしている事は分かるよ。なにしろ、こんな格好になっちゃっているしね」


 薄気味悪そうな顔をして真っ赤なスーツを見せつけてくるサルヴェイへ、バリューはただ眼光を尖らせた。

 ……マーケットの殲滅。当然だが、それは彼女にとっても望ましいものではある。

 だが、この場を荒らし尽くしたとして、奴隷たちの安寧が確実に得られることはないのもまた事実。

 その全てを加味した上での行動だというのならば喜んで賛同するが、その場限りの対応であるのならば、バリューは決して認められない。

 それこそ、今この場で無力化させてしまっても構わないと思うほどに。


「白状するよ。ここまでのことをわざわざやったのは、全ては"理想郷"を作り上げるためなんだ」

「…"理想郷"だと? 貴様が行っていたことは、この混乱に乗じて悪党から金銭を盗み、逃がせるだけの奴隷を私に逃がしてもらいながら、この場を後にすることだろう」

「そうだよ。悪党に誠意を払っても仕方が無いだろう? 自らの行いがどれほど愚かなのか、身を以て知ってもらうのが一番だよね。それに、殆どの者たちが全てを失うんだ。また悪さを行おうと考えられなくなるとは思わないかい?」

「…そうやって、悪には悪を振りかざすというわけか」

「ああ、これは必要悪なんだ。救いを求める者たちをこの手で救い、悪に"理想郷"を壊されないようにするための、ね」


 悪人たちの真紅に染められた姿のまま、サルヴェイはバリューへと笑いかける。

 正しいことを成しているかのように、清々しいほど晴れやかな顔で。

 ……それでも、彼女にはその笑みを浮かべられる理由が、どうしても解せなかった。


「…貴様がそこまでして求める"理想郷"とは、それほどまでに崇高なものなのか?」

「勿論さ。世の中には不条理が多すぎる。特に弱者や他とはまるっきり違う者たちは、そういった不条理、迫害の影響をもろに受けることだろう。……僕はそういった者たちを救いたい。そのために、彼らが安らかに眠り、健やかに生きていける"理想郷"を作り上げる。それこそが僕の正義だ」

「…随分と傲慢な考えだな」

「傲慢なのは百も承知の上だよ。もし正義の名の下に罰されるというのなら、僕は甘んじてそれを受け入れよう。それくらいの覚悟なんて、最初から持っているさ」


 言い慣れているような言葉遣いでサルヴェイはさらりと答えるが、眼差しは真剣そのものだった。

 自らの歩む道が、決して善意だけで成立できないものだと割り切り、命を賭ける覚悟をとうの昔に持っているのだろう。

 たとえそれが、半強制的な幸せを与えることだとしても。


「…この場に集うものたちが悪人なのは間違いないな。だが、貴様が正当な金額を支払ったとて、その奴隷へ己の思想を押し付け、自由と尊厳を縛り付け、愛玩(あいがん)人形のように扱い続けると言うのならば、貴様もここにいる者たちと何ら変わりない」

「でも、君には計画性が無い。“救いたい”という気持ちばかり先行していて、その実、救える者はほんの僅かばかりだ」


 サルヴェイの言う通り、バリューは直感や激情でその場を乱すことの方が圧倒的に多い。

 冷静さに欠けているといった致命的弱点について、彼女も痛いほど理解し、改善方法を模索してばかりだった。


 ……だが、それだけでは駄目なことも、同時に彼女は理解している。

 自らに課した"守護"の志は、その激情からくるものであり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()でもあるのだから。


「…それは貴様も同じだろう? その上、購入した奴隷に拘束を強いている。そのような分際で正義を名乗れるとでも?」

「"拘束"と言ったかな。いつ僕は彼らを拘束していると言ったかい? 彼らには自由を尊重させているよ。無論、制限はついてしまうけれどね。彼女らを陥れる魔の手から守り、幸せに日々を過ごしてもらうにはそれしか手がないのだから」

「…戯言を、制限を設けた自由を与えておきながら何が幸せだ! 幸福は誰かに強要されるものではない! 貴様のように、自らの正義を押し付けるだけで誰もが救われるというのならば、不条理に苦しむ者は生まれないはずだろう!!」


 あまりにも自分勝手な言葉に激昂(げっこう)したバリューは忌々しげに吐き捨てる。

 怒りに震える彼女の脳裏には、誰にも助けを求めることが出来ず恐怖を植え付けられた挙句、好き勝手に弄ばれていた猫人族(ケットシー)の少女の姿が浮かんでいた。


「僕が行っているこれは『他者を尊重する正義』だよ。それに、さっき君は言ったよね。僕一人では助けられる者たちの数に限りがあるって」

「…だから救えない者たちは見殺しに……いや、その命までをも奪うか! 貴様は神にでもなったつもりか、サルヴェイ!!」

「神だなんて烏滸がましいな。でも、多くの民を救ったとされる救世主(メシア)、ネヴァー=コンティニューに憧れと畏敬の念を抱いてはいるよ。もっとも、僕は彼のような聖人にはなれそうにもないけどね」

「…そうか。ならば、私から言うことは一つだけだ」


 サルヴェイがどれほど崇高な理念を以て"理想郷"を生み出そうとしているのかも、過去に生きた聖人にいくら憧れと信仰心を持っていようとも、彼女の知ったことではない。

 ゆっくりと拳を握り直すと、足元の泥をはね上げるほど力強く一歩踏み出す。

『平穏のための隔離』という救済を掲げる男を、これ以上先へと進ませないように。


「…その考えを改めて貰おう。でなければ、ここで痛い目を見ることになるぞ」

「……あのさ、何者も虐げられることのない"理想郷"だよ? どうしてそこまで邪魔をしようとするんだい?」

「…簡単な話だ。貴様の語る"理想郷"とやらがどれほど素晴らしいものだとしても、貴様が維持、管理を行うのだろう? だとすれば、奴隷たちを幽閉しているのと大差ない。……そして、私はそのように害される者たちを守ると誓った」

「なるほどね。でも、君が"守る者"だと言うのなら、なおのこと気に喰わないな。雨は降り出したけれど、火は未だ消えていない。まだ避難できていない奴隷たちだって多くいるはずだ。だとしたら、こうして僕と戦う暇なんてないと思うけれど?」


 サルヴェイの言う通り、一帯を燃やし尽くしている炎は未だ勢いが衰えない。

 今こうして対峙している間にも奴隷たちは逃げ惑い続けていることだろう。

 バリューが助けた猫人族(ケットシー)の少女が逃げ遅れ、煙に巻かれたのち命を落としている可能性すら否定はできなかった。


「…貴様の言葉を返させて貰おう。確かに、私が救える者はほんの僅かだ。自らの実力が伴わないばかりに、大切な人を失ったこともある」

「だとしたら――――」


 だとしたらすぐに引き返すべきだと、バリューも思うところはあった。

 それでも、彼女はその場を去るそぶりを見せない。

 否、決して後ろを振り返ることはなかった。

 ――――何があったところで、既に間に合わない位置まで来てしまっているのだから。


「…だとしても、だ。この場で逃げている奴隷たちも守ってやりたい。だが、それと同様に、貴様に拘束された奴隷たちも守ってやりたい。だから、()()()()()()()()。私がその場で出来ることをただひたすらにやり遂げる」

「何だいそれは、ただの欲張りじゃないか」

「…欲張りで結構。()()()()()()()()()()()()だけだからな。今、最も守るべき対象は誰なのか、それぐらいなら決断出来る」

「……優先順位、かい?」

「…ああ。あの場では、逃げることすら出来なかった者たちを守り、退路を作ること。それが私の限界だった。だがなサルヴェイ、貴様に囚われた者たちを私はまだ誰一人として守れていない。ならば、次に行うべきは()()だとは思わないか?」


 眉をひそめて話を聞いていたサルヴェイの顔は、彼女の真意に気付き段々と穏やかな笑みへと変貌していく。

 それは、あまりにも愚かしい考えをあざけ笑うかのようだった。


「なるほど……あくまで君の目的は、奴隷の()()ではなくて、()()なのか。ただその場限りの救いを与え、その後のことは素知らぬふりをする。……そんな偽善で、どれほどの奴隷たちが亡くなったのか、君は知らないんだろうね」


 未だ勢いが収まらない大雨と大火の中、相対する敵から視線を外したサルヴェイは、煤煙と暗雲が混じり合った空を仰ぐ。


「ああ、そうか。わかるはずもないか。虐げられた者たちが、どれほど救いと温もりを欲しているか、なんて」

「…世迷言はここまでだ。今、ここで悔い改めろ。己のためでしかない正義が誤りだということを」


 未だ上空を見上げたままの男に躊躇(ためら)うことなく、バリューはその場で体を深く沈めると、足全体をバネにして駆け出す。

 倒れこむような体重移動。それは鎧を着たままでも一種にして最高速を引き出すために編み出した、彼女独自の走法。


「貰った……っ!」


 懐へと到達し、目測を捉えた右腕の拳打はサルヴェイの胴体に深々と沈み込み、勢いを少しとして殺されることなく振るわれ――――。


「が、ふっ――――!?」


 ()()()()()()()()()()()()()()()()


「ゴホッゴホッ……! 何、だ……。今のは……!」


 逆流し喉に詰まりかけた胃液と血反吐を吐き出しながら、ゆっくりと体を起き上がらせる。

 空中で体勢を立て直し着地の衝撃を殺していたにもかかわらず、腹部に殴り返されたような衝撃は彼女の体に食い込み、内蔵の一つを潰していた。


「さあ、一体何だろうね? 当ててみるかい?」


 今更になって漸く視線をバリューへと戻したサルヴェイは挑発するかのようにそう言ってのける。


(何、さっきの……!? こいつは少しも動いていないはずなのに……!)


 彼女の拳はサルヴェイの鳩尾を捉え、刺さる感覚を確かに感じていた。

 だが、スーツに拳の跡がついただけで、サルヴェイの顔は冷ややかなまま一切の変貌を見せてはいない。


「それにしても、無抵抗の人に血反吐を吐く程の拳をぶつけようとするなんて、流石に酷くないかい?」

「なる、ほど……! 反射、能力、か!」


 いくらか制限はあるものの、彼女が依然使った鋼の精霊術『物衝反射』や、魔術の類にはこのような反射能力が僅かながらに存在する。

 おそらくだが、サルヴェイもその能力の一端を常時発動しているのだろう。

 だとすると銃弾や剣戟すら相手に返すのだから、ここまで返り血に塗れていても不思議ではない。


「ちょっと違うかな。実はね、()()()()()()()()()んだ。ただ、僕と対立した人たちは二度と立ち上がることはなかった、とだけ教えてあげるよ」

「…何だ、それ――――ごぶっ!?」


 せりあがってくる激痛と血液をこらえきれず、バリューはその場で蹲り嘔吐する。

 そもそも、彼女が与えようとした一撃は、内臓を潰すまでの力を入れていない。

 だというのに、その体内は多少の振動だけでさえも耐えきれずに、悲鳴をあげていた。


(なんで……? あの程度でここまで内臓が痛むなんて……あっ! もしかして、あの時の怪我……! とうの昔に治ったと思ったのに……!)


 脳裏に思い起こされたのは、ツギハギの少年から受けた『裏通し』の拳打。

 あの攻撃により彼女の臓器は一度、壊滅的な状況まで陥っている。

 どうやら、専属騎士の魔法使いに治癒してもらった傷は、完治に至ってはいなかったようだ。


「…確かに、ここまで強く、殴っては、殺しかねない、ものな」

「最初から殺しに来たのかと思っていたけど、違うのかい?」

「…守ることに、殺しは、必要ない、だろう」

「場合によると思うよ。例えば、今、この状況とかね」


 悟られないように平静を装い、刺すような痛みをこらえ立ち上がる。

 みぞおち付近から絶えず全身に回ってくる痛みと、せり上がる吐き気のせいで正常に頭を働かせることさえ許してはくれない。

 ――――それでもなお、彼女はサルヴェイの前に立ちふさがる。


「…『全ては学びの内に在り。されども答え未だ無し』とは、まさに、貴様と私の、考え方の違いを、捉えた言葉、だな」

「ふうん、極東……《日出》の諺かい?」

「…ああ、私が尊敬する、友の言葉だ。そして、こうも言っていた。『鉢に囲われた金魚は、大海を知れず惨めに朽ちる』とな」

「その、言葉は――――ふふっ」


 どこか含み笑いを浮かべたサルヴェイは、胸ポケットから金属製警戒棒を取り出し、右手で軽く振るい引き延ばす。

 先程まで優し気だった瞳は、いつの間にか鋭く尖り、冷徹な眼差しでバリューの双眸を見つめ返していた。


「ああ、成程。そういう事だったのか。漸く合点がいったよ」

「…何が、言いたい?」

「いいや、君に伝えるほどでもないことさ。……それに、手加減する気もなくなったからね。君にはここで死んでもらうよ」


 直後、駆け出してきたサルヴェイから距離を取ろうと体を突き飛ばすが、相変わらず突き飛ばされる力はバリューへと襲い掛かってくる。

 ならば、見えない位置からの攻撃はどうだ、とばかりに足を払うが、またしても彼女の方が足を払われ転倒した。

 そうこうしているうちに、マウントポジションともとれる位置に立ったサルヴェイは、バリューに起き上がる隙すら与えず金属製警戒棒による衝打を叩き込んでいく。

 それも、ただがむしゃらに叩かれているわけではなく、装甲が薄い関節部分やダメージの大きい腹部を執拗に狙っていた。


「う……っ! ぐ、ぅ……っ! く、そ…………っ!!」

「はぁ、はぁ、よく、もつね。いい加減気絶ぐらいしそうなものだけど、さぁ!!」

「うぁ…………っ!! …………っっっ!!」


 サルヴェイは一心不乱に鎧の脆い箇所を叩き続ける。

 目の前の障壁を打ち砕き、己の正しさを証明するため、ひたすらに叩く、叩く、叩く、叩く、叩く……。


 ――――そうして、どれぐらいの時間がたっただろうか。

 疲れと汗で金属製警戒棒を落としそうになったサルヴェイの隙を突き、バリューは漸く猛攻から逃れる。

 だが、全身にわたる打撲傷は彼女の動きを鈍らせ、激痛と痺れにより立ち上がることすら困難となっていた。


「はぁ……はぁ……、もう、諦めたら、どうだい? 君は、どうあがいても、僕に傷一つすら、つけられない!」

「…………いや、まだ、だ。……まだ、私は、戦える……!!」


 ぐっ、と奥歯を強く噛み締めたバリューは、ふらつく体を叱咤し叩き起こすと、懸命に前へと歩みを進める。

 サルヴェイの言う通り、"理想郷"は虐げられる者たちの安息地となりえるかもしれない。

 だが、その機構が完全だと信じてはならない。

 決して完璧だと認めてはならない。


 彼の正義で救われる者たちが居たとして、どうしようもない不幸に落とされた者が居ることを忘れてしまうのは、己だけの幸せを得て見えづらくなった悪性から目を背けるのは、自らの善性に酔いしれる滑稽な愚者と大差ない。

 そんな者に堕ちてしまうくらいなら、彼女は血の沼に足を取られ、存在しない傷の激痛に襲われても、屈することなく立ち上がり、何者かの壁になり続けることだろう。


 囚われているような思考であれど、我が身が尽きるまで誰かの盾として守護することこそが、バリューにとっての正義なのだから。


「うおおおおおおおおおっ!!」


 揺れて目測すら定まらない視界の先、ぐにゃりと歪んだサルヴェイの輪郭へと、硬く握りしめた左手を懸命に伸ばす。




 ――――だが、その拳が彼の体に傷を与えることは、最後までありはしなかった。

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