適材適所な潜入方法……?
マーケット当日、ライトの秘策によりどうにか会場内へと侵入した二人だったが、その足取りは軽やかとは言えないかった。
何しろ、先頭を歩いているバリューが足早に進むことを渋っているせいである。
だが、早く進まないと女神が売り捌かれてしまう可能性は十分にあった。
彼女の背後から同速で付いてくるライトは尻を蹴っ飛ばしてでも進ませようかと思いながらも、今の立場上そうもできないからと、ただ黙って後を追従する。
「…なあ、本当にこれで大丈夫なのか?」
「(あまり話しかけるな、少しでも怪しまれたら計画が失敗しかねない)」
「…………」
最後の最後まで意見に反対していたが、これしか打つ手がないと悟り渋々計画を実行する決意をしたものの、やはり納得がいかないらしい。
嫌そうな声色で問いかけていた彼女の胸中は、きっと煮え切らない思いが燻っていることだろう。
だが、計画の破綻だけは避けるべきだと自らを諭すように、頑丈な手綱を強く握り手元に引き寄せる。
「ぐえっ!」
「あ! ごめ――――」
「…………」
「…………ちっ!」
そう、手綱は首輪につながれている。
当然だ。そうでないとただの手荷物でしかないのだから。
ただ、その首輪を身に着けているのは他でもない、どこからか調達してきたボロボロでだぼだぼな麻の衣服を着用し、泥を浴びたかのように薄汚れた格好となっていたライトだった。
*
「バリューは『観測者』という種族を知っているか?」
「ず、随分唐突だけど、私が奴隷商になることと関係ある?」
「大いにある」
「まぁ、そう言うよね……」
あまりの突拍子のなさに呆れているが、ライトは元々からこんなやつだったなと気を取り直して話を聞く。
「一度でも聞いた覚えすらないけど、一体どんな種族なの?」
「簡単に言うなら、見た目は人間と全く同じだが、人間をはるかに超える頭脳を持つ者だな。一目見たものは決して忘れないだけでなく、手に入れた記憶や感覚は種族間で共有出来たらしい。それも、産まれてきた瞬間から」
「そ、そんな種族がいるんだね……」
「まあ、、誰一人『観測者』が何処にいるのか知りもしない以上、ただの噂程度の存在だがな。子として群となり、絶対的な思考力から全知全能とまで言われたが……所詮は噂。都合のいい作り話だ」
「でもさ、噂じゃなくて本当に存在していたら……。もしかしたら、ただ器用に隠れているだけなんじゃ――――」
「ああ、そのように考えている者は少なからずいる。例えば珍獣を捕らえるハンターや、それこそ奴隷商に」
「あっ……!」
「察しがついたようだな」
もし、存在しないとされていた者が突如目の前に現れたならば、誰しもが驚くことだろう。
ある人は恐怖し、またある人は狂喜するに違いない。
全知全能とまで噂される『観測者』だ、その恐るべき価値は神にも届くかもしれない。
――――だとすれば、それを利用する価値は十分にあった。
「作戦はこうだ。俺が『観測者』のふりをして、バリューが扮する奴隷商に売却される。近海の女神同様か、それ以上に『観測者』の価値は高い。二つ目の目玉商品としてカウントされることはほぼ間違いないだろう」
「でも、 それってすぐにバレない? ライトの嘘って結構バレバレだよ?」
「そう言われると思ったから『観測者』を選んだんだ」
「……?」
説明不足なのはわかっている、ちゃんと説明するから少し待て、と言わんばかりにライトは右掌を前にかざす。
長年の付き合いからか、兜の下に隠れたむすっとした顔を既に察していたのかもしれない。
「彼らは知識量こそ凄まじいが、それさえ補えればさして大した差にはならない。主催者並みの権限を持つ者に認可されたら、それこそ誰も偽者とは思わないさ」
「その知識量が問題だと思うんだけどなぁ」
「安心しろ、俺は昔『跳ね回る百科事典』と呼ばれてきた男だぞ。街に立ち寄った時はいつも調べ物をしていたしな」
「逆に凄く不安になってきた……」
いかにも不名誉そうな名前を誇らしげに語る彼をよそ目に、バリューはがっくりと項垂れる。
「俺は商品として扱われるはずだから、管理用の牢に一時的に閉じ込められることになる。そこで女神に出会えたら最高だな。その場合だと隙を見計らって錠を壊し、そのまま逃げ切ってしまえばいい」
「つまり、ライトが女神を奪還できた頃に、私が陽動役として暴れ回ればいいわけね」
「そうそ……いや、違う! それだとバリューが殿を務めることになって、女神を守ることが困難になる。だからお前には女神の護衛をしてほしい。少なくとも、俺よりはそういったことが得意だろ?」
「そう、だけど…………」
「まあ、言い淀むのもわからなくはない。最悪の場合、女神が何者かに購入された後に俺が買われることになるからな。だが、その場合は『未知案内』が出来るバリューだけが頼りになる。確実性を求めるなら、これしか手はない」
「でも、ライトはもし嘘だとバレたら……」
「何、俺なら絶対に大丈夫だ。レイジさんと拠点攻略した時だって、武器防具奪われた状態で牢獄に閉じ込められたが、作戦は見事に成功、こうして五体満足でここまで来たわけだしな」
「……わかった。それしか本当に打つ手がなさそうだし」
ここまで言い出すとライトは他の意見を頑として受け付けない。
とはいえ、彼の言い分も尤もであり、これ以上にいい案が思い浮かばないのも確かではある。
やっぱり自分に作戦計画は向いていないと、バリューは考えることを辞めた。
「でも、こんな作戦はこれっきりだからね! 毎度毎度やっていたら、命がいくつあっても足りない」
「当然だ。俺だって敵地のど真ん中に何度も囚われるのは御免だからな」
*
そんな経緯があったのだが、やはり割り切ることが出来ていないのか、彼女のどことないぎこちなさを奴隷は感じていた。
終始至極申し訳なさそうに頭が項垂れていたが、現在位置はきちんと把握していたのか、大きなテントの付近で足を止める。
「…ここか」
見上げる視線の先に遭ったのは、サーカス劇団が公演をおこなっていそうな巨大なテント。
違う点としては灰一色に染められた素材が分からない布地が使われていることと、防音に優れているのか中の様子が一切分からないという箇所だった。
普段は、どうしようもない場合を除き、あまり危険な所へは立ち入らないようにしていた二人には、あまりにも危機感を募らせる場所ではあったが、今回はそのどうしようもない場合に含まれる。
「……(いくよ……?)」
「(ああ)」
一度立ち止まった足を、数秒も経たず再び前へと踏み出す。
目指すは裏手にある関係者入場口。
奴隷を従業員に引き渡すことすらできなければ、作戦は始まる前から失敗してしまうも同然。
それだけは避けるべく、なるべく怪しまれないよう慎始敬終且つ大胆不敵にテントの裏側へと回り込む。
――――なんて、そう簡単に事が進むわけはなく。
「おい、お前、そこで止まれ」
「(案の定止められたか)」
想定した通り、テントの従業員入口には、見張りと思わしき男性が立ちふさがっていた。
門番にしてはやけに高級感を漂わせていた男は持っていた装飾銃に手をかけ、彼らをじろりと睨みつけてくる。
「どこの誰だか知らないが、ここはキサマらのような薄汚れた子悪党が来るような場所じゃねぇんだ。せめてオレぐらいの財力やコネを持ってから来ることだな。……まあ、無理だろうがな!」
明らかに高圧的な態度で脅してくるが、その仕草こそが子悪党じみているんだけどな、と奴隷は心の中で呟きながらも、いかにも嫌々そうに前へと進み続けるバリューの背を追いかける。
そして案の定――――。
「……」
彼女はこういった“上から目線で語り掛けてくる搾取者”の話を一切聞きたがらない。
「おい! 止まれと言っているだろう!?」
「(なあ、ホント、いい加減にしてくれよ……)」
後ろを歩き続けていた奴隷は半ば呆れながら、それを悟られないように歩みを止める。
彼の足が止まってしまっては、無視を決め込もうとしていたバリューも流石に足を止めざるを得ない。
「キサマ、何者だ。ここはお前のような世間知らずが来るような場所じゃ――――」
「…私が連れてきたコイツを見てわからないか」
「ああ、わからないな。ただ首輪でつながれた奴隷にしか見えない。コイツの正体はそこまで貴重なものなのか」
「…いちいち教えるのは面倒なんだが……。『観測者』という名ぐらいは聞いたことがあるだろう」
「…………今、何と言った?」
「…『観測者』だ。何度も言わせるな」
「ふっ――――」
「…ふ?」
番人の顔が一瞬にして真っ赤に染めあがった。
「ふざけてんのか、キサマは……! その青年が『観測者』だと……!?」
「…ああ、世代を超えて記憶を受け継ぎ、この世の全てを調べ尽くしたがゆえに、神の怒りに触れ、滅ぼされたというあの『観測者』だ」
(……無事、ヒットしたか)
やはり、『観測者』という単語に引っ掛かった。
存在するか定かではない種族が実際にいるとなると、困惑と同時に期待も膨らむものだ。
とはいえども、『観測者』かどうか、傍目から見ただけでは知り得るすべもなく、こうして怒髪天を突くのも至極当然ではある。
「人をバカにするのも大概にしろよ似非騎士! どこからどう見てもただの一般人だろうが……! これ以上コケにする気なら、どうなるか分かっているんだよなぁ……!?」
もしかすると、相手を一切信頼せず無作法なふるまいをするのは、この男の特徴なのかもしれない。
実は、こういった手合いほど厄介極まりないものはいない。
一度頭に血が上ると相手の話を聞き反論を返すなどいったことは出来ず、ただ怒鳴り、その場から追い返して漸く落ち着くといった思考パターン。
故に、交渉などは明らかに向いていないだろう。
――――だからこそ、その対策は万全な状態にしている。
「…そう思うのなら、当てさせてみようか。お前の全てを」
「……は? なんだ? キサマ、一体何を言って――――」
「…答えろ。目の前の男について」
「………………ぐ――――ッ!!?」
回答を拒むかのように下を向いたままだった奴隷の首に繋がっている手綱を引っ張り上げる。
あまりの力強さからか奴隷の動きは前に転ぶような形となってしまい、自然と首輪が喉元に食い込んだ。
だが、もがき苦しんでいる奴隷を気にする素振りすら見せず、なおも引き上げる力を強める。
「…もう一度だけ言ってやる。この男について答えろ」
「わ、わかり、まし、た……。げほっげほっ!!」
冷めた目つきで番人はその様子を見守っていたが、彼らを見る眼差しがいつの間にか座ったものになっていた。
少なくとも、今の行動が演技に見えなかったからだろう。
それもそのはず、ここに着く前に、お互い遠慮は一切なしだと決めていたのだから。
「こ、この方はマーケットの副主催の方です。名前はアクイサ・ロル・テミストレ、お歳は四十三と二か月です。マーケットには二十を超えた辺りから勤め始めて、四年と八か月前に今の役職になったのです」
「なんだぁ? この場にいる奴なら誰だって知ってそうな事しか答えてないじゃないか」
テントの番人を請け負っていた副主催者アクイサは、分かり切ったことを言われたからか、苛立ちが再び戻ってきていた。
あまりの怒りからか頬に汗が伝い、右手はぶるぶると震え、首のネクタイが煩わしくなったのか、大きな腕時計が巻かれた左手を使って適当に緩める。
――――その付け込める隙を、奴隷は見逃さなかった。
「それと……」
「それと、なんだ? まだわかりきったことを語り続けるのなら――――」
「いいご趣味をしていらっしゃいますね。先ほど、ほんのわずかばかりですが、首筋に太いミミズ腫れがみえました」
「……ッ!?」
いきなり変な事を言われたからだろうか、アクイサは慌てて右手で首の右側を抑える。
力んでいた腕で隠したからか、動きが少しぎこちない。
まあ、慌てて隠したところで、太いミミズ腫れの跡など存在しないので意味はないのだが。
「すみません、ただの見間違いだったようです。……ですが、先ほどの慌てようは明らかにそういった性癖があるとみてもよろしいかと」
「ななな何を言っている! このワガハイがそんなプレイなど……!」
「それに、右半身に少し麻痺が見受けられます。また、左手を動かした時、腕時計の下の地肌に黒ずんだ丸い虫刺されのような跡がいくつも見受けられたので、間違いなく直近に注射されていますね」
茹でダコのように真っ赤だったアクイサの顔は、面白いほどみるみるうちに青ざめていく。
まず間違いなく、誰も知らないはずのプライベートを暴露され、混乱に陥っていることだろう。
普通は知り得るはずのない情報など、この世には山ほどある。
だが、物は使えば証拠が残り、人を使えば記憶に残る。誰も何も知らないなどということは絶対にない。
マーケットが開始される数日間、二人は使えるすべを総動員し、必死に彼の情報を集めていた。
相当の労力と持ちうる金銭を投げ打っても、アクイサの全てを知ることは不可能だったが、叩けばボロを出しそうな情報は十分に手に入れている。
「顔色を偽る化粧も見事なものですが、取り乱してしまっては拙いですよ。あなたは緊張しいで汗っかきなので、早めのお色直しを推奨します。三十年を超える使用のせいで、緑色に変わってしまっている唇がはっきりと見えてしまっていますが、こういった場合、まずは嗜んでいらっしゃる葉っぱを召し上がって、その後にお化粧直しするのはいかがでしょうか。主人もわたくしも口の堅さは保証でき――――」
「わ、分かった! 分かったから、もう、止めてくれ!!」
アクイサは半ば狂気に陥りながら、悲鳴のような声色で奴隷を怒鳴りつける。
青ざめていた顔はもはや血の気も失せて真っ白になり、今にも卒倒しそうなほどの焦燥感が顔に表れていた。
「…これで十分か?」
「あ、ああ……! 好きに、しろ……ッ!」
キサマらの顔など二度と見たくない! とばかりにアレクサ手を払って彼らをテントに促す。
けれども、焦燥感に襲われているのは二人も同じだった。
「(少し手間取った……! 急いでブースに向かうぞ)」
「…ああ」
想定していたよりもアレクサが粘ったこともあり、商品や金銭を受け取った者たちが、続々と通用口から流れ出ていた。
このまま手綱で奴隷を引っ張って行くとなると、目玉商品となる女神が売却されていてもおかしくはない。
とにかく、それだけは絶対に避けておきたかった。
「(ごめん、ちょっと我慢して!)」
「ーーーーっ!」
相棒が返事を返す間すら与えず、右手で首輪を持ち、左手で胴を抱え上げるという変な持ち方で、彼女は駆け出した。
当然ながら人の往来が激しいものの、バリューが身体を通す隙間はある。
《クラッドレイン》で人混みを避けながら歩いたことを思い出しながら、先を急いだ。
「はあ、はあ、マズい……」
だが、案の定と言うべきか、バックヤードは待ち人すら殆どいない、がらんどうの様相だった。
「おや……? 貴方様も商品を売却しにまいったのですか?」
「…あ、ああ、少し遅くなってしまった。目玉商品はどうなった?」
「ああ、残念ながらつい先程売り切れてしまいまして……」
「………くそっ! 間に合わなかったか!」
あまりの腹立たしさにバリューは近くの棚を殴りつけそうになるが、どうにか思い留まる。
ここでは物を破損するだけで、どのような被害を受けることになるか分かったものではない。
地に足をつけた奴隷も無言のままだったが、冷静になれ、と言いたそうに目を細めて彼女を見ていた。
まあ、実際には、よくもやってくれたなこいつ……、とも思っていたが。
「貴方様のことはお聞きしていますよ。なんでも、その担ぎ上げている商品は『観測者』の生き残りだとか」
「…ああ、そうだが?」
先程彼女が女神について係員の男に尋ねていたが、今度はその男が彼女へと問いかける。
内容はもちろん『観測者』を偽っている奴隷について。
随分と話の回りが早いことに、奴隷は舌を巻いた。
こういった場にはキレ者も少なくはないことは彼だって十分に理解している。
自分が奴隷だと偽っていることだけは、絶対にバレるわけにはいかないと、今一度気を引き締めた。
「これはご提案なのですが……、『観測者』は先程の目玉商品並みに高額で売れるかと思われます。どうでしょうか、ここで一儲けしてみては」
「…だが、目玉商品はもう売れてしまったのだろう?」
「ええ、売れてしまった以上、ここではもうどうしようもありません。会場内での商品の転売は禁じられておりますので。が、他所での売買に我々は関与致しません! なので、そちらの商品を売ったお金で交渉してみてはいかがでしょう?」
「…それは本当だな?」
「ええ、ええ! 勿論ですとも! 商品はこちらで責任持ってお預かりしますので、貴方様はバックヤードでお待ち下さい!」
営業スマイルを欠かすことなくテキパキとした動きで二人を引き剥がす。
バリューは何も伝えられないまま離れ離れになりそうな状況に、少し戸惑った様子で奴隷を見つめるが、彼はその視線に気づくことなくステージの上へと招かれていた。
「五会場の皆様、しばしお待ちを! なんとなんとぉ! 目玉商品は売れてしまったが、ここで更に珍しい商品が届いたぞぉ……!」
「何だ何だ?」
「異形をした女神以上に珍しい奴なんているのかよ」
「おい、もう帰ろうぜ」
「いやいや、みてからでも遅くねぇ。俺は残るぜ」
主催者と思われる小太りの牙豚人が煽りを口にすると、帰路につこうとしていた多くの者たちの足が止まった。
どうも、このようなことは茶飯事なのだろう。半ば呆れと期待混じりの視線がステージ上に立つ奴隷へと向けられた。
「さアさアお立ち会い! この薄汚れた名もなき若造、なななんと、『観測者』の生き残りだァ!!」
『観測者』の名が主催者の口から飛び出すと、一瞬だけ場が凍りつく。
……そして誰かの叫び声を皮切りに、歓声と罵声が同時に湧いた。
「いやいや、流石に嘘だろ……? ただの噂話かとっくの昔に滅んだ種族だって聞いたぞ?」
「いや、マジっぽいぞ。何しろここの副主催の経歴を暴いたらしい」
「うぇぇぇぇぇ!!? マジかよ!? 誰一人として知らないと豪語してたはずだろ……!」
「現にこうやって売り出されているし、売人もここいらでは一度として見たことない、甲冑姿の巨漢だったそうだぜ?」
「おいおい……。てことは、つまり――――」
「ああ、どういった入手経緯かはわからんが、アイツはモノホンだ。間違いなく『観測者』の生き残りだろうよ」
どうやら、信じている派の者たちは裏口で行われていた問答のことを知っているらしい。
奴隷が一瞬たりとも気を抜けば、間違いなく命の危険に晒されるに違いない。
今か今かと競りを待ちわびる者たちの痛いほどの目線を浴びながらも、冷静さを失わないように彼はゆっくりと息を吐き出した。
「値段は金貨十枚から! さあ、じゃんじゃん値を吊り上げ――――」
「……金貨五百枚」
(ご―――っ!?)
会場がほんの一瞬だけ静まり返ると、直後驚嘆の叫び声が会場内を埋め尽くした。
呆気にとられる程の驚きは当然ながら奴隷にもあった。
だが、感情を表に出すことはとても危険すぎる。
あまりにも高額な値段をつけられたことによる驚愕で顔が歪みそうになるも、どうにか理性で感情を押さえつけながら札を掲げた男を見つめる。
男はシルクハットを目深に被り、小綺麗な紺色のスーツに朱色のネクタイを締め、白い手袋をつけている、どこにでもいる貴族のような見た目だった。
ただ、装飾品の類いを一切身につけていないことだけ違和感があるが、ほんの些細なことだろう。
「――――はい? い、今なんと」
「金貨五百枚だ。近海の女神に払った額と同額で購入させてもらう。異論はないよな?」
誰一人として手を挙げるものはいない。
当然だ。全知全能の叡智を獲得していたとして、小国一つ動かしかねない額を超える値を提示するなど、正気の沙汰ではないのだから。
だが、そうは問屋が卸さないとばかりに声をあげるものが一人だけいた。
「ででですが、おおおおお客様……!?」
先程まで張り切っていた牙豚人だ。
競りというものは、ただ高額で売り捌くためにあるものではない。
金額を競り上げていく緊張と興奮で会場を盛り上げる、一種のエンターテイメント。つまり、多くのお客様にまたご来場いただく為でもあるのだ。
だというのにその男は誰にも払えそうにない高額で買い取ろうとしている。
これでは競りとしての意味を成さない。
「何だ? 此処のルールは最も金が払えるものこそが、全てを手にするのではなかったのか? それすらも守れないというのなら、その奴隷はもっとはした金で売ればいいだろう?」
「わ、わかりました。それでは金貨五百枚で634番方がご購入となります……」
だが、金貨五百枚という高額に目が眩んだのか、はたまたこの場を穏便に済ませるためか、結局牙豚人は折れることとなる。
勿論、会場にはブーイングの嵐が巻き起こった。
「……くそ、これじゃあ競りにもならねぇ。次からは一人一品の制限を設けるべきだな」
「…………」
批難と野次を飛ばされている舞台上の主催者はサルヴェイへと敵意を向けるが、当の本人は全く気にする素振りを見せずステージの上に昇り、棒立ちのままだったライトの左肩へと手を掛ける。
「はじめまして、僕はサルヴェイ。しがない貴族さ」
「……」
「君もきっと途轍もない苦労をしてきたんだろうね。でも、もう大丈夫。僕が君たちを理想郷に連れて行ってあげるよ。だから、もうしばらく辛抱してくれるかい?」
「……」
奴隷に向ける態度とは思えない気を遣っている様子と、理想郷という聞き慣れない単語を怪訝に感じながらも、表情や行動に現れないよう細心の注意を払いながらライトは小さく頷いた。
「ありがとう。部屋についたらちょっぴり驚くかもしれないけど、何の問題もいらない。君もすぐに彼女らと仲良くなれるよ」
そう告げると共に指をパチンと鳴らす。
すると、瞬く間にステージ裾から黒ずくめにサングラスをかけた屈強な男性が現れ、奴隷の手を取り、外へと導く。
(色々と謎があるが、とりあえず同じ者に購入されたのはついている)
そう、当初の目的とは違う流れになってしまったが、女神を購入していた男性に目を付けられ、同じように購入されるのはこれ以上にない好都合だ。
(問題は取り残されるバリューか。上手くやってくれよ……?)
一人その場に残される彼女のことを考えながらふとバックヤードに目を向けると、彼を購入した男性……サルヴェイが中へと入っていく様子が見えた。
だが、それもほんの一瞬だけ。別の出入り口付近に向かっている以上、あまりよそ見は良くないと前へと視線を戻す。
従者に連れられて外に出ると立派な馬車が目の前に止まっていた。
これに乗ってサルヴェイの住処へと向かえば、自然と捕まっている女神の元へとたどり着けるはず。
とはいえ、屋内の構造についても考える必要があるため、脱失のことは後回しにした。
今はとにかく、女神と合流することが優先なのだから。
だんだんと緩みつつある表情筋を維持しながら、馬車に乗せられた奴隷はその場を後にした。




