Past:たとえ君が名も知らぬ異邦者だとしても
これは、今からおよそ十年程前の話となる。
「また、ここに来ていたのか」
「…………」
フェルメア国内に山の中腹に位置する展望台。
そこは、山間部とは言え暑くなる夏でもある程度の涼しさがあり、冬場ともなると厚着をしていようとも身に沁みるほどの冷風が吹き荒れる。
故に国内でも滅多に人が通らないというにも関わらず、薄着のまま身一つだけ持った少年が膝を抱えて座っていた。
「冬の夜風は体に触るぞ。君の怪我は完治が困難なものばかりだというのに……」
「知っているけれど敢えてこうしている、ということには気づきませんか」
「相変わらずの捻くれ具合だな」
彼を小一時間ほど探し回っていた厳めしげな顔の男性は、やれやれ……とばかりにかぶりを振り、少年の隣に腰掛ける。
とっくの昔に氷点下まで下回っていたこともあり、展望台から街中にかけて粉雪が舞い始めていた。
「命を救ってくれたことに感謝する気はありません。俺はあの場で死ぬ定めだったはずでしたから」
「何者かに運命を決められ、無意味に死んでいい者など存在しない」
「意味は大いにありましたよ、理解してもらう気は微塵もありませんが」
細い体を震わせながらも、少年は淡々と言葉を続ける。
夜の街はだんだんと辺りを照らす明るい灯が燈り初めているというのに、彼の瞳にその光は一切として映っていなかった。
「英雄と名乗っていた何者かに助けられ、この国にやってきた瀕死の俺を、貴方は治療し家族のように扱ってくれた。それに不平不満など一切たりともありません。ですが、どうしてここまで親身になってくれるのですか? 俺はあなたの国民ではないのに。利益よりも労力と時間が奪われるというのに……」
如何にも暖かそうな外套を着用している男性は、いつ死に至ってもおかしくない状態だった彼を死の淵から救っただけではない。
自らが知りうる情報や知識を与え、己を守り敵を退ける戦術を身に付けさせ、不自由など露も感じさせないような生活をさせてもらっている。
無論、受け取ってばかりいる異邦者の少年に、返せる物など何一つとしてないという事実は決して変えられないというのに。
「優しくされていることを戸惑うのは分からなくもない。だが、決して国民であるか、そうではないかは関係ない話だ。なぜ、そこまでの事をするのか、という問いだったな。……残念ながら、君が納得出来るような回答は返せない」
男性は羽織っていた外套を少年の背に掛けると、その場から立ち上がり、灯りに包まれる街を見下ろす。
まるで、向き合って話すには少々伝えにくいといわんばかりの態度だった。
「恥ずかしい話になるが、当方……いや、わたしは君の助けになりたいと思ったから助けたのだよ。たとえ君が名も知らぬ異邦者だとしても、だ」
「……純粋に、それだけを思ってのことですか?」
「勿論、君の想像通り、損得勘定も含んでのことだ。苦しむ者に手を差し伸べることもできぬのなら、クレバス・ハイヌフェルゼンはその程度の人間となってしまう。一国の主の名を背負っている身であるが故に、全てに私情を通すことが不可能だとは割り切っている」
だとしても、ここまでの肩入れをするのは決して利用する事を優先的に考えたためではない。
何よりも、初めて出会った時のことを、クレバスは忘れることが出来なかった。
意識を失っているにもかかわらず、譫言のように口にしていたあの言葉を。
「ただ、君が受けた理不尽な仕打ちは、一生に経験する苦難を遥かに超えている。もう十二分に体も心もボロボロになったんだ、その傷は誰かが癒してやるべきだ。……そう思ったゆえの行動だと理解してほしい」
誰しもが思い至るような想像を、遥かに絶する目に遭ったのだろう。
膝を抱えたままの少年は、幾度も口にしたのだ。
「俺には何も出来ない。いっそのこと死んでしまいたい」と。
その身で何を味わったら自死を望む譫言を口走るようになるのか、幾たびの戦場を経験してきたクレバスであっても答えに至ることは出来なかった。
……だからこそ、心の底から彼を救いたいと願ったのだろう。
「とはいえ、君の痛ましい過去は、この国の平穏を維持することだけで精一杯なわたしには、とてもじゃないが救いようがない。ならばせめて、今をこうして生き続けることを幸せだと思ってほしい。それがわたしに出来る、唯一無二のお節介だ」
「……」
当然、返事など帰ってくるはずがない。
いくら良くしてやったところで、信頼できるか否かというのは判断に難しいに決まっている。
だから、今はまだ碌な会話が出来なくてもいい。
――――そう思っていた。
「幸せ……ですか。 俺が幸福になるだなんて、あってはならないことだとしても、そう言いますか」
「ああ、口を大にして言おう。幸せになってはならない者など、一人としていていいはずがないのだから」
「…………そこまで言うのでしたら、そのうち何か恩を返させてほしいです。流石に、いただいてばかりいるのは罪悪感もありますから」
「……! ああ、勿論だとも!」
クレバスが振り向くと、ずっと下を向いていた少年の頭が上がる。
無表情だった顔が少しだけ困っているような笑みに変わっていた。
「そうだ、今日を君の誕生日としよう。過去の因縁から決して決別できないとしても、君が第二の人生を謳歌できるように。何か欲しいものはないか? 用意できるようなものなら、今晩中には――――」
「――――名前」
「ん?」
「名前が欲しいです。……第二の人生を歩むことになるのなら、もうあの名前は使えませんから」
「名前……? ああ、確かにいつまでも“君”と言い続けるのは流石に他人行儀過ぎるか。わたしたちはもう家族のようなものなのだから」
「そうだな…………。ライト――――ライト・ディジョンという名はどうだろう。この外景を見て思い浮かんだのだが……少々捻りが無さ過ぎるか」
「いえ、それで十分です。貴方がどれほど俺を思ってくれているのか、十分に把握できました」
図書館に通い詰め、ただひたすらに言語を学んでいた彼に、その名が示す意味は直ぐに理解できた。
心がどれほど深い闇に呑まれようとも、その奥底にこの街の灯りのような光があることを……そして、その灯を燈してくれる人が現れることを願う名だと。
「……それにしても、ここは冷えるな。長く居すぎると風邪をひいてしまいかねない。早々と帰って温かい飲み物でもいただくこととしよう。無論、ライトも何か食すだろう?」
思い出したかのように両手で自身を抱いていたクレバスは、未だ蹲ったままのライトへと右手を伸ばした。
「……? 何の手ですか?」
「何って、逸れることがないようにだな、手を繋ごうかと」
「子供扱いしないでください」
「まあまあ、いいじゃないか」
座っていたままだったライトを立たせると、クレバスは半ば強引に自分の右手と彼の左手を繋ぐ。
その手はライトの顔ほどに大きく、屈強な戦士のように力強く、寒空に晒されていたとは考えられないほど暖かかった。
「さあ、帰る事にしよう。我が家に」
「……はい」
だんだんと雪が強さを増し、気温も更に下がっていたが、掌から感じられる温もりが一瞬でも冷たくなる事はない。
その硬く握り締めた手に引かれ、クレバスの大きな背を追うような形で、少年はどうにか前へと歩み始めた。
ライト・ディジョンという名を貰ったことに恥じないように。
――――だが、その思いを叶えられたのは、ほんの僅かな時間だけだった。
投稿時期がずれ込んでしまった恩恵か、クリスマスイブが誕生日となったライトでした。




