指輪の行方
どうも、しおんです。
今回は夏ということと、息抜きを兼ねて短編を製作しました。
お楽しみ頂けると幸いです。
チクリ、と蜂に刺されたような痛みで目を覚ます。同時に身体が動かないことに気が付いた。
夏の夜は蒸し暑く、真っ暗な部屋の中でも空気が淀んでいるのを感じた。扇風機が必死に空気の入れ替えを試みているが、狭いアパートの一室でさえ効果はあまりない。
そんな中、俺の隣りに人影を見つける。
そいつは長い黒髪を揺らし、ストライプのワンピースを着ているように見えた。顔は髪と暗さでよく見えないが、女なのは確かだ。
またこいつか、と思いながら俺は霞む視界でそいつを睨んだ。ここ一ヶ月ほど二日に一度のペースで現れるこの謎の女に辟易していたのだ。
女は何も言わずに俺を見つめている。ような気がする。黒髪の奥の瞳が本当に俺を見ているのかはわからない。
十分ほどそんな状態が続くと、今度は女が俺の身体を触り始めた。肩や手を執拗に触り、時には頬を撫でてくる。冷たい手が不気味で、全身に鳥肌が立つ。今にも叫び出したい気分に駆られた。
いい加減にしろ!
そう叫ぼうとしたが、声が掠れて上手く出なかった。
しかし俺の怒りがわかったのか、女が動きを止めた。それからゆっくりと俺の左側に回り、左手を優しく撫でる。
そして薬指にはめられた指輪に手をかけた。
「やめろ……」
自分の喉から掠れた声が漏れる。女はそんなことお構いなしといった様子で俺の薬指から指輪を抜き取ろうとした。
「やめろ!」
今度は確かに叫ぶことができた。
その瞬間、身体に衝撃が走る。
あぁ、まただ。
そんなことを思いながら、俺は霞む視界で女を睨む。女はどことなく悲しい様子をしていた。その理由が俺には全くわからない。
どうしてお前は、俺の指輪を取ろうとするんだ……。
声にしたくても出ず、意識は闇の中へと沈んでいった。
翌朝、俺はいつものように布団の上で目が覚めた。左手を確認すると、そこにはしっかりと指輪がはめられている。
俺はほっとして布団から起き上がり、冷蔵庫から冷たい水を取り出して飲む。そしてもうひとつのコップに水を汲むと、棚の上に置かれた写真立ての前に置いた。
「おはよう。今日も暑いな、琴葉」
写真立てには長い黒髪をポニーテールにし、青いストライプの入ったワンピースを着た女性が写っている。
立花琴葉。俺の妻だ。
二年前の春頃、お互いが二十五歳になった時に結婚し、その夏に電車の脱線事故で亡くなった。ニュースでは平日昼間の事故だったため乗車人数も少なく、不幸中の幸いのような言い方をしていたが、その少ない死者の中に俺の妻はいた。
車を持っていなかった俺たちは電車で移動することがほとんどだった。その日琴葉はいつものように買い出しに出ていたのだ。そして電車に乗り、帰らぬ人となった。
悔しくて仕方がなかった。電鉄会社を恨んだ。神様も恨んだ。世界の何もかもを恨んだ。
だけど、琴葉は帰ってこなかった。だから俺も死んでしまおうと思った。でも、死ねなかった。
怖かったのだ。
俺は臆病者だ。最愛の人のために死ぬこともできず、ただ無駄に生きるしかできない。せめて琴葉に近付こうと始めた手首の自傷行為も、俺を殺してはくれそうになかった。
「じゃ、行ってくるよ」
俺はスーツを着て支度を済ませると、そう言った。それから家を出る。
会社に着くと、冷房の冷たい風が身体を包んだ。小さな部署のため冷房が効きやすいのだ。少しばかり手首に痛みを感じたが、外の日差しの中にいるよりはマシだと思える。
しばらくすると朝礼が開始される合図が鳴り、席に着いていた社員たちが立ち上がった。同じように俺も立ち上がる。
部長が前に出てきて、挨拶を始めようとした時だった。部署の扉が勢い良く開かれる。そして二十代前半ぐらいの女性が焦ったように入ってきた。
「間に合ったぁ!」
少し茶色がかった髪を肩辺りまで伸ばし、ヒールの音を高らかに鳴らしながら入ってきたこの女は高橋あかり。俺の後輩にあたる社員だった。
「高橋、間に合ってないよ」
俺はそう言って部長の方を見る。部長は額に青筋を浮かべ、にっこりと笑っていた。
「あっ……」
「高橋ぃ。お前これで何回目の遅刻だおい?」
「すみませんすみませんすみません!」
物凄い勢いで高橋が謝る。部署の皆は俺を含めて呆れた苦笑いを浮かべていた。
これがうちの毎朝の光景だった。高橋は二日に一度ぐらいのペースで遅刻するのだ。
「また怒られちゃいましたぁー……」
昼休み。高橋がうなだれながら落ち込んだように話しかけてくる。
「遅刻する高橋が悪い」
「それはそうなんですけど……。少しは慰めてくれたっていいんじゃないですかぁ? かわいい後輩が落ち込んでるんですよ?」
そんなことを言いながら眉間にしわを寄せて怒ったような表情を見せる。
「かわいいって自分で言うかねぇ……」
俺は苦笑しながら弁当のゴミをまとめ、缶コーヒーを飲み干した。
「これじゃあ私、午後から頑張れないです」
そう言って高橋は机に突っ伏した。そして目線だけを俺に向ける。
「私頑張れないです、先輩」
同じことを言って、俺に何かを求める視線を向けてくる。
「あー、はいはい。わかったよ。今日晩飯でも食いに行こう」
「やったー! 先輩の奢りですよね? ね?」
「奢り奢り」
「やったー! 頑張れる! 午後からはスーパー高橋になれます!」
「子供かよ……」
そんなことを言い合いながら、俺たちの昼休みは終わった。高橋は一応俺の部下で、回す仕事を工夫してやれば失敗も起こさないし丁寧にこなしてくれる良いやつだ。少しくらいは先輩として優しくしてやってもいいだろう。
周りからはいつも優しすぎると指摘を受けるが、きっと高橋にはこれくらいが丁度いいのだ。
仕事が終わり、退社する時間になった。高橋は今にもスキップしそうな様子で俺の席までやってくる。
「先輩、時間ですよ。お仕事終わりです。帰りましょう! あ、私天丼食べたいです!」
「お前は元気だなぁ」
高橋のリクエストを聞きつつ、俺は席を立つ。そして近くにある天丼がおいしいと言われる店を調べて二人で立ち寄った。
大きな天ぷらがふんだん使用された天丼は、圧倒されるほどの大きさだった。
「これはすごいな」
そう言いながら二人で食べ進める。お酒も飲み、高橋が日頃溜めているグチなども聞きつつ、楽しい会話をしていた。
そんな時、不意に高橋が俺の左手を見つめる。
「どうした?」
それに気付いた俺は何かついているのかと自分の左手を見た。
「いえ、素朴な疑問なんですけど……」
高橋が珍しく歯切れ悪く言った。
「何だ?」
「その、先輩、指輪付けてますよね。でも、奥さんってもう……」
「あぁ、そうだな。もういない。でも、これは俺とあいつの繋がりだから。俺が……俺たちが良いと思うまで外さないって決めてるんだ」
「そう、ですか……」
どことなく沈んだ様子で高橋が言った。俺は心配になって彼女の顔を見る。
「急にそんなこと聞いてどうしたんだ?」
「いえ、その、何と言いますか……。先輩はいつまでその指輪付けてるのかなーって思いまして。えっと、あはは……」
力なく笑う高橋に俺はどうしたらいいのかわからなくなった。少しの間沈黙が訪れる。
「ビール、頼もうか」
「はい」
どうしたらいいのかわからなかった俺はとりあえずビールを頼んだ。
机の上に出されたビールを掴み、一気に喉に流し込む。気持ち良い刺激が喉を通り、身体の中に染み渡っていく。その姿を少しもの悲しそうに高橋が見ていた。
「今日はどうしたんだ?」
「あの、先輩。右手、見せてもらえますか?」
「えっ」
途端に俺の心臓が跳ね上がる。
「何で? 今度は右手?」
「先輩、こんなに暑いのにいつも長袖だから疑問に思ってたんです。で、今袖の隙間から包帯みたいなのが見えて……」
「あはは……。こりゃ何でもないよ。ちょっとフライパン使ってる時に捻っちゃっただけさ」
「私、先輩と知り合って数ヶ月程度ですけど、それが嘘だってことぐらいはわかります」
高橋が真剣な眼差しで俺を見つめていた。俺は額に汗が浮かぶのを感じながらも「嘘じゃないさ」と言った。
「嘘ですよ。私、わかるんです。ここに転職する前は一応看護師やってましたので」
「そういや前にそんなこと言ってたっけ……」
俺は早々に観念した。誤魔化しきれる自信がなかったからだ。
ほんの少しだけ袖を捲り、手首を高橋に見せる。
高橋は巻かれた包帯を見て「これは所謂リストカットってやつですか?」と言った。
「あぁ、そうだ。これをしてると、あいつの……妻のところに近付ける気がしてね……」
しばらく包帯を見つめると、小さく深呼吸をしてから俺の方を見た。
「先輩は、進むべきだと思います」
ふと、高橋がそう言った。
「進むって?」
「前進するってことですよ。先輩はそろそろ立ち直る準備をしないといけないと思います。その……私みたいな人に言われるのは腹立たしいかもしれませんが、奥さんだってそれを望んでいると思うんです」
「そう、かな……」
「私が奥さんなら、そう思います」
高橋は強くそう言った。その目に嘘はないように見え、何となく自分も立ち直らなくてはいけないのかもしれないと思えてくる。
「少し、考えるよ。そろそろ帰ろうか」
俺は居心地が悪くなったので、早々に引き上げようと思った。高橋もそれに異論はなかったようで、席を立つ。
会計を済ませ、二人で帰路を歩く。
「高橋の家はこの辺りなのか?」
「はい。近くのちょっとお高いマンションです」
「そうか。送っていくよ。といっても車とかはないけどさ」
「いえいえ、結構です!」
慌てた様子で言う高橋に少しだけ頬が緩んだ。
「なるほど、そりゃそうだ。こんな時間に男に連れられて帰ってきたらまずいよな。彼氏に怒られちまう」
先ほどの空気を払拭しようと俺は茶化した様子で言う。
「かか彼氏なんていませんよ!」
「ほんとかぁ? お前ルックスは良いんだから今の内に良い男捕まえとけよ?」
「セクハラです! セクシュアルハラスメンツです!」
「はっはっは! この程度は許してくれよ」
「うー……。それに私は色んな男を捕まえたりしません!」
「お前なら言い寄ってくる男も多そうなのにな」
そう言って俺はまた笑った。これでさっきの気まずい空気は払拭できただろう。
「私、意外と一途なんですから……」
高橋はそう小声で言うと、俯いてしまう。頬は赤く染まっており、それが酒のせいなのかはたまた別の事柄のせいなのかはわからない。
「ここまでで結構です」
顔を上げた高橋がにっこりと笑ってそう言った。
「家がバレて先輩がセクハラしに来ても困りますから」
「しないよ。失礼な後輩だなぁ」
「あはは! それじゃあ今日は失礼します」
そう言うと高橋は歩道橋へと歩いて行く。俺も歩道橋を通り過ぎて自分の帰路についた。
「先輩!」
ふと、上から声がした。振り返ると、歩道橋の上から高橋が手を振っている。
何してんだあいつ、と思いながらも小さく手を振り返した。
「いつか、その指輪が外れるといいですね!」
笑顔でそう言っていた。俺は何も言えず、ただ手を振って彼女に背を向けた。
その夜。パキパキという不思議な音で目が覚める。案の定身体は金縛りか何かで動く様子はなかった。
何の音だろう、と思いながら廊下への扉を見る。どうやら音は廊下で鳴っているようだ。調べに行こうにも身体が動かないのでどうすることもできなかった。
しばらくすると廊下の扉がゆっくりと開く。そしてひとつの人影が姿を現した。それはいつものあの女だった。
女は俺に近付くと、いつものように身体を撫で回す。そうしてまた左手の指輪に来るのだろうと思っていた。しかし、今日は違った。
女は確かに左手の指輪に触れはしたが、その後右手首を触り始めたのだ。寝る時に包帯は巻かないので、そこにはカッターで付けてきたこれまでの傷がある。女はそれをゆっくりひとつひとつ確かめるように撫でていた。
「何、なんだよ、お前……」
絞り出した声で俺はそう言った。その瞬間、また身体に衝撃が走る。そして俺の意識は途切れてしまった。
翌朝。休日だったので俺は出かけようと準備をする。琴葉に「行ってきます」と言って廊下に出る。
その時だった。廊下に無数の光る何かが落ちていた。
不審に思ってそれらをよく見てみると金属の破片のようだった。
「何だこれ……」
とにかく掃除しなくては、と思い戻ろうとする。ふと視界の端に赤い何かが映った。それは廊下の端に転がっていた。近付いて拾ってみると、粉々になったカッターを収容する容器だった。そこで初めて気が付く。
ここに落ちてる金属って、もしかして――
俺は急いで部屋に戻り、いつも使っている赤いカッターを探した。しかし、それはどこにもなく、この無惨な姿になったカッターこそが自分の物なのだと理解した。
昨日のあの音は、もしかするとこのカッターを砕いていた音だったのか? でも、なぜ?
疑問が頭の中に浮かび、答えが出ないまま回り続ける。
いや、とにかく警察に電話しなくてはいけない。
そう思って電話に手をかけたが、一体何と説明すればいいのかわからなくなる。
以前から不法侵入してきている女にカッターを壊されたと言うのか? 幽霊がカッターを壊したと言うのか? 気付いていたのになぜ対処しなかったと聞かれたら、金縛りだったと答えるのか? 無理がある。
焦った俺の思考はまともな回答を導き出せなかった。
今まではあまり幽霊というものを信じていなかったので我慢できた。何か被害があったわけでもなく、全部夢だったと言い聞かせられた。でも、今日のは無理だ。
俺は手に持った受話器を耳に当て、携帯で調べ物をする。
『○○町 霊媒師』
そう検索をかけると、一件だけヒットした。それは意外と近くに事務所があるらしい。
今日の出かける予定は変更し、この事務所の人に来てもらうことにした。
番号を見て電話をかけ、すぐに来てもらうようにお願いする。受付をしていた女性の声は「いいですよ」と答え、すぐに来てくれると言った。
それから散らばったカッターの破片を片づけ、やってくる霊媒師を待った。
やってきたのは中年の女性だった。彼女は霊が見えるらしく、それの解決策も見いだせると言った。正直胡散臭い。
だがそうも言っていられないので、俺はここ一ヶ月ほど体験した出来事を全て女性に話した。
「あの、何か見えますか?」
家に上げた瞬間、女性は眉間にしわを寄せていたので俺は怖くなって聞いてみる。
「いますね……」
小さく女性は呟き、俺に質問をしてくる。
「あなたの見た女というのは、どういう容姿をしていましたか?」
「容姿、ですか? えっと……」
俺は今まで見た女の姿を思い出す。黒髪にワンピース。顔は見えなかった。
「長い黒髪にワンピースを着ていた、ぐらいしかわかりません……」
申し訳なさそうに言う俺に対して、女性は琴葉の写真立てを指さす。
「あそこの女性は彼女さんですか?」
「いえ、妻です。二年前の脱線事故で亡くなってしまいましたが……」
「それからあなたに変化は?」
「変化……。確かに落ち込んで、今でも泣いて死にたくなることは多いですけど……」
そう言った瞬間、女性は強く頷いた。俺はまさかと思って女性に問う。
「え、まさか、妻が来ているとでも言うんですか?」
「その通りです。奥さん、あなたが心配で様子を見に来ているんですよ。だって今まで何も実害はなかったのでしょう?」
「まぁ、一応……なかったかな?」
起きる直前と意識がなくなる直前に多少の痛みはあったが、それは害にカウントされないだろう。
「あなた、カッターで何かしようとしたんじゃないの?」
「え……。はぁ、まぁ……」
確かに自傷行為を行うことはあった。しかし、最近はしていない。ここ数ヶ月は新しく後輩が入ってきてそれどころではなかったというのもある。
「奥さんはそれが嫌で止めるためにこんなことをしたのかもしれないわね」
「そう、ですか……」
胡散臭さは拭えないが、何となく合点がいった。自傷行為を止めるため、と霊媒師は言ったが、きっとそれ以外にも理由があったのだ。
たとえば身体を触ること。琴葉も俺と一緒にいたかったのかもしれない。それに指輪を外そうとしたことだってそうだ。高橋は琴葉が前に進んでほしいと思っていると言った。もし本当にそうだとしたら、あの行動にも辻褄が合う気がした。
俺は来ている霊が妻かもしれないと思えて少し嬉しくなった。琴葉は死んでもなお俺を見ていてくれたのだと思うと、心が温かくなる。
「どうします? お祓いすることもできますが、しますか? 正直に言って奥さんの霊は悪霊の類ではありません。それでも祓いますか?」
俺は少し考える。祓うということはもう妻には会えないということだ。俺は本当にそれでいいのだろうか。
「……いえ、祓いません。あれが妻だとしたら、俺にそんなことはできません」
女性がホッと胸を撫で下ろしたように見えた。
「では、何かあった時のためにこのお札だけ渡しておきますね」
「ありがとうございます」
そう言いつつ俺は女性から胡散臭いお札を受け取った。そして代金を支払う。七万とかなりのぼったくりだったが、きっとこの手の商売はこんなものなのだろうと自分に言い聞かせた。
翌朝、俺は写真だけでなく部屋中に向かって「琴葉、行ってきます!」と言った。
琴葉がこの部屋にいると思えるだけで俺にとっては気持ちが楽だった。
今日も一日頑張れそうだ。
そう思って元気良く家を出る。二階から一階への階段で下りた。その時、ふと誰かに声を掛けられる。振り向いてみるとそれは大家さんだった。六十代半ば程度のおばさんで、琴葉と暮らしている時からお世話になっていた。
「おはようございます」
「おはよう。昨日は誰か来てたみたいだね」
「あぁ……まぁ、はい」
俺はあまり霊がいるなどの説明はしたくなかったので、はぐらかした。
「もう、奥さんが亡くなって二年になるのね……」
少しもの悲しそうに大家さんが言った。
「えぇ。そうですね」
俺もほんの少し悲しくなったが、前ほど悲しくはならなかった。
「二年が短いとは言わないし、隣人や女性と仲良くするのは大切だけど、少しは奥さんのことも考えてあげなさいね」
「え……?」
俺は大家さんが何のことを言っているのかよくわからなかった。もしかして、昨日の霊媒師のことを彼女と勘違いでもしているのだろうか。さすがに無理があるだろう。相手は四十から五十程度のおばさんで、こちらは二十七歳だ。可能性がないとはいわないが、俺の趣味ではない。
「まぁ少し気にしてくれればいいさ。あんたの人生はあんたのものだ。自分で考えて好きにしなさい。ほら、もう行きな」
大家さんはそう言うと俺の背中をぐいと押した。俺は訳のわからないまま出社することとなった。
出社すると珍しく高橋が来ていた。
「おはよう。今日は早いな」
皮肉混じりにそう言うと、高橋は満面の笑みで「昨日は夜更かしせずにぐっすり眠りましたから!」と言った。
「それを聞いたら部長は頭を抱えそうだ。俺でも抱えそうだもん」
「ひどいです! いつもは仕方なく夜更かししてるんです!」
「仕方ない夜更かしって何だよ……」
呆れながらそう言うと、高橋は少し照れたように頬を紅潮させ「好きなものを見てると時間を忘れちゃうじゃないですか」と言った。
「お前……」
俺はとうとう頭を抱えた。そして部署内に朝礼の合図が響く。
昼休み。高橋が弁当を抱えてこちらへやってきた。
「先輩、お昼一緒にいいですか?」
「あぁ、いいぞ」
そう言って二人で仕事の話なんかをしながら弁当を食べていた。ふと、俺は高橋の指に目がいった。それはいくつもの絆創膏が貼られていたからだった。
「おい、その傷どうしたんだ?」
両手に付いている無数の絆創膏を指さして俺は言った。高橋は悪いものが見つかった子供のような顔をしていたが、言い訳が浮かばなかったのか観念して話し出した。
「実は、一昨日お弁当を作ろうとしまして、そこで……」
恥ずかしそうに顔を俯けて高橋はそう言った。
「おいおい、今時弁当作るためにそこまで指切るやつがいるかよ」
俺が呆れたように言うと「そんなやつがここにいるんですよ!」と両手で顔を覆って更に恥ずかしそうに伏せてしまった。
「まぁお前も大変だったんだな」
「はい。あんまりにもうまくいかなかったので不貞寝したら生活習慣が直りました」
「何だよそれ」
二人して笑った。こんなに気が軽く笑えるのはいつ以来だろうと少し思った。いつもは琴葉はもう笑えないのに、俺だけこんなに楽しんでいいのだろうか、といった思いに取り憑かれて中々本気では笑えなかった。それを考えるとあの七万の霊媒師も悪くはなかったのかもしれない。
「先輩は休日何かありましたか?」
「ん? あぁ、まぁ……な」
「何ですか、歯切れ悪いですねぇ?」
高橋が半眼になって俺の顔をのぞき込む。
「私の悲しい休日を聞いといて自分は話さないなんてズルいですよ!」
そう言って高橋が喚きだしたので、俺は観念して休日に呼んだ霊媒師の話をした。
「へぇー。先輩の部屋霊が出てたんですね」
「そんなのは全部夢だと思ってたんだけどね。カッターが粉々になってたらさすがに怖いでしょ?」
「でも、それって奥さんが先輩にその……あれをさせないためにしたんでしょう? 優しい方じゃないですか」
「あぁ。あいつは本当に優しいやつだったからな……」
そう言ってかつて二人で暮らした短い時間を思い出す。途端に視界が歪み、涙が溢れてきた。
「せ、先輩? どうしたんですか?」
高橋が焦って俺の肩に手を置いた。
「あ、いや、思い出したら急にな。やっぱ、幽霊とかそういう形じゃなくて、会いたいもんなんだろうな……」
「先輩……」
高橋が悲しそうに見ていた。俺は恥ずかしさと居心地の悪さで無理矢理笑顔を作る。
「大丈夫だ。こういうのには慣れてるから」
「そうですよね。それに、今は奥さんも家で待ってます」
高橋が少し嬉しそうに言った。そこに多少の違和感は覚えたが、俺を励ますために無理矢理元気を出してくれたのだろうと思った。
「大丈夫。先輩はきっと幸せになれますよ!」
高橋は一点の曇りもない満面の笑みでそう言った。
夜。何か針でも刺されたかのような痛みで目が覚める。身体は動かない。
来たか、と思った。
俺は視線だけを横へと向ける。するとそこには長い黒髪を垂らし、ワンピースを着た女が座っていた。
俺は彼女が妻だと思うと、とても安心できた。
「こ……とは……」
掠れた声で彼女の名前を呼ぶ。すると座っているだけだった琴葉がいつものように俺の身体を触り始めた。そして優しく頬を撫でると、顔の下半分だけを出して俺の唇に自分の唇を重ねる。
琴葉の柔らかい唇が優しく触れ、久しぶりの感覚に嬉しくなった。今すぐ抱きしめたくなったが、身体はまだ動かない。
何度かキスをした琴葉は、しばらくまた俺の身体を触った後、下半身へと手を伸ばした。
マジかよ、と思う俺を余所に琴葉は素早く俺の寝間着を脱がす。
そして、俺は久しぶりに琴葉と一夜を過ごすことができたのだった。
薄れゆく意識の中で、琴葉がゆっくりと指輪を抜き取ろうとしているのがわかった。俺はそれに抵抗することなく、されるがままになる。
わかった。わかったよ、琴葉。俺も前に進まなくちゃいけないんだな。
心の中でそう言うと、俺の意識は闇の中へと落ちていった。
翌朝、目が覚めるとすぐに左手を確認した。そこに指輪はなかった。
俺は少し悲しくなったが、ゆっくりと布団から立ち上がって琴葉の写真に「おはよう」と言う。その時、写真の前に一枚の紙が置かれていることに気が付いた。
「何だこれ……」
そう言って手に取ってみると、何やら小さく文字が書かれているようだった。
『今までありがとう。もう、進んでもいいよ』
小さすぎて琴葉の文字であるかはなかなか判別できなかったが、こんなことを書くのは琴葉しかいないと思った。
視界が歪み、瞳から大粒の涙がいくつもこぼれ落ちる。昨日の行為はそういう意味もあったのだと初めて理解した。
昨日琴葉は、別れを言いに来たのだ。
悲しくて涙が止まらない。しかし、琴葉が前に進めと言った。俺は琴葉がいなくなってから初めて『死ぬわけにはいかない』と思えた。
「ありがとう、琴葉。愛しているよ」
そう言うと俺は会社へ行く支度をした。そして笑顔で写真に向きなおる。
「行ってきます!」
俺は琴葉に背を押され、新たな一歩を踏み出した。
男が部屋を出た少し後、押し入れの天井がゴトリと音を立てる。そしてゆっくりと開き、中から真っ白な足が伸びてきた。それはワンピースを着た長い黒髪の女のものだった。女の肩には大きな鞄が掛けられており、手には注射器とスタンガンが握られている。
女は押し入れから出ると男の寝ていた布団の上に立つ。そして女性の写った写真立ての前まで行くと、自分の髪を鷲掴みにして引き剥がした。
黒髪はするりと取れ、中から肩辺りまで伸びた薄茶色の髪が現れる。
「琴葉さん、ありがとうございました。これであの人はやっとあなたから解放されます」
女はニヤリと笑いながら言った。
「さて、そろそろ準備しないとまた遅刻しちゃいますね」
そう言うと女はワンピースを脱いで下着姿になり、鞄の中からカッターシャツとスカートを取り出した。ワンピースと注射器とスタンガンを鞄に詰め、スーツ姿に着替える。
「あぁ、でも昨日エッチしちゃったから下着も換えなきゃ。一度隣りに帰らなくちゃダメかなぁ。こりゃあまた遅刻だ……」
一人でブツブツ呟きながら女は玄関の方へ歩いていく。
「んー、押し入れから帰った方がいいかな。でもあそこ汚いからなぁ。誰にも見られなきゃ玄関でも大丈夫か。すぐ隣りだし」
女は玄関にある小箱から予備で置いてあった鍵を取り、裸足のまま外へと出て行こうとする。
「あ、そうだ」
ふと、女は扉を開ける前に足を止める。そしてポケットから何かを取り出し、部屋の奥にいる写真に向かって見せた。
「これ、私が責任持って捨てておきますね。それに、先輩のことは私が必ず幸せにします」
女の手には男が付けていたはずの指輪が握られていた。
「あっはははははは!」
女は堪えきれなくなったといったように笑い出し、扉から出て行く。その姿をもの悲しそうに写真立ての女が見つめていた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
物足りない点やあまり怖くなかったなど、色々あると思いますが、感想などに書いていただけると嬉しいです!
ホラーというものを製作する難しさを知れた良い機会だったと思いました……。