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私の靴箱に差出人のない一通の手紙が入っていたのはそれから二日が経った日のことでした。保健委員会の集まりがある千佳子さんとは教室で別れ、一人下校をしようと靴箱に入れた外履きへ手をかけたとき、それははらりと私の靴箱から落ちたのでした。
「あら……」
足元に落ちた白い封筒を拾い上げると、表には細く上品な字で『彩梛木凜子様』と私の名前が確かに書かれていました。今すぐに読んで欲しいとでも言うかのように封筒は糊付けされておらず、私は好奇心にそそのかされて、封筒を開けてみることにしました。
はたして、封筒の中には一枚の便箋が入っていました。そこに書かれていた文面に目を通した私は息を呑みました。
「この手紙は……」
その手紙は、あの日、私を慰めて下さったその人からのものでした。私のその後が気にかかっていたと丁寧な言葉でつづられており、偶然にも私のことを知ったためにこうして手紙を下さったと書かれてありました。
「ああ、やはり……やはり、そうだったのですね」
この手紙からはあの日の出来事を彷彿させるような温かみが溢れていました。手紙を読み終えた私は、その手紙を胸に当て、ほうっと息を吐きました。それから、私ともう一度お会いしたいという手紙のお言葉に答えるべく、急ぎ、あの思い出の場所へと向かいました。
私が胸を弾ませて、その場所に辿り着いたとき、その方は既にいらっしゃいました。けれども、目の前にいらしたその方は私が心に思い描くその人ではありませんでした。私が気まずさに耐えかねて、立ち去ろうとすると、その方ははっとして声を上げました。
「待ってくれ。誤解なんだ」
私はその声に違和感を覚えて、立ち止まりました。
「私なんだ。あの日、ここで泣いていた君に声をかけたのも、その後、残酷にも君を追い払おうとしたのも、そして手紙を送ったのも全て、この私がしたことだ」
「一体、どうして……」
私はわけがわからなくなりました。
「すまない。あのとき泣いていたのが君だったと気付くべきだったのに、私は……君を私に言い寄る子達の一人かと勘違いして、冷たくあたってしまった。君も同じだと思ったんだ。私の外見ばかりを見ているあの子達と同じかと……」
私が黙っていると、その方は私をじっと見つめて言われました。
「あの日も、いい加減しつこい女の子達から逃げているうちに、いつの間にか、あそこへ辿り着いた。そしたら、泣いている君がいて……。私から視線を逸らそうとする子なんて、この学院にきて初めて会ったものだから、不謹慎だけれど興味を持ったんだ」
「あ、あのときは、泣いている顔を見られたくなくて、ああするしか……」
私が声を振り絞ると、鈴蘭の君は首を振りました。
「それでも、君は頑なに最後まで顔を見せることを拒み、言葉だけで見知らぬ私を受け入れてくれた。まさか、それほど深刻なことで悩んでいるとは思わなくて、気安く声を掛けたことを後悔したが……君の話を聞くうちに何と心の清らかな子なのだろうと驚いたんだ。私が嫌でたまらないこの女学院を去りたくないと泣きながら、何不自由ない暮らしを続けられる友人を妬ましく思う自分の嫉妬心を醜いとまで嘆く君の姿に私は……衝撃を受けた」
鈴蘭の君が私を真っすぐに見据えて言われました。その瞳はつい数日前に私を冷たくはねつけたその眼差しとはまるで別人のものでした。
「私……」
「あれから学院を退学した君がどう過ごしているのか、ずっと気になっていた。だから、君が私の前に現れたとき、とてもよく似た子が現れたと内心驚いたよ。でも、あの日話してくれたように君は退学してしまったものだと思い込んでいたから、別人だと思った。それこそ、君が私に言ったみたいに、あの日のことは私にとっても大切な思い出だったんだ。だから尚更、あの子によく似ているということが腹立たしくて、私の記憶に土足で踏み込もうとする君が許せなかった」
その言葉を聞いて、私の頬を一筋の涙がつたいました。
「……どうしてかな。君が泣いている姿を見るのは、胸が痛む」
鈴蘭の君が精悍なそのお顔を歪ませ呟くと、私の方へゆっくりと歩を進めました。そして、私との距離をあっという間に縮めておしまいになると、彼女は濡れる私の頬へご自分の手を伸ばし、優しく包み込みました。ふわり、とあのときと同じかぐわしい鈴蘭の香りが漂います。
「会いたかったんだ」
胸を締め付けられるほどの切なさを振り絞るその声に私の胸が鳴きました。けれど、鈴蘭の君の抱える苦悩をほんの少しだけでも垣間見てしまった私はその胸の疼きに気付かぬふりをしました。そんなとき、千佳子さんの言葉がふと頭の中に響きました。
『私は別に凜子さんみたいにラヴを抱いているわけじゃないわよ』
違うのよ。千佳子さん。この胸の高鳴りはラヴじゃないわ。ラヴであってはいけないの。他の女の子達のようにこの方を困らせたくないの。
「私は……一目お会いしてお礼を申したかったのです。他には何も望みません。ただ、あのとき、私がどんなに励まされたかをお伝えしたくて……」
その言葉を口に出し終えて初めて、私は自分が嘘を言っているのだと気付きました。私があのとき慰めて下さった方に会いたかった理由は、お礼を言うためなんかではなかったことを張り裂けそうなこの胸の痛みから知ったのです。
「……君にはそんな顔をして欲しくない」
鈴蘭の君は私の頬を優しくなぞると、あっと叫ぶ間もなく、その胸の中へと私を閉じ込めました。鈴蘭の君の吐息が私の耳朶をかすめます。そのたびに、私は身体の芯が痺れる悦びを感じました。
「初めて、あの子達の気持ちが分かったような気がする。私は君のことをずっとこうしたくて探していたんだ」
「す、鈴蘭の――」
「晶と呼んでくれ。それが私の名前だから。君には私の名前をちゃんと呼んで欲しい」
「晶様……わ、私……私、あなたをあの日からお慕いしておりました。軽蔑されても構いません。ただ、この気持ちをお伝えできればそれでいいのです」
混乱と幸福の境地にいながらとうとう本心を呟くと、晶様は私から身を離しました。そして、互いに吐息のかかる距離のまま、視線を合わせました。
「私はそれだけじゃ嫌だ」
晶様は真剣な眼差しで私を見据えると、喜びに打ち震える私の頬にもう一度ご自身の手を添えられました。気が付いたときには、私の唇は晶様の柔らかなその唇と重なり合っていました。生まれて初めてのキス。それも同じ女の子同士で互いの唇を優しくついばむようなもの。
私の頬を尽きることのない涙が伝いました。これは夢ではないのです。私があの方に抱いていたこの胸の想いは千佳子さんの言う通り、確かに“ラヴ”なのでした。目を閉じていると、あの方の――晶様の囁きが聞こえます。
「もう目を開けていいんだよ」
その声はまさしく、あの日、落ち込んでいた私を慰めて下さった方の温もりに満ちた声です。けれども、あの日と違うのは、こうして目を開けて、照れたように微笑むその方のお顔をこの目に映すことができること。その幸せを私は晶様の腕の中で、心の底から噛み締めました。
Fin