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 その方とはそれきり、の仲です。お顔もお名前も何一つ存じ上げぬまま、確かなのはあの方の涼やかなお声とお心の優しさ、そしてあの鈴蘭の香りだけをガラス細工のように心に秘めて、その後の日々を過ごして参りました。


 肝心の退学というお話ですが、あれほどの気苦労をしたというのに、お父様の会社は数日ほどで奇跡的に持ち直し、私はそのまま学院に残ることができたのでした。お友達とも変わらず、仲良く笑い合うことができています。けれども、ふと、私の横をつむじ風が通り過ぎるように、あの日の悲しくも心温かな出来事を思い出すのです。あのときの沈み切った心を包んでくれた、あの方は一体何方だったのか。今はどうしていらっしゃるのか。私のように落ち込んだ誰かを慰めていらっしゃるのか、と考えてはきりりと突っ張るような胸の痛みを覚えます。


 せめて、あのときお名前をお聞きしておけば。いいえ、たった一度でも顔を上げてあの方のお顔をこの目で見れば良かったと悔やまれてなりません。そんな私の心持ちがいつしか顔に出ていたのでしょう。幼稚舎から共に育った仲の、厳島千佳子いつくしまちかこさんがあるとき私にこう言われました。


凜子りんこさんたら、どうしたの。ここのところ、いつもそんな顔をして、ため息ばかりついて。何かお困りなの」


 私は、「えっ」と声を上げました。


「えっ、じゃないわよ。そんな風に悩んだ顔をして、私が知らないとでも思っていたの。凜子さん、分かり易いんだから、私でなくたってすぐに分かるわ。数ヶ月前も、そんな顔をしていたわよね。私、あなたが何か言ってくれるまで何も聞かないでおこうと待っていたのよ。それなのに、いつの間にか、けろりとした顔しちゃって。まあ、それは良いのだけど。ねえ、言ってごらんなさいよ。何か、困っていることがあるんでしょう。私、力になるわ」


 少々強引な千佳子さんに迫られて、私は自分の身の上に起きたことをあっさりと白状してしまいました。


「まあ、まあ、まあ!その方から鈴蘭の香りがしたって、本当なの?」


 私が頷くと、千佳子さんは口元に手を当てて、わなわなと震えました。


「もう!それだったら早く言ってくれたら良かったのに。凜子さんって、こういうお話、疎いんだから。この学院で、鈴蘭の君を知らない方なんて、凜子さんくらいのものだわ」


 今度は私が驚く番でした。そっくりそのまま、千佳子さんの言葉を復唱すると、千佳子さんは大きく頷かれて、教室の中をちらりと見回すと、声をひそめて言われました。


「ほら、あそこの席の海里みさとさん。つい先日、鈴蘭の君に告白して見事玉砕したのよ。これで何人目かしら、鈴蘭の君に失恋した方って。うちの学年だけでも、もう十を超えるんじゃないかしらね。大半は皆、恋心を温めているだけっていうのに、ああして想いを遂げようとする大胆な方もいるのよね。……何よ。そんな顔して。何か変なこと、言ったかしら私」


 私は湧き上がる羞恥心のようなもので頬を赤く染めました。それから小さな声で、海里さんに聞こえないように気を付けながら、千佳子さんに尋ねました。


「お、女の子同士で……お付き合いなさるの?」


 千佳子さんは「あら」と不思議そうな声を出して、「当たり前でしょう」と頷いてみせました。


「ここは女子高だもの。それに私達、卒業したら許嫁と結婚させられちゃうじゃない。それは仕方ないとして、恋愛するなら今しかないのよ。女性同士って考えは今時、古くってよ。凜子さん」


 にやりと微笑む凜子さんが急に大人に見えて、私は何も言えなくなってしまいました。


「だから、凜子さんが鈴蘭の君をお慕いしても何もおかしいことなんかないわ」


「私、お慕いしてなんかっ……」


「嘘おっしゃい。凜子さんのその顔、まさに恋する乙女の顔だわ。海里さんを見るその瞳……ジェラシーを感じさせるわね」


「ち、千佳子さんったら!」


 悪戯な千佳子さんにすっかり良いように振り回されてしまった私は、真っ赤になった頬に手を当てて、身をよじりました。


 千佳子さんはそれを見て、楽しそうに微笑みを零しました。


「ふふ。ごめんなさい。それは冗談にしても鈴蘭の君が凜子さんに優しく声を掛けるなんて、珍しいこともあるのね。あの方、相当の人嫌いって聞くわよ。それに、鈴蘭の香りは、あの方の香りだから恐れ多いって、同じ香りをつけたりする子なんか一人もいないもの。きっと凜子さんがお会いした方は本当にあの方だったんだわ。ああ羨ましい」


 千佳子さんがはあ、と憂いを含んだため息を吐きました。


「鈴蘭の君はね、私達よりも二つ上の学年にいらっしゃるのよ。雑誌のモデルみたいに背が高くて、その上、とても精悍な顔立ちをしていらして……お母様が昔、女優をなさっていたみたい。去年、姉妹校から編入してきたのよ。本当に、ぞっとするくらい美しい方なんだけど、性格の方はとても冷たくて、そう簡単に話し掛けたりできる雰囲気じゃないわ。話し掛けられてもそっけないし、何だか近寄り難いのよね。でも、そこがいいってまた人気で……って、私は別に凜子さんみたいにラヴを抱いているわけじゃないわよ。あくまでライクの範疇なんだから」


 千佳子さんはそう言うと、何故か胸を張りました。

 私のこの胸に秘めたる思いは“ラヴ”と呼ぶべきものではないのだと千佳子さんに言い返そうとしたとき、予鈴が鳴りました。千佳子さんは「鈴蘭の君ならすぐに会えるわよ。有名人だもの」と言い残し、軽やかに席に戻っていってしまいました。


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