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三か月前のあの日。不況に続く煽りでお父様の会社が倒産しかけて、いよいよ家を売ることになるかもしれない、幼稚舎から在籍している通い慣れた女学院をやめなくてはならないかもしれない、とお母様に告げられたその日、私はこの世の終わりを感じて、校舎の裏でさめざめと泣いていました。
愚かにもこれまで当たり前のようにあった暮らしがとても贅沢なものであったことをそのとき初めて知った私は、幸せとはかくも簡単に姿をくらますものなのだと気付き、わが身に訪れたこの世の不幸をただひたすら嘆いてばかりいました。
困ったときには何でも相談できると思っていた女学院の友人にも、この私の身に降りかかった不幸をおいそれと話すことはできませんでした。何故なら、彼女もまた以前の私同様に、今日明日の心配などする必要もない、裕福なお家柄の令嬢であり、明日にも路頭に迷うかもわからぬほど落ちぶれた私とは天と地ほどの差があったからです。
浅はかな私は、この先死するときまで続くと思われていた友人関係が互いの家の格という現実のもとに作り上げられていたと気付くや否や酷く絶望しました。そして、今まで通りの平穏な暮らしを約束された彼女に醜い嫉妬心を抱く自分を恥じながら、しかし、どうすることもできずに一人悲しく頬を濡らしていました。そんなとき、その声は聞こえてきたのです。
「どうして泣いているの」
私は咄嗟に両手で顔を隠しました。まさか、人気のないこの場所を誰かが訪ねてくるなどとは思いもしませんでしたので、大層驚くのと同時に、今のこの惨めな姿を誰にも見られたくないという強い思いが私の心を閉ざしました。すると、その声は優しく私に言いました。
「顔は見ないよ。大丈夫」
私は自分の顔を覆ったまま、肩を震わせていました。
「悲しそうな声が聞こえたものだから……私で良かったら訳を聞かせて」
その声は決して興味本位で尋ねるようなものには聞こえませんでした。
「悲しいことは自分の中にだけとどめておくと、どんどん膨れ上がってしまう。知らない誰かに話してしまった方がずっと気が楽になるよ。あいにく、私は君を知らないし、君も私を知らないと思うから」
その声が、お言葉が、あまりに優しく私の心を労わって下さるので、私は心細さからつい固く閉じたはずの指の隙間から心の嘆きを零してしまいました。
「……私、学院をやめなくてはならないかもしれません。お父様のお仕事がうまくいかなくなって、私もお母様も……この先、どうしたら良いか分からないのです」
すると、その方は驚かれたのでしょう。静かに息を呑む音が聞こえました。
私は見ず知らずの人に己の惨めなありさまを話したことをすぐに後悔しました。この方も、女学院の学生なのですから、裕福なお家のお生まれに違いないのに、私はなんてことをお聞かせしてしまったのだろう。きっと、この方も上辺だけの励ますような台詞を口にしたら、すぐに去っていってしまうだろう。ならば、どうか、一秒でも早くこの場から立ち去って欲しい。と、そんな身勝手なことを胸中に抱いていますと、その方は深いため息を吐き、次のようなことを仰いました。
「……すまない。そんなに深刻なことで泣いていたとは思わなかったんだ。……許して欲しい。私で良かったら、君の悲しみを最後まで聞くから、我慢せずに吐き出してごらん」
と、その方はうつむく私の隣にそっと腰を下ろされました。私は、思ってもみなかったその方の真摯な態度に伏せっていた顔を上げてしまいそうになるほど、驚きました。
「君はきっと私の想像なんかよりもはるかに辛い悲しみを抱えているんだろうね。……今だけは私の肩に寄りかかるといいよ。そう。顔は見せなくていい。君の心の重荷を少しだけ傾けるんだ。……気休めくらいにはなるだろう」
その方はそう仰ると、私の肩に手を回し、ご自分の方へと引き寄せられました。ふわり、と鈴蘭の香りが鼻孔をかすめます。図らずも相手の肩に頭を寄りかからせる体勢となり、それまで感じていた悲しみを吹き飛ばすように訪れた羞恥心で、私は顔を覆う手を降ろせなくなってしまいました。
「私……私……」
「ゆっくりでいいよ。時間はたっぷりあるんだ。少しずつでいいから、話してごらん」
そして、その方はお言葉通り、鈴蘭の香りにすっかりほだされた私がぽつりぽつりと漏らし始めた心の嘆きを一つずつ丁寧に救い上げると、優しく包み込み、我が身のことのように温かなお言葉で慰めて下さいました。