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騎士の本分

「聞いたかい?とうとうリリアンヌ王女がボイル侯との縁談を決めたって」

「ああ。話しによれば、今王女殿下は侯爵の所に身を寄せているそうじゃないか」

「・・・・・・しかしボイル侯爵を選ばれるとは、王女殿下もやはり王位が・・・・・・」

「おい、滅多なことを言うな」

リリアンヌがボイル侯爵の手に落ちて四日が経ったころ。イシュトシュタイン王城では既にリリアンヌの縁談がボイル侯爵とまとまったことが噂になっていた。またリリアンヌが継承権を第二位で保持することも公表され、話題はリリアンヌの婚姻でもちきりだった。

――しかし当のリリアンヌは、外の様子などは一切知らされず城のどこかの一室に軟禁されていた。三度の食事と起床時以外に部屋に人は訪れない。それどころか、軟禁した当のボイル侯爵本人さえ顔を出さない。リリアンヌはこの四日間、何の状況も分からないまま無為に過ごすことを強いられていた。リリアンヌの自害を防ぐためか、食事にナイフやフォークは出てこない。食事を残せば見張り役の使用人に強く咎められた。毎日心を削られる思いがした。

成人の儀を明日に控えた夜。日付も変わり、後は夜明けを待つだけの時間――眠れないリリアンヌは、小さなランプだけを灯して窓辺に座っていた。

成人の儀は、夜明け前に王宮の奥にある神殿で禊ぎを受け、代々王族が名を連ねる石版に名を掘る儀式だ。それを終えてしまえばリリアンヌは王位継承権も王族籍も捨てられない。一生この城から出られず、ボイル侯爵に利用されることになるだろう。

「セリーヌもルネも、リュシーも・・・・・・無事で居てくれているかしら」

締め切った開かずの窓の外は、悲しくも城壁が視界いっぱいに映るだけ。もう日が落ちて外も暗いようだが、陽の光の当たらないこの部屋は昼も夜も明るさは変わらなかった。部屋の中は貴族が住むにふさわしい調度品が取りそろえられているが、自然も太陽の光も感じられず薄ら寒い印象を受ける。まるで人形の様に生かされながら、リリアンヌは毎日窓辺で過ごした。僅かな光と風の音を頼りに外の世界に縋り、見えぬ空に浮かぶ月を思い浮かべて残してきた侍女や騎士達の無事を祈っていた――。

しかし、その日々にも心が耐えられなくなっていた。明日の成人の儀が済んでしまえば王位継承権の放棄は許されない。そしてボイル侯爵との縁談も正式に決まってしまう。握った拳は真っ白になったが、構わず血が滲むほどに力を込めた。小刻みに震える拳に水滴が落ちていくのが見えた。悔しさが、悲しさが洪水のように止めどなく溢れる。

「もう間に合わない・・・・・・利用されるくらいならいっそ・・・・・・っ」

死んでしまおう――そう思った瞬間、頭を揺さぶる鮮明な記憶が呼び覚まされる。

『生きろ!』

その声にはっとする。この回想を、四日間で何度繰り返したのだろう。どんな形であっても生きて欲しいと、悲しむと言ってくれた人が居る。命を賭して守ってくれようとした人が居る。そして自分には、守りたい仲間が居る。そのことを思い出すと、自害に及ぶことが出来ないでいた。さらに、自害したとしてそれがすぐ公表される可能性は低い。ずっと離宮に隠れ住んでいたリリアンヌが長いこと誰の目に触れなくとも不思議がる者はいない。ボイル侯爵の思いのままに名前だけ生かされることだろう。どうすれば最善なのか、リリアンヌには分からなかった。

「ルネ・・・・・・セリーヌ・・・・・・っ」

自分をずっと守ってくれていた優しい者達。もう会えないのかと思うと胸が引き裂かれそうだ。

「・・・・・・オーウェン、さま・・・・・・」

ひっそりと、名前で呼んでみる。命をかけて自分を救い出してくれた、生きろと願ってくれた人。今は危険なカルイースクという地で戦っているのだろうか。無事で居て欲しい。その姿をもうこの目で見ることは無いけれど。窓辺にずっと飾っているスノードロップを模したブローチは毎日リリアンヌの心を慰めた。たった一晩の逢瀬で見たオーウェンの優しい笑顔、悲しそうな顔、凛とした顔――もっと見てみたかった彼の表情や、もっと触れたかった彼の心が思い起こされるのだ。もっと傍にいてほしかった。決して許される想いではないのに、こんな状況にある今でもこの想いにだけ囚われている。

しかし、リリアンヌはこれが『恋い焦がれる』という感情であることを知らなかった。今まで味わったことのない感情に振り回され、ただただ息が苦しかった。

「どうしたらいいの・・・・・・」

絞り出した問いは、静寂に包まれた部屋に吸い込まれるように消えた。

しかし次の瞬間、男性の声と共に衛兵が去る足音がした。驚いて扉に顔を向けると、日に数回しか開かれないその扉がゆっくりと開いた。窓辺のランプしか明かりのない部屋に、扉の向こうの光が差す。そして現れたのは、一番顔を見たくない相手だった。

「ご機嫌いかがかな、リリアンヌ王女殿下」

「ボイル侯爵・・・・・・!」

顔は二年前見たきりだったが、この二年間執拗に迫ってきていた彼の声は聞き覚えがあった。

ご機嫌伺いの少し控えめに探る声音。背筋がぞわりと寒くなる。ボイルは静かに扉を閉めた。また、ランプ一つの暗い部屋へと逆戻りする。

「貴女のご尊顔を拝見するのは二年ぶりですな。いやあ、さらにお美しくなられた。あの美姫と謳われたお母上様にそっくりですな」

「お世辞は結構です」

女好きで有名なこの侯爵は、リリアンヌの母ミシュリーヌが存命だった頃理由を作ってはよく母の元へ足を運んでいた。母は体調を理由に何度か断っていたが、面会を許した日には母の全身をなめるように見ていたのを覚えている。そして娘である自分の事も。

リリアンヌが固い声で拒否すると、ボイルは肩をくすめてため息をついた。

「おやおや、つれないですね。未来の夫に」

「っ!貴方の妻になどなりません!」

全身が沸騰するような怒りを感じて立ち上がる。しかしその様子を見てボイルはさらに楽しそうに笑った。愉快そうに肩を揺らしながらボイルが窓辺へと近づいてくる。リリアンヌに逃げ場はなく、そのまま窓を背に追いやられた。

「・・・・・・さてリリアンヌ様、これからの話しをしましょうか。まず明日の成人の儀、あれは形式に則るだけで出なくてもいい。声明文だけを神殿に奉納しましょう」

あくまでボイルはこの部屋からリリアンヌを出す気はないらしい。明日の成人の儀は唯一の逃げる機会だと考えていたため、悔しさに唇を噛む。

「私は女王になんてならない!オレリアンという正統な後継者だって――」

「貴女は私に従うしかないんですよ、リリアンヌ様」

「っ!」

ボイルの指がリリアンヌの細い顎を捕らえ上を向かせた。近くにあるボイルの顔がほのかな明かりに照らされて笑顔に歪む。

「どうして・・・・・・?侯爵、貴方はずっと正妃様側だった!正妃様を裏切るつもり!?」

「妃殿下にはよくして貰いましたよ。陛下がミシュリーヌ様に夢中になっている間、お慰めしていたのは私ですしね」

「えっ・・・・・・?」

「ですがミシュリーヌ様が亡くなってから、陛下は妃殿下に心を戻すようになりました。そしてあろうことか世継ぎを産んでしまった。妃殿下は王位へ近づく一番の駒だったのに残念です」

国中が喜んだ御子の誕生を一番喜んだ様子だったボイルは、まるで別人のように御子の誕生を批判する。リリアンヌは信じられない思いでボイルを見つめた。

「それでも、妃殿下は貴女の存在に執着していた。妃殿下の地位はまだ利用価値がありますから、表向きは貴女に対立していたんですよ。ま、今となっては貴女の方が何十倍も使えますがね」

くく、と喉を鳴らして笑うボイル。リリアンヌは何を言ったら良いのか分からなくなってただ鍔を呑み込んだ。

「貴女を妻とし、まずはオレリアン様を消しましょうか。妃殿下は悲しむでしょうが、生来身体の弱いオレリアン様ですから『仕方が無い』でしょう。そのショックと心労で、妃殿下にも順番に消えて頂くことにしましょう」

話の内容について行けず呆然とするリリアンヌの腰を引き寄せ、ボイルは強引に顔を近づける。

「さて、私なら妃殿下から貴女をお守りすることが出来ます。貴女が私を夫とすれば、貴女は安寧を手に入れられる・・・・・・」

「いやっ!離して!」

彼の触れる手に今までで一番の嫌悪を感じた。オーウェンに触れられた時とは全く違う、身の毛がよだつ感触。あまりの恐ろしさにリリアンヌはボイルの手をはね除け腕の拘束から逃れようと暴れた。突然の行動にボイルがひるんだのを見計らって扉の方へ駆け出す。しかし後ろからあっさりと手を掴まれ、寝台へと引っ張られていく。

「下手に出ていれば・・・・・・っ!」

「きゃあっ!」

勢いよく寝台の上へ放られ、重みでギシギシと音が鳴る。世界が反転して天井が見えたと思った瞬間、視界いっぱいにボイルの顔が映った。

「いやあああっ!」

「大人しく私に従っていれば良いんだ!悪いようにはしない、生活の水準だって変わりはしない!ずっと苦しめられてきた妃殿下に復讐したいとは思わないのか!嘘の芝居で貴女を騙し、離宮に閉じこもるよう画策したのはあの女だぞ!」

怒鳴り散らしながらボイルは強引にドレスを脱がしにかかる。二年前の事件のことも正妃のことも今はどうでも良かった。リリアンヌは必死に止めさせようともがくが、成人男性であるボイルの力には到底敵わない。結っていた髪は崩れ、シーツや枕など手当たり次第に掴んで投げつけることでやっと距離を保っていた。

「こっちに来ないで!」

「ったく世話の焼ける小娘だ!」

もう投げるものもなくなってしまった頃、ボイルはリリアンヌの腕を掴み押し倒した。組み敷かれた身体はもう身動き一つ出来なかった。

「離してっ!やめて・・・・・・!助けて、誰かっ・・・・・・!」

オーウェン様――心の中で、大切な人の名が浮かぶ。涙で視界がぼやけ、溢れ出した目尻から頬を伝う。すると、ボイルは察したように鼻を鳴らした。

「ふん、誰も助けになど来はしない。リガルドの・・・・・・オーウェン・リガルドと言ったか?奴も偽の情報に踊らされて、今頃国境付近で死んでいるだろうさ」

「に、せの情報・・・・・・?どういうこと!?」

「奴はこの国に来て以来こそこそと私の周りを嗅ぎ回ってくれてね。本国でもあの若さでの出世だ、厭う者も多いらしい。少々高く付いたが、奴を殺すだけで方々に貸しを作ることが出来た」

「な、んて・・・・・・ことを・・・・・・っ」

オーウェンが死んだ?まさか、あの彼が騙されて?

――私に、関わってしまったせい?

望んではいけなかった。今まで縁談者と同じように、突っぱねて、すぐにでも本国へ帰って貰えば良かったのだ。鼻の奥がツンとさし、涙が悲しみを追うように次々と流れ落ちる。

「美女は泣き顔もそそる・・・・・・リリアンヌ王女、私のものとなれ」

「いや・・・・・・やめて・・・・・・」

掴まれた腕はびくともしない。片手で腕を易々とまとめ上げられ、首筋にボイルの舌が這う。片方の手はリリアンヌの身体の線をなぞるようにまさぐってきた。気持ち悪い舌と手の感触に悪寒がし、涙が止めどなく溢れる。

「いやあああっ!!やめ――」

最後の力を振り絞って叫ぶと同時に、再度部屋の扉が開かれた。

「――そこで何をしているのです、マーティン!」

興奮してリリアンヌを押し倒すボイルの背後から、冷たい怒気をはらんだ声がかかった。夢中になってリリアンヌを襲っていたボイルの身体が瞬時に硬直する。開かれた扉から光が差し、扉に背を向けているボイルが黒い影となる。ボイルは息を呑んだ後瞬時にリリアンヌの上から飛び下りた。

「こっ、これはこれは――」

焦ったように身なりを整えるボイル。リリアンヌははっとして自分も崩された身なりを整え寝台を下りる。部屋が暗いため逆光になり見えにくかったが、突如現れた声の主には覚えがあった。

「正妃様・・・・・・」

リリアンヌが驚きのままに呟くが、王妃は何の答えもせずボイルを見据える。

「言うことを聞かせると言って出て行ったけれど、これはいったいどういうこと?」

冷たい目。扇を口元に当て、汚らわしいものを見るように眉を寄せる。二年ぶりに見る王妃の姿。もともと美しいのに、王への執着から濃い化粧、濃い香りを身につけるようになった王妃は年齢以上にやつれて見えた。後ろには従者らしき男性が控えている。その男性にも見覚えがあった。ボイルの命令で自分を攫ったシリルである。

「いえ、これは・・・・・・少し反抗されましたので、躾をと」

「それに手を出すなと言ったはず。自分で約束したことも忘れたの、マーティン?」

ボイルが言い淀むと、もう用はないとばかりに扇を閉じた。パチン、と怒気を感じる鋭い音が耳を差す。後ろに控えるシリルに目線で指示を出すと、彼は静かにボイルへ近づいていった。

「マーティン、下がりなさい」

その言葉に激昂したのか、ボイルは従者の腕を振り払って命令する。

「――もういいっ、駒は手に入れた!シリル、その女を捕らえろ!」

半分笑いながら、勝ち誇ったように命令を下したボイル。

――しかし、その場の誰も彼の命令に動くことはなかった。

命令されたであろうシリルは、王妃の命令通りボイルを捕まえようと手を伸ばす。

「おいどうしたシリル、私の命令を――」

「聞くと思ってんのかよ、腐れ貴族が」

「なっ!お前、何を!」

暗い瞳がボイルを捕らえた瞬間、ボイルの鳩尾にシリルの拳が沈んでいた。どっ、とボイルが膝をついて倒れる。リリアンヌはその一部始終を訳が分からないまま見つめていた。

「マイレディ、この男はどう致します?」

「牢に捨て置きなさい」

「仰せのままに」

そう言うと、時を同じくして入ってきた黒衣の男達に気を失ったボイルを引き渡す。

ボイルに付き従っていたはずのシリルが、ボイルに利用されていたはずの王妃が、ボイルを裏切った。リリアンヌは全く状況を掴めないでいた。

「どういうこと・・・・・・?シリル、貴方はボイル侯爵の従者じゃ」

「そう『だった』よ」

不敵に微笑むシリル。リリアンヌの困惑をおもしろがっているのだろうか、道化のように大げさに膝を折り王妃の手を取り口づけて見せた。

「僕は王妃殿下のものになった。もう随分前からね。あの男が殿下を裏切ってから、ずっと」

「シリル、少し下がっていなさい」

「分かりました」

素直に引き下がったシリルは、扉を閉め部屋の角へと控える。王妃はそれを見届けると、この部屋に入って初めてリリアンヌの顔を見た。

「・・・・・・汚らしい子」

吐き捨てるような台詞。嫌悪感をそのままぶつけるような言葉。

「マーティンを身体で手なずけるつもりだったの?流石あの泥棒猫の娘だわ。顔も身体も、考え方もあの女そっくりで卑しいこと」

「・・・・・・っ」

底なしの闇に独り突き落とされた感覚だった。怒りがふつふつと湧くのに、言われた言葉が氷の刃のように心に突き刺さり動けない。水の中に居るみたいに息が出来ない。言葉がこんなにも暴力的な力を持つなんて知らなかった。

「マーティンに女王の座を勧められていたのでしょう?何故それを受けなかったの」

王妃は静かに問う。その重々しい雰囲気に息苦しさを感じながらリリアンヌは答えた。

「私は王位なんて望まない・・・・・・私にそんな資格は、ない」

王位を望んだことはない。何があっても、これから先ずっと。

「・・・・・・母も、望んでいなかったから」

王妃が息をのむ気配がした。リリアンヌはもう王妃に賭けるしかないと思った。

「聞いて下さい、正妃様!私の事をお嫌いでも構いません。でもこれだけは信じて頂きたいのです!私は王位など望んでいません!ずっと保持してきた継承権も、きっとふさわしい方に譲るのだと決めていました。そして今はオレリアン殿下がお生まれになりました・・・・・・」

リリアンヌは必死に地を踏み、ずっと恐れていた王妃との対面に足を震わせながらも立っていた。ずっと伝えられなかった思いを、この言葉に込めるしかないのだから。

「私は王位継承権を返還します。王族籍も捨ててリゼリア修道院に入ります。ですから正妃様、どうか」

「――もうまっぴらよ!」

「きゃっ!」

王妃の金切り声が耳を劈く。そして肩を怒らせ近づいて来た王妃はリリアンヌの首を握って壁に押しつけた。

「くっ・・・・・・苦し・・・・・・せ、ひさっ・・・・・・ま」

離そうと必死にもがくが、鬼気迫る正妃の力は容易に引きはがせなかった。

「お前もお前の母親も!私を哀れんだような目で見てばかり!!」

悲痛な叫び。リリアンヌは苦しさに顔をゆがめながら、王妃の真意を探ろうとした。

「そん、な・・・・・・母は」

ミシュリーヌは、正妃が王を愛しているのだと言った。自分が貶されるのも辛い思いをするのも仕方がないと言った。哀れんでいるのではなく、ただ受け入れていた。

「お前なんか生まれてこなければ良かったのに!」

ぎりぎりと首が締め付けられる。か弱い女性の力とは思えない、怨念にも似た力だった。

「もう譲られるのも同情されるのもまっぴらなのよ!!王の愛情を手に入れたのもミシュリーヌ、王位継承権を左右するのも娘のお前!!こんな惨めなこと耐えられない!」

きつい香が鼻をつく。美しく結っていた頭は、今は興奮のあまり振りかぶって崩れてしまっている。彼女の狂気を表しているようだった。でもそれが、どこか悲しいと感じた。

「いっそ・・・・・・私がこの手で手に入れるわ。王の座はオレリアンのものよ・・・・・・私と、あの人の子どものものなのよ・・・・・・!」

さらに首を絞める力が増す。必死に正妃の手を叩いたり掴んだりするが全く歯が立たない。酸素が薄くなり意識が朦朧とする。生理的な涙が流れ出すのを感じた。

――ルネ、セリーヌ・・・・・・リュシー・・・・・・離宮の皆・・・・・・

自分をいつも守ってくれた人々が思い浮かぶ。でも、これで良かったのかもしれない。多くの人を巻き込んでしまった責任は、やはりこの命をもって償うしかないのだ。

――『生きろ!』

「いき・・・・・・たい・・・・・・っ」

でも、ごめんなさい。

「お、うぇ・・・・・・さま――」

生きろと願ってくれた、悲しむと言ってくれた貴方が居ない世界で、もう生きる意味なんてないから。

「消えなさい、リリアンヌ――!」

世界が暗闇に包まれそうになった、その時だった。

「やめろ!」

扉が乱暴に開け放たれ、瞬きをするかしないかの間に首を戒めていた手が離れた。崩れ落ちた身体は床にたたきつけられると思いきや、次の瞬間優しい体温に包まれる。

「リリアンヌ様!!しっかりしてください、リリアンヌ様!!」

「――っ・・・・・・ごほっごほっ!――オーウェン、・・・・・・さ、ま?」

やっとの事で、空気に縋るように息を吸い込む。ひゅっ、と気道が高い音を立てて息苦しい。そしてぼやけた視界に映った姿を見て、幻を見ているのかと思った。

「リリアンヌ様、遅くなりました」

微笑んだ彼の瞳は優しくて。

「今度こそ、貴女を助けに来ました」

力強い腕。旅装の所々が泥だらけで、よく見れば切り傷やかすり傷がいくつもある。

「オ、ウェ・・・・・・さまっ・・・・・・!ごぶじ、で――」

しかし締め付けられていた喉が痛んでそれ以上言葉を紡げない。するとオーウェンは優しい手つきで頬をするりと撫でた後、リリアンヌをそっと壁に預け立ち上がった。

「もう貴女を独りにはしない」



リリアンヌの無事を確認した後、剣を手に振り返る。目の前には、オーウェンに引きはがされ床に転んでしまったらしい王妃を椅子に座らせ、剣を抜くシリルの姿があった。

「よくも妃殿下を!この死に損ないが!」

「お前はボイル侯爵の従者か。・・・・・・いや、本来はそちら、か」

ぐったりとする王妃を一瞥したオーウェンは剣を構える。一緒に来たドロシーとアベルは、城門を突破するために衛兵の相手を任せ置いてきてしまった。敵の援護が来る前に決着を付けねばならない。

「我が主の邪魔をするな!」

振り下ろされた剣は思いの外重い。鍛えられた金属のぶつかる音が室内に響く。

「何故無関係なリガルドがイシュトシュタインの王女に肩入れする!?色気にそそのかされたか!」

語尾に含みを保たせた言葉にオーウェンは目を細めた。

「黙れ」

怒気の孕んだ声と共にオーウェンはシリルの剣を弾き懐に飛び込む。シリルが慌てて体勢を立て直そうとするが間に合わず、オーウェンはその隙を狙って剣の柄でシリルの手首を突いた。シリルの剣が彼の手を離れ弾き飛ばされ床を滑る。間を置かずオーウェンが更に踏み込み己の剣を斬り込んだ。風が低く唸る音が頬を掠める。

「くっ!」

しかしシリルはすんでの所でオーウェンの斬撃を躱し後ろへ飛び去った。全ては避けきれなかったのか脇腹の服が裂け血が滲んでいくのが見える。

「降参しろ。これ以上斬り合って彼女たちに辛い場面を見せたくない」

証人ともなるこの男は生かしておきたい。それに斬り合いや血とは縁遠いリリアンヌや王妃に凄惨な場を見せたくはなかった。オーウェンは床に転がるシリルの長剣を壁側へ蹴る。シリルは悔しさに唇を噛みしめると、自らのベルトに差してあった短剣を手にする。よく研がれた短剣がシリルの背後から差す廊下の光を反射した。

「減らず口をっ!」

剣を捨て身軽になった分シリルの動きが速くなる。短剣の扱いに手慣れているのだろう、先ほどよりも動きが読めない。

丸二日馬を駆り休みなく城へ乗り込んだオーウェンの身体は疲弊しきっていた。さらにアベルが危惧していたとおり道中リガルド国からの刺客が送り込まれた。手強い相手に苦戦し、その時に負った傷はまだ癒えていない。オーウェンの身体はすでに満身創痍の状態だった。暗い室内、疲労の溜まった足腰ではシリルの繰り出す剣の速さについて行けない。長引かせれば形勢は逆転してしまうだろう。シリルの狙いは自分をではなくリリアンヌを殺すことだ。先ほどからシリルの視線が定まらないのは、オーウェンの隙を突きリリアンヌを仕留める機会を探っているからだろう。

「邪魔だ・・・・・・どけぇっ!」

鋭い一閃がオーウェンのこめかみを掠める。吹き出した血が目に入り左目の視界が悪くなる。

「くっ!」

ひっ、と怯えたように息を吸い込む音がする。リリアンヌが血を見て驚いたのだろう。早く終わらせてやりたいが、歴戦を重ねてきたオーウェンでも殺さず捕らえる限界を感じていた。

オーウェンは剣をすくい上げるように振り再度短剣を弾き飛ばしにかかる。しかし身軽さではシリルの方が有利である。紙一重で躱された後隙を狙われてしまう。オーウェンは後ろに飛びながら体勢を整えた。左目に染みる血を袖で拭うが、新たな血が目に入り視界を取り戻すのは難しいと判断する。しかしその時、オーウェンの視界が動く影を捕らえた。右に視線をずらすと、先ほどまで椅子に座り込んでいた王妃がシリルの長剣を手にリリアンヌへと向かっている姿が目に飛び込んで来た。

「待てっ!」

心臓がどくんどくんと早鐘を打つ。自分の命が狙われるよりずっと緊張感を感じた。

――失いたくない、と強く思った。

「やめろ――っ!」

壁により掛かり身動きの取れないリリアンヌを庇うように前に出る。しかし焦点を失った暗い瞳でただただリリアンヌを睨み付ける王妃は、躊躇することなく剣を振り下ろす。リリアンヌの叫び声が遠く耳に聞こえた。

次の瞬間、受けた王妃の剣の切っ先が右肩へ滑る感触と、左胸への衝撃を感じた。



全てが速度を遅めて、一枚一枚の映像を――まるで絵本のページをめくるようにゆっくりと見ている気がした。

オーウェンが自分を庇って左側からリリアンヌの視界を埋める。真正面から向かってきた王妃は、速度を緩めず剣を突き刺した。そして更に左から、オーウェンを追うシリルの姿。掠れる声で叫ぶ。

やめて――・・・・・・!

反射的に目を瞑る。しかし次の瞬間聞こえてきたオーウェンの呻き声にはっとする。

「ぐっ・・・・・・」

「オーウェン様っ!」

目の前で膝を立て、自分を庇う背中が見える。王妃が怯えたように剣を引き後ずさった。

「あ・・・・・・あ・・・・・・っ」

我に返った王妃が緩く頭を振りながらその場で気絶して崩れ落ちた。血の付いた剣が共に床に落ちる。すると次に体勢を崩したのはオーウェンだった。オーウェンの手から彼の剣が落ちる。オーウェンの左側から覆い被さる人影――短剣を突き刺すシリルが見えた。目の前で二人はもつれるように倒れ込む。

「死ね、オーウェン・リガルド!」

思い詰めたような形相で短剣に力を込めるシリル。その剣はオーウェンの左胸に突き刺さっていた。仰向けのまま馬乗りされたオーウェンは抵抗して短剣の柄を握るが、王妃に刺された右肩が痛むのか表情が歪む。力は互角だった。

血の、刃の恐ろしさに血の気が引き足に力が入らない。

「やめ、て・・・・・・お願い・・・・・・!殺すなら、私を殺して・・・・・・!」

「はっ!待ってろ王女、次はあんただ!」

シリルが更に力を込める。柄に加え刃を握って抵抗するオーウェンの指の間から血が溢れる。

「――いや!」

気がつけば、身体が勝手に動いていた。ただ夢中でシリルに向かって手を伸ばし身体ごとぶつかる。華奢な女性一人の体当たりなどほとんど威力はない。それでも注意を己に惹き付けるには十分だった。

「黙って見てろ、災厄の王女め!」

腕で振り払われ頭をぶたれる。それでもリリアンヌはシリルの腕にしがみついた。

「黙ってなんかいない!もう諦めないっ!」

「ちっ、このっ!」

血が上ってさらに苛立ったシリルは完全にリリアンヌへと意識を向ける。

――その瞬間を、オーウェンは逃さなかった。

「う、わ!」

リリアンヌをふりほどこうと重心を移動させたシリルをそのまま引き倒したオーウェンはすぐさま腕をとりうつぶせに組み伏せる。瞬時にゴキリ、と関節が外される音がした。

「彼女に触るな」

「ぐあっ!あああ!」

帯剣用のベルトを腰から外しシリルを拘束する。その一連の流れは一瞬だった。痛みにもがいたシリルはそのまま気絶する。シリルが大人しくなったのを見届けた後、オーウェンは崩れるように座り込んだ。

「あ・・・・・・!」

オーウェンの血だらけの顔と手、そして肩。左胸に浅くはあるが突き刺さったままの短剣。リリアンヌは先ほどの熱も冷め血の気が引くのを感じた。

するとオーウェンはおもむろに左胸に刺さった剣を抜いた。

「!オーウェン様、抜いては・・・・・・!」

刺した刃物を抜けば更に出血する。王族として最低限の護身について学んだ時、最初に知った知識だ。しかしオーウェンの傷から血が噴き出すことはなかった。

「大丈夫です。刺さってはいないですから」

裂けてしまった左ポケットから出て来たのは、以前オーウェンに贈った白手袋だった。

そして次に出て来たのは――

「お母様のペンダント・・・・・・?」

「丁度・・・・・・このペンダントが、短剣を食い止めてくれたんです」

短剣が刺さっていたのは服とその下にあった白手袋だけだったのだ。

「王女殿下から頂いた白手袋が台無しになってしまって、すみません。お母上の形見にも傷が」

申し訳なさそうに謝るオーウェンに、リリアンヌは必死に首を振る。

「そんなことどうだっていいんです!貴方が無事ならそれでっ・・・・・・」

堰を切ったようにぼろぼろと涙が零れる。それを拭おうとしたオーウェンは、血だらけになった己の左手に気がつき手を引いてしまう。

「ああ、駄目だ。貴女を汚してしまう」

苦く笑うオーウェン。リリアンヌはたまらなくなって血だらけの彼の手を引き寄せた。

「汚くなどありません!私を守るために、こんな・・・・・・」

刃を握っていた左手は、革手袋も裂けて血が滲んでいた。リリアンヌはドレスの裾を破ると、止血のために手に巻き付けた。

「お母様が守って下さったんだわ、きっと・・・・・・」

「そうですね。・・・・・・貴女が生きることを諦めず、今日まで生きていてくれて良かった」

「オーウェン様のおかげです」

その言葉にオーウェンは驚いたのか目を丸くする。しかし左目は血がこびりついているのか、開かないようだった。

「生きろ、と言って下さったでしょう。私が居なくなれば悲しんで下さると。私は、あの言葉に支えられました」

涙を流しながらも精一杯に微笑む。そして自分を守ってくれた彼の首へ手を回す。

「有り難うございます、オーウェン様」

恥ずかしい気持ちより、彼が現実に目の前に居ることを確かめたい。気持ちが身体を動かし、そっと彼の頭を包み込む。驚いたのかオーウェンは固まったが、ふと力を抜いた後、おそるおそるといった風に左手をリリアンヌの背に添えた。

「・・・・・・ご無事でなによりです、リリアンヌ様」

お互いの体温は少し高くて。けれど、生きている優しい温かさだった。






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