運命の歯車は、既に回って。
「――今頃、どのあたりまで進まれたかしら」
とある昼下がり。雲行きの怪しい曇天に少し気分が落ち込みながら、淹れたての紅茶を口にする。
「五日もあれば補給所に到着すると仰っていましたね」
傍に控えていた侍女のセリーヌが、少し考えた後そう答えた。
「今日は朝から曇っているし・・・・・・雨の中の行軍にならないといいのだけれど」
オーウェンがイシュトシュタイン城を出発して3日が経った。ボイル侯爵は大きな動きを見せず、平穏な3日間を過ごした。しかしいくら訴えても王が王族籍返還に首を縦に振らず、話し合いは平行線だった。
「書面上での会話だから、きっと真意が伝わらないのね。お父様の説得はもう無理かしら」
今まで王と交わしてきた書状をバサリと机に放る。出来れば王である父が王族籍返還を認めてくれれば、リリアンヌがリゼリア修道院へ向かう旅を安全なものにできる。しかし王族籍の返還の同意が得られぬまま出国すればリリアンヌは追われる身。さらに第二継承権を有したままのリリアンヌをボイル侯爵は取り戻そうとするだろう。できればそれは避けたかった。
「もうリリィ様の誕生日まで猶予がありませんわ。ボイル侯爵が強硬手段に出る前に、一度正面から話されるのも1つの手かもしれません」
セリーヌは提案をしておきながら顔に気が進まないと書いてある。
もし父王と対面すると言えば大きな騒ぎになるし、正妃も出てくることが予想されるからだ。
「私の『目』に何も力が無い事と、ボイル侯爵の今までの脅しについて公表したらどうかしら」
「・・・・・・それは、荒れますね」
そう、荒れる。正妃は復活したリリアンヌを脅威に思うだろうし、リリアンヌの訴えを王が信じればボイル侯爵は事情聴取のため身柄を拘束されるだろう。それでもボイル侯爵が完全に身動きできない期間が生まれるメリットがある。
「お父様は、荒れている渦中の私を今まで以上に手元に置けなくなるはずだわ。王族籍を持つと言うだけで、ボイル侯爵のような有力貴族が動いてしまうんだもの」
人前に出ることが出来る今、リリアンヌはこの方法が一番有効だと感じていた。
「ルネ、居る?」
「はい、姫様」
奥の扉から音もなく入室したルネに、リリアンヌは命じる。
「お父様に明日の朝一番に謁見の申請をするわ。それから、今日から貴賓館の警備を更に強化して」
「御意」
敬礼をとってみせると、ルネは早速足早に退室した。リリアンヌもすぐに申請の文をしたためる。
「――久しぶりの公務ですわね、リリィ様!腕が鳴りますわ!」
「セリーヌ、そんなに張り切らなくても・・・・・・」
振り切ったように突然やる気を見せた侍女に驚いていると、腕をまくって鼻息の荒くなったセリーヌは満面の笑顔を向けてきた。
「2年間、こんな美しい主をあんな離宮に閉じ込められていましたのよ。心ない噂も何度反論の言葉を呑み込んで唇を噛んだことか・・・・・・」
くっ、と目尻に涙をきらめかせるセリーヌはさながら女優だ。
「王宮でリリィ様をけなした大馬鹿者達に、目に物見せて差し上げますわよ!」
「セ、セリーヌ・・・・・・」
あまりの熱の上がりっぷりに戸惑ったが、これもセリーヌの心遣いだと分かっていた。2年もの間人前を避けてきたリリアンヌにとって、この謁見は心臓が壊れるかもしれないと思うほど緊張するものだった。セリーヌの緊張をほぐそうとする優しさに嬉しくなり、リリアンヌは小さく笑った。
その日は、王城全体がお祭り騒ぎだった。2年もの間姿を見せなかった王女リリアンヌが王に謁見すると知らされたからである。
王への謁見の申請は、王の都合により少し延びて日取りを受理された。成人するリリアンヌの誕生日を5日後に控えた謁見の日は、貴賓館のみならず宮殿全体が慌ただしかった。
出来ることなら申請してから謁見までの期間を短くしてボイル侯爵が何か仕掛けてくる間を与えたくなかったのだが。いつも以上に警備を強化しているが、不安は残る。
しかしそんなリリアンヌの不安も何のその、まっしぐらに謁見準備に邁進する者がいた。
誰よりも早起きをしたらしいセリーヌは、休む間もなくぱたぱたと衣装部屋とリリアンヌの私室を往復している。その顔は嬉々としているが、どこか鬼気迫るものがある。
「セリーヌ、そこまで凝らなくても・・・・・・」
目を隠すために重たくなっていた前髪を切りそろえ、昨晩丹精込めて香油で梳いた金の髪を複雑に結っていく。まとめた髪にパールの髪飾りをちりばめ、まとめなかった髪は優雅に後ろへ流す。ドレスはモスグリーンに金ボタン、ベージュの繊細なフリルがあしらわれた理知的なデザインだった。薄化粧に花が咲き綻んだようなチークを頬に乗せれば、それだけでリリアンヌの顔は華やかになった。耳元と首元にはそろいの真珠のイヤリングとペンダントが光る。
「王宮を甘く見てはいけませんわリリィ様!侮られることのないよう、隙を見せてはいけないのです!」
そう言い切って息を巻くセリーヌに、リリアンヌはこれ以上は何も言うまいと諦めた。
「こんなに着飾るのも久しぶりね・・・・・・」
2年間外に出る公務を一切断り北の離宮に籠もっていた。人に見せるための準備をしたのはあの16歳の誕生日以来だ。セリーヌや他の侍女達が自分の周りでせわしなく手を動かすのをリリアンヌは懐かしいものを眺めるように見つめていた。
「さて。リリィ様、これで完成です」
しばらくして動きを止めたセリーヌが、満面の笑みで椅子に腰掛けされるがままになっていたリリアンヌへと歩み寄ってきた。差し出されたのは、オーウェンから送られた宝石箱。一時は母の形見を仕舞っていたが、オーウェンに渡した今この中身は空のはずだった。
「?」
「開けて下さいまし」
彼女の勧めにつられて宝石箱を受け取り空けてみると、中から美しい真珠とホワイトシェルで作られたブローチが鎮座していた。
「このブローチ・・・・・・もしかしてスノードロップ?」
繊細な意匠で模されているのは、以前オーウェンへ贈る白手袋に刺繍したスノードロップだった。
「実は・・・・・・縁談が始まってリリィ様がオーウェン様と初めてお会いになった日に、これを発注していたのです。きっといつかリリィ様に必要になると思って」
驚きを隠せないリリアンヌの反応を伺うように告白してくるセリーヌ。きっと、唯一心を許したオーウェンとの結婚を期待したのだろう。
「ありがとう。このブローチをしていれば、一人じゃないと思えるわ」
受け取って微笑むと、セリーヌは泣きそうな顔になって笑った。おつけします、と少し涙声で胸元にブローチを飾る。
オーウェンの存在は、リリアンヌに大きな希望と勇気をくれた。
――宝石箱を持ち歩けない代わりに、このブローチを彼の分身だと思おう。
彼の『生きろ』という言葉を、私自身が見失わないように。
「お美しいですわ、リリィ様・・・・・・どんな美しい華もリリィ様の前では恥じらってしまいますわね」
ほう、と感嘆の息をつくセリーヌに少し恥ずかしくなる。
「姫様、準備は・・・・・・ああ!姫様、本当にお美しいですね・・・・・・」
部屋に入るなりセリーヌと同じ言葉で賞賛したルネ。でしょう、と胸をはるセリーヌはルネと賞賛会を始めようとしている。
「もう、二人とも・・・・・・照れてしまうからやめてちょうだい。そろそろ時間になるわ、行きましょう」
こそばゆい感覚を噛みしめながら立ち上がる。そしてルネが先導しセリーヌが後に続こうとしたその時だった。
――コンコンコンコン。
正面の扉が『4回』ノックされた。
はっとしたリリアンヌは、ルネに目配せをして奥に下がる。セリーヌはリリアンヌを庇うようにして立った。リリアンヌが扉から十分離れた事を確認した後、扉に近づく。
「誰だ」
「リュシー・バリエールです。庭に美しい薔薇が7,8本咲いていましたので、お祝いにと思い5本持って参りました。知識不足で棘がついたままなのですが・・・・・・」
まだ開けていない扉の前でリュシーが用件を話した瞬間ルネの眼光が一気に鋭くなった。ルネが剣の柄に手を掛けると同時に、リリアンヌはセリーヌと共に急いで奥の部屋へと逃げ込んだ。静かにカチリ、と鍵を掛ける音が聞こえた。ルネはリリアンヌ達の足音が遠のいたことを確認してから一呼吸置き、静かに扉の向こうへ呼びかける。
「そうか。棘なら庭師のニックが取ってくれるはずだから、行ってみると良い。姫様はまだ準備中だから、お渡しするのは後にして貰いたい」
「・・・・・・」
返事が返ってこない。ルネは慎重に扉から離れる。しかし次の瞬間、扉を強く蹴破る音と共に両開きの扉が開き、顔を隠した男が5人突入してきた。
「リリアンヌ王女を今すぐこちらに引き渡せ!」
リーダー格の男が剣を抜き、たった一人対峙するルネを脅そうと詰め寄った。
「申し訳ありません、バシェレリー卿!」
さんざん痛めつけられたのだろう、顔や体中に痣や泥を付けたリュシーが泣きそうな顔で扉の外に転がされている。手足を縛られ、それでも彼女はリリアンヌを逃がすために策を打った。
決して礼を欠くことのないリュシーがノックを3回ではなく4回したこと。庭に咲いていた7本から5本選んで持ってきたという、棘が付いたままの薔薇――それは、武器を持った警戒するべき人物が庭に2人、扉近くに5人居ることを伝えていたのだ。
「誰の手の者だ!」
「お前に教えることはない、さっさと王女を出せ!」
リーダー格の男が怒鳴った瞬間、5人の男達が全員動き出した。四方八方から繰り出される攻撃にルネは躱しながら剣を受け止めるが、攻撃に転じることが出来ない。肩や腹を浅く切られながらも奥の部屋へと続く扉に近づけないよう切り結んでいると、リーダーらしき男が扉近くに居る部下に命令する。
「その扉の奥だ!行け!」
「行かせはしないっ!」
ルネの叫びと共に彼女の剣が唸る。風を裂き、レイピアの切っ先が男達の腕や腹を正確に切りつけ再起不能にしていく。しかし訓練された男5人に対し1人で戦うのには限界がある。体力を消耗し、ルネは既に息が上がっていた。
「くっ・・・・・・」
息つく暇も無く繰り出される剣。そして扉の向こうから階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。まずい、と直感が警鐘を鳴らした瞬間、扉から新たな人影が現れた。
「何をぐずぐずしてるのさ。女1人に情けないなぁ」
「っ!お前は・・・・・・!」
その姿は、いつもボイル侯爵の影でおどおどしていた従者だった。しかしいつもの挙動不審な様子は影を潜め、まるで別人のように堂々とした態度で部屋に入ってきた。その腕には、床に転がされていたリュシーが抱えられていた。
「女騎士、今すぐ王女を差し出せ。この衛兵を殺されたくなければ、ね?」
「卑怯な・・・・・・っ」
さんざん痛めつけられたリュシーにもう逃げる気力はない。厳重にしていたはずの警備を突破され、応援の見込みもない状況である。しかしリリアンヌを守ることは第一優先事項だ。狭間に立たされたルネは唇を噛みしめ答えに窮する。
しかし歪な沈黙を破って反論したのは、意外にも刺客の男達だった。
「しかしシリル様、死人を出しては計画が――」
刺客の1人が異議を唱える。刺客の男達の手は止まり、ルネを警戒しながらも視線はシリルという名の従者へと向けられた。
「死人の1人や2人、こちらでどうとでもなるって。とにかくあの男に王女を引き渡せばいい。刺客から救い出した既成事実さえあれば良いと言ったはずだよ」
シリルはその視線を跳ね返すように言う。それは扉の向こうに居るリリアンヌへ聞こえるように話しているように感じルネは焦った。
――このままではリリアンヌ様が出て来てしまう・・・・・・
「お前達の話を取り合うつもりはない。姫様はこれから陛下への謁見に向かわれる。それを妨害するとは、陛下への反旗と取るぞ!」
ルネは自分たちが優位であることを主張する。リリアンヌが身を挺して出て来てしまうのは避けたかった。
「こちらには陛下の信頼の厚い証人が揃っている。今回の事を明るみに出せばお前達の主人が困るのではないか?」
しかしルネの必死の反論をシリルは一笑に伏した。
「僕たちのバックアップには陛下も逆らえない。それに言っただろ?死人はどうとでもなる、とね」
そしてシリルは笑みを消す。
「死人に口なし・・・・・・という言葉を知っているかな、ルネ・バシェレリー卿?」
冷たい瞳。今まさに狩られようとする獲物の気持ちがはっきりと分かった気がした。このままではリュシーだけでなく自分も、最悪セリーヌも殺される可能性がある。
「――おやめなさい」
凛とした声。背後から聞こえたその声にルネは振り向く。やはり、出て来てしまった。
「姫様・・・・・・っ」
リリアンヌは厳しい表情でシリルと男達を見据える。男性と対面するのはまだ怖いだろうに、両手を固く握りしめて負けじと睨み付けるリリアンヌは凛々しい第一王女然としていた。セリーヌは必死で止めたのだろう、泣きそうな表情でリリアンヌのすぐ後ろに控えている。シリルはひゅう、と口笛を鳴らし興味深そうにリリアンヌを眺め梳かした。
「やっと王女様の登場か。それもあの男が好みそうな噂通りの絶世の美女。おい、連れて行け」
「待ちなさい。まだ付いていくとは言っていない」
シリルの命令をリリアンヌは強い口調で遮った。シリルは意外そうに目を丸くした後、興味を持った風にリリアンヌの顔をのぞき込む。
「なに?大人しく付いてこなければあんたの大切にしているそいつらの命はないけど?」
確かめるように告げられた言葉にリリアンヌは動じなかった。
「リュシーを解放しなさい。そしてルネとセリーヌには手出しをしないと約束しなさい。これを守れないのならあなた方に付いていく気はありません」
「あんたに選択肢はないと言って・・・・・・」
「選択肢ならある」
そう言うと、リリアンヌは部屋から持ち出してきたのだろう果物ナイフを取り出し、ぴたりと自分の首筋に当てた。
「貴方たちにとって、私が『生きている』ことは重要なはず。私の要求が聞けないのならこの場で自害します」
この言葉を聞いたシリルの顔から余裕が消えていく。リリアンヌの本気を感じ取ったのだろう。視線を外し焦ったようにタイをいじって思案した後、長いため息をついてみせた。
「・・・・・・分かったよ、強情っぱりなお姫さま。おい、解放しろ」
抱えていたリュシーを床に手放し、男達に解放の指示を出した。
「この約束を違えれば、私はその場で舌を噛み切ってでも自害する覚悟があるわ。覚えておきなさい」
「はいはい。全く、引きこもりのか弱い姫かと思いきや・・・・・・案外お気の強いことで」
「・・・・・・」
リリアンヌは答えない。シリルが目配せすると、男達がリリアンヌを逃がさないよう囲む。果物ナイフを没収され、後ろ手に手首を縛られた。ルネはそれを唇を噛みしめて見守るしかない。
「王女の言うとおり、あんた達には手出ししない。しかしあんた達がこのことを訴え出た時は容赦しないからね」
他に助けを呼べば命はない――そう言い置いて、シリルは男達と共にリリアンヌを連れて行った。
扉が閉められた後、セリーヌが背後で泣き崩れた。
「リリィさまあああぁぁぁっ!私がもっとお止めできていたらっ・・・・・・リリィさまっ・・・・・・!」
「申し訳あり、ませ・・・・・・っ」
放り置かれたリュシーは、横たわったまま掠れた声で謝り続ける。
「私が力不足だったんだ・・・・・・姫様をお守りできなかった・・・・・・」
リリアンヌはこの場に居る自分の味方を身を挺して守ったのだ。しかし今一番心配なのは、このままではリリアンヌが五日以内に自害してしまう可能性があることだった。今回の黒幕はボイル侯爵だ。そしてシリルの言動から、王に干渉できる存在が居ることが分かった。王妃か、もしくは別の権力か。目的はリリアンヌの王位継承権で間違いないだろう。悲観したリリアンヌが自害を選ぶか、王位継承権を得るために利用されるか。どちらにしろこの五日間に事が動く可能性は高い。
ルネはリュシーの拘束を解いてやると、そのまま立ち上がり扉へ向かう。
「どこへ行くの、ルネ」
不安そうなセリーヌがルネの背中に声を掛ける。ルネは振り返らず答えを返した。
「姫様の連れて行かれた場所を特定する。今ならまだ近くに居るはず」
掠れた声で駆けだしたルネを、何も出来ないセリーヌはただ見守るしかなかった。しかしリュシーの手当をしようと立ち上がろうとした時、セリーヌは自分が立ち上がれないことに気がついた。腰が抜けているのだ。
「情けない・・・・・・!」
剣を向けられて恐ろしかった。リリアンヌも自分もあの銀色に光る刃物に切りつけられるのだと震え上がった。しかし、主であるリリアンヌは、臣下を守るために気丈にも立ち向かったのだ。それなのに、こんなところで立ち上がれもしないなんて。
無残に椅子やテーブルが倒れた部屋で、リュシーとセリーヌのすすり泣きが悲しく響いた。
* * *
馬が嘶く声とともに、オーウェン率いる旅隊は歩を止めた。
「3時間後に出発する!補給が終わり次第報告しろ!」
「了解!」
第五補給処に到着して早々、オーウェンは次の出立の時間を提示する。隊員達は疲労の色も見せずすぐに作業に取りかかった。
補給処の司令部に顔を出そうと歩き出すと、その後ろからアベルが駆け寄ってきた。
「予定より少し早くカルイースクに到着できそうです。行程はこのままで?」
「ああ。しかし湿気が低いが曇行きが怪しい・・・・・・雨にはならないと思いたいが、雨に備えて準備するよう伝えてくれ」
「了解しました」
すぐ戻ります、と言い置いてアベルは踵を返し走り去っていく。休みなくよく働く副官だ。
「後は戦況はどうなっているのか、だな・・・・・・」
第五補給処の司令には、今回のカルイースクへの遠征に先立ち情報収集を依頼していた。戦況や裏で手引きしている者が分かればそれだけでもこちらの負担は軽くなる。リリアンヌが心配していたとおり、今回の旅隊はイシュトシュタインの視察のためだけに組まれた簡略的な旅隊だ。長い遠征や激しい戦闘に十分耐えうるとは言い難かった。
馬を厩に預け旅装のまま司令部へ向かうと、予定より早い到着に驚きを見せながらも丁寧に迎えられる。次いでアベルも戻り、司令室へと案内された。
「お早い到着で驚きました。流石オーウェン様です」
「天候に恵まれたのが幸運だった。旅隊の者達もよく耐えてくれているんだ」
握手を求められ応じながら答えると、補給処を統括する司令は感嘆の声を漏らした。
「お噂はかねがね・・・・・・本当に、素晴らしい御仁だ」
「いや、そんなことは」
周囲の補給処職員も一同に頷くのを見て、オーウェンは気恥ずかしくなり手を首に当てる。
「それより、依頼していた情報が欲しい。戦況は?」
オーウェンが話しの流れを変えようと用件を切り出す。すると司令は少し困った顔をして答えた。
「それが、全く情報が無いのです。派遣した諜報員も連絡が途絶えました。それどころか、今回オーウェン様から補給と情報収集の依頼を受けるまで、私たちはカルイースクの暴動を知りませんでした。本国リガルドからも連絡はありませんでしたし・・・・・・少し妙な気が」
「リガルドから連絡が無い?それは本当か」
「はい。ですから補給の品を準備するのも時間が無くそれはもう大変で。間に合って良かったとほっとしております。しかし何の情報も提供できず申し訳ありません」
眉をハの字に下げて何度も謝罪を口にする司令。オーウェンが怪訝な顔をして黙り込んでしまったのを見てさらに恐縮そうに背を丸めてしまう。気にするなと告げ司令室を後にし、補給処の中央倉庫へ向かう。近づくにつれて旅隊と補給処職員の声が響いてくる。手際の良さは流石リガルドの騎士と言った所か。オーウェンの姿を見留めて元気に敬礼をしてくる者達に答礼しながら、その間もオーウェンの表情は晴れないままだった。
「オーウェン様、リガルドから補給の応援要請が来ていないのはおかしいです。元首が隊の編成に欠かせない要請を怠るはずがありません」
「ああ。・・・・・・何かがおかしい」
突然転がり込んできたカルイースクの暴動。ボイル侯爵と大商人の繋がり。父からの急な遠征要請――。他国でありすぐに情報のやりとりが出来ない距離にあるとは言え、ここまで情報も無く確証もない遠征は今までに無い。しかし補給処の諜報員が未だ帰らずの状態なら、事態は切迫しているはずだ。ここで歩みを止めるわけには行かない。
「行程に変更はしない。予定通りここを出発する。――第一旅隊、第二旅隊!この後からカルイースクまでは長くなる。出立まで交代で休むようにしてくれ」
「了解!」
目の前の部下達に告げると、明るい表情で返事が返ってくる。今回引き連れてきた旅隊は各隊長こそオーウェンより目上の人間だが、ほとんどはオーウェンと左程変わらない年若い騎士達ばかりだった。若くして副騎士団長まで上り詰めたオーウェンを煙たがる幹部は多い。今回視察で付いて来てくれた隊長二名はオーウェンを支持してくれる数少ない幹部の中の二人だ。革新的な政治を行う父のもと、より強固で時代に合った国に変えるため自分なりに努力してきた。古い慣習に囚われず、権力ではなく実力のある有能な者を取り立てるという構想を理解して付いて来てくれる者は少なくなかった。しかし上に行けば行くほど、オーウェンへの風当たりは強くなった。今の幹部の中で、オーウェンが信用できるのはまだほんの一部の人間だけだ。
「オーウェン様も休憩をお取り下さい。ここについてから一度も休まれていないでしょう」
「いや、適当に休んでいるから大丈夫だ。それより、イシュトシュタイン城から何か連絡はあったか?」
「いえ、今のところは。もしボイル侯爵や王妃が動いたとして、伝令に来るにはまだ時間がかかるかと」
「そうだよな。すまん、当たり前だな」
「いえ・・・・・・」
苦笑して空を仰ぎ見るオーウェン。そんな主を見守りながら、アベルはひっそりと息をついた。オーウェンが無理をしているのは誰の目から見ても明らかだ。イシュトシュタインでは気を抜けず国賓として振る舞い、王女を身を挺して守って傷を負い、その傷も癒えぬまま遠征への出立となった。旅隊に気を配り、緊張の糸を張り詰めたままのオーウェンは痛々しいものがあった。もっとオーウェンを支えられる目上の幹部が居ればオーウェンも楽なのだろうが、この旅隊はいかんせん幹部が少ない。オーウェンの心労は増えるばかりだ。そして未だ、彼はイシュトシュタインで今生の別れを告げた王女を想っている。どうにかならないものかとアベルは行軍の最中ずっと思案していたが、結局何も出来ずに補給処へ辿り着いた。時折見せる諦観したオーウェンの表情を、アベルはこの二日間で見飽きるほど見てきたというのに。
「嫌な雲だな・・・・・・」
オーウェンのつぶやきにアベルも空へと視線をずらす。確かに、雲の流れが速い。湿気も帯びてきたように思う。
「やはり雨の中行軍する可能性が高くなってきましたね」
「ああ」
オーウェンやアベルの心を映したかのような厚ぼったいどんよりとした雲は、急速に空を覆い尽くしていく。まるで何かを呑み込むような、少し不気味な灰色だった。
――それから時間が経ち、出立の時間となった。
「小雨が降ってきたな」
霧のような雨が身体に纏わり付く。やや不快な感触を振り払うようにマントを捌くと、オーウェンは馬上へと登った。出立の刻を感じた馬が前足を駆るのを諫め、準備を整えた旅隊を見回す。
「これからカルイースクへと向かう!装備に不備がないよう確認するように。カルイースクの戦況は未だ分からない。気を引き締めてかかれ!」
「はっ!」
全員の士気ある敬礼に答礼し、出発を告げる。動き出した旅隊を確認しながら、オーウェンは自らも馬を進めようと手綱を握った、その時だった。
「オーウェン様、至急報告が!」
突然大声で馬を走らせてきたのは、後方の監視を任せていた旅隊員だった。
「どうした!」
切迫した声にオーウェンと隣に控えるアベルが振り向く。焦った様子の隊員は手綱を慌てて引き馬を止めるとすぐに口を開いた。
「後方に一騎、考えられない速度でこちらに近づいて来ています!その更に後方に追いかけるように五騎。一直線にこちらに向かってきます!武器は身長を超すほどの大弓が見えました!」
報告を聞くやいなやオーウェンは自ら後方へ馬を走らせる。確かに遠目にこちらに近づいてくる物体が見える。近くの峠にはびこると聞く賊か、どこからかの刺客か。リガルドの旗を掲げていないことから、味方でないことは確かだと判断する。オーウェンは瞬時に命令を発した。
「後方補給班は陣形を保ったまま前方へ回れ!前方1班援護しろ!中3班4班、後方に回り警戒態勢!」
統率のとれた旅隊はすぐさま陣形を変える。進行速度を上げ有利な戦闘形態を整える。しかし一向に敵との距離は広がらず、それどころか縮まる一方だった。
「追いつかれます!」
「戦闘態勢用意――!」
オーウェンの号令に後方部隊が弓を引く。中3、4班は剣や槍を手に臨戦態勢となった。
――しかし、敵の異変に初めに気がついたのはオーウェンだった。
「まさか、あれは――待て!総員戦闘態勢解除!停止!」
慌てたような声に部隊全体にどよめきが走る。急な命令の変更に旅隊は戸惑いを隠せずに居た。
「オーウェン様、どうなさったのです!?」
アベルが目を丸くしてオーウェンへと振り返る。そんな彼の視線を戻すため、オーウェンはその人影を指差した。
「見ろ。あれは敵じゃない」
「えっ!?まっ、まさかあれは・・・・・・!」
しっかりと形になって見えた馬上の人影。予想していたよりも線が細く身軽な旅装だった。そして何より目を引かれるのは後ろで高く結い上げられた燃えるような赤毛だった。馬が駆ける度左右に揺れる長い髪と、小さな顔の輪郭に輝く金緑の瞳。それはどうみても女性のものだった。背中に背負うのは、女性には到底扱えなさそうな大ぶりの弓。黒馬を駆るその人影は、リガルド国元首の義娘、ドロシー・リガルドその人だった。
「お義兄様ー!生きてらしてー?」
こちらの視線に気付いてか、ドロシーは満面の笑みで手を振ってくる。しかし彼女の駆る馬の速度は変わらない。周囲の隊員は呆然と彼女の姿を見つめていた。
更に加速して距離を縮めたドロシーは、華麗な手綱捌きで馬を止める。にっこりと笑顔を浮かべて口を開けたまま放心する隊員達に手を振って見せた。
「ドロシー!なぜお前がこんな所に!?しかも供はどうした!」
「だって急いでるのにみんな遅いんですもの。供の方達は後からゆっくり来ますわ」
となると、後ろの五騎はドロシーの供をしていた者達だろう。彼らとて全速力だっただろうが、彼女の騎馬には敵わなかったようだ。
「置いてきたら供の意味がないだろう・・・・・・!」
飄々と答えるドロシーに、状況を上手く飲み込めないオーウェンは頭を抱える。
「ドロシー様、一体何故こんな所まで?それにその馬とそのお姿は・・・・・・」
やっと我に返ったアベルが尋ねると、「ああ、これのこと?」とドロシーは自分を指差しておどけてみせる。
「ふふ、似合うでしょう?久しぶりに着たけれど、やっぱりドレスよりしっくり来ますわね」
「はぁ・・・・・・え、久しぶり?」
何のことだかさっぱり分かっていないアベルを見てため息をつく。
「忘れたか、アベル。こいつはあの伝説の騎馬民族・モルスクの部族長の娘だ。馬を駆る速さと流鏑馬の腕は俺でも敵わない」
「えっ、えっ!?ドロシー様、本当に・・・・・・!?」
「あら、ご存じない?私、これでも部族では『赤弓の魔女』で名の通る有名人だったのだけど」
どっと周囲のざわめきが大きくなる。『赤弓の魔女』といえば、弓を引けば百発百中、一騎当千とも謳われた騎馬民族最強の女性の通り名だ。彼女の母、今の元首夫人は夫を早くに亡くしたモルスクの部族長で、統率力に長けていた。そして娘のドロシーは部族最強と謳われる騎手。元首はその実力を手に入れるため再婚を申し入れたのだ。しかし今はそんなことを説明している場合ではない。オーウェンは更に頭を抱えたくなる気分でドロシーに問いかけた。
「とにかく、どうしてこんな所まで来たのか教えてくれ!」
「お義兄様の命の危険をお知らせに参りましたの。良かったですわ、まだくたばってなくて」
ものすごい言葉が聞こえた気がするが、とりあえず今は流すことにする。するとドロシーはすっと真剣な顔つきになり一通の書状を差し出した。
「お義父さまからの伝言ですわ。お義兄様がリガルドを発たれてから最初の文です」
「最初の?いや、父上からは今回のカルイースクの文書が――まさか」
ドロシーの言いたいことを察したオーウェンは書状を開く。内容は帰還命令と、道中気を抜くなという忠告だった。
「そのまさかですわ。お義兄様に反抗する幹部達の動きが怪しいと情報が入ったものですから、信用できる私自らお義父さまの書状をもってイシュトシュタインに赴いてみれば・・・・・・なぜか抗争など起きていないカルイースクへ発たれたと言うんですもの。慌てて追いかけてきたんですのよ」
「ではイシュトシュタインで受け取った父上からの書状は偽装だったのか」
「カルイースクは安定していますわ。今一番危ないのは、お義兄様のお命です」
すっと真剣な眼差しでオーウェンを見つめるドロシー。周囲を気にしながら彼女は告げる。
「早くリガルドにお戻り下さい、お義兄様。騎士団の幹部が、貴族の地位と引き替えにイシュトシュタインの上流貴族と手を組んだようなのです。お義兄様を騙してイシュトシュタインから離れさせ、遠征の最中に命を落としたと見せかけ暗殺するつもりですわ。そしてこの件はその上流貴族を通じてガリュア帝国とも繋がっている可能性も。このままではリガルド国がイシュトシュタインかガリュアに呑み込まれますわ」
オーウェンはまさかという事態に息を呑む。イシュトシュタインの上流貴族とはおそらくボイル侯爵だ。縁談候補者の、しかも王女の命を救った有力候補のオーウェンを消すことは、オーウェンを煙たがるリガルド国の幹部達と利害が一致したに違いない。そしてリガルドでの革新に地位を危ぶんでいた幹部達は、次期国王を狙うボイル侯爵がちらつかせた貴族の地位に目を眩ませた。ガリュア国はボイル侯爵がスポンサーとなっている大商会と裏で武器や情報の取引をしている可能性が高い。国際警察の役割を担うリガルドが混乱するのはまたとない機会だ。三つの国のそれぞれの思惑が重なったのだ。不可解な点がこれで一気に線で結ばれた。
「イシュトシュタインでは王女様がボイル侯爵という貴族との縁談を受ける話になっていましたし。まだ王位継承権も放棄されていないそうですから、まさか彼女が黒幕という線も・・・・・・」
ドロシーのつぶやきにオーウェンは弾かれたように顔を上げた。今、ドロシーは何と言った?
「王女が・・・・・・ボイル侯爵と!?それはいつの話しだ!?」
義兄のいつにない剣幕に、ドロシーは目を丸くしながら答える。
「えっ・・・・・・ここまで来るのに二日かかっているから、三日前の話だと思いますけど」
「まだ王位継承権は返還できていないのか?王族籍も?」
「王位継承権は第二位に下がるだけのようですわ。王女から正式にイシュトシュタイン王にお願いされたとか。女王の座を狙っているのではとの噂も出てましたわね」
「まさか・・・・・・王女殿下がそんなものを欲しがるはずはない」
譫言の様に呟きながらオーウェンは拳を握りしめる。王女の誕生日まであと二日。王城を脱出する前に強硬手段に出たボイル侯爵に捕まったと考えるのが妥当だろう。このままではリリアンヌはボイル侯爵に利用されてしまう。しかし一番怖いのは、彼女が生きることを諦めてしまうことだ。
「オーウェン様・・・・・・」
アベルが心配そうにオーウェンを見守る。もうオーウェンの心に余裕はなかった。
「王女が危ない。・・・・・・あと二日で、イシュトシュタインはボイル侯爵の策略に落ちる」
「どういうことです?」
ドロシーが首を傾げる。答えないオーウェンに代わってアベルが事情を説明すると、飛び上がらんばかりに驚いてみせた。
「そんな!許せません、か弱い女性を政治の道具に使うなんて下種のすることですわ!」
憤慨するドロシーは、オーウェンに詰め寄りけしかける。ややつり上がった目元が一段と鋭さを増し、ドロシーの怒りを表していた。
「早く助けに行って差し上げませんとお義兄様!今すぐに発たないと間に合いませんわ!」
「お待ち下さいドロシー様!オーウェン様もお命を狙われている身。危険すぎます!それに今からここを発っても間に合うかどうか・・・・・・」
慌てて止めに入るアベルにドロシーは泣く子も黙る剣幕で怒鳴り返す。
「でもお義兄様は王女様の事を大切に思っていらっしゃるのでしょう!?後悔しますわよ!」
「しっ・・・・・・しかし、他国の王位継承問題にリガルドが過干渉するわけにはっ」
負けじと言い返すアベルだが既にドロシーの剣幕に負けて尻込みしている。ドロシーは構わずオーウェンに詰め寄った。
「援護は私が致します。絶世の美女と一晩閉じ込められても手を出さない鉄壁の理性をお持ちと噂のお義兄様を虜にした女性ですもの、他の殿方にくれてやる道理はありませんことよ?」
「ドロシー・・・・・・俺は」
言葉遣いが素に戻りつつある義妹は、懸命にオーウェンを説得する。しかしオーウェンはアベルの言い分も理解しているのだ。自分はリガルド国元首の嫡男であり、次期騎士団長候補。今ここでイシュトシュタインに過干渉すれば、国際均衡が崩れかねないことを。しかしそれ以上に、リリアンヌを助けたいという思いが胸を焼くように溢れている。
そんな義兄の苦悩に気がついたのか、ドロシーはふっと目を細めて笑いかけた。
「・・・・・・お義兄様、たまにわがままになってくださいませ」
ドロシーの言葉にアベルははっとしたように顔を上げオーウェンを見つめた後、視線を外して俯いた。
「――自分は・・・・・・オーウェン様の選択に従います」
周囲に敵ばかりのオーウェンが唯一心を許した女性、リリアンヌ王女。その優しさや澄んだ心はアベルもよく知っていた。
「王女殿下が政治に道具にされるのを黙って見過ごすのは、自分の騎士道精神に反します」
「アベル・・・・・・」
「お義兄様、もう心は決まっておいででしょう?」
力強い瞳を向けてくるドロシーとアベル。背を押す二人の眼差しを感じながら、オーウェンは自分の激しい思いが今にも心の蓋を壊しそうだった。しかし騎士団を預かる立場、そして国を担う責任が重石となっていた。何も言えずオーウェンが黙りこくっていると、周囲からぽつり、ぽつりと声が上がり始めた。
「行って下さい、副団長!」
「そうですよ、お姫様を助けるのは騎士だと相場は決まっています」
「それ王子じゃないのか?」
「いや、そこらの王子じゃ実際軟弱で任せてられないだろ」
確かに、と隊員達は頷き合う。
「ほら、オーウェン様も国が国なら王子様みたいなもんだし!」
「だな!オーウェン様、腕の見せ所っすよ!」
オーウェンにここまで付いて来てくれた旅隊員達が笑顔を浮かべて口々にオーウェンの背中を押す。その光景にオーウェンは目を丸くした。
「オーウェン様、この後の旅隊の指揮は私たち旅隊長にお任せ下さい。アベル、お前はオーウェン様に付いてお守りしろよ」
「こんなやんちゃが出来るのも若い内だけですぞオーウェン様!」
各旅隊長がだめ押しで言葉を掛けてくる。その言葉にオーウェンは決意を固めた。
「――みんな、有り難う」
顔を上げたオーウェンの表情に吹っ切れた色を見て周囲の者達は満足そうに頷いた。オーウェンは声高らかに宣言する。
「これからイシュトシュタイン城へ帰還する!各旅隊は隊長の指揮のもと後を追ってくるように。俺はアベルとドロシーを連れイシュトシュタインを目指す!」
「そうと決まれば行きますわよ!あ、来た来たお供の方達ー!私このままお義兄様と引き返しますから、残った騎士旅隊の方々と後ろから付いて来て下さいませねー?」
「えええ!?」
「そりゃないですよドロシーさまぁ!」
やっと追いついたドロシーのお供達は、くたくたで意気消沈してしまったようでがっくりと肩を落とす。その様子に周囲でどっと笑いが起き、オーウェンも小さく吹き出す。
「お義兄様、もっと周りを頼って下さいな」
「ドロシー・・・・・・」
「本国にも、もっとお義兄様に信頼を寄せている者は沢山居ますわ。だからお義兄様も、信頼を返してあげませんと」
ドロシーはそう言いながら、優しい瞳を旅隊の者達に向ける。義母ゆずりの金緑の瞳は、涼しげなのにとても優しい色を讃えている。
「・・・・・・ありがとう」
そう小さく返した後、オーウェンは強く手綱を握りイシュトシュタイン王城の方角へと馬を向けた。
「必ず、助ける」
雨足がさらに強くなる。イシュトシュタインへ休まず馬を走らせたとして二日はかかる。馬がどこまで保つか、リリアンヌの成人の儀に間に合うのかは賭になる。それでもオーウェンは諦めるつもりはなかった。必ず助けたい。身を焦がすような想いがそこにはあった。
他人の幸せを想い自分を捨てようとしたリリアンヌ。その悲しい選択をオーウェンはずっと受け入れられなかった。それでも彼女の意思は固く、それを尊重することが彼女の幸せなのだと思うことにした。――しかし、その彼女の優しい想いさえ踏みにじられるというのなら。
「貴女が願えなかった『貴女の幸せ』を――もう奪わせはしない」
孤独に生きる『顔なし姫』を、もう独りにしないために。