『生きる』、意味
火事の騒ぎが起こる一時間ほど前。リリアンヌや使用人達は、リリアンヌが突然決めた王族籍返還と離宮引き払いを受け荷造りに励んでいた。
「もうこの離宮ともお別れね・・・・・・」
無理矢理押し込まれたようなものだから、特別愛着がある住まいではない。しかしこの閉鎖的な環境が自分の不安を和らげていたこともあり、二年の月日を過ごしたこの離宮を引き払うのは少し寂しく感じた。
「リリィさま。本当にお考えは変わりませんか?何もこんなに早く荷造りをして出て行かなくても・・・・・・」
荷造りの手を止め、セリーヌは遠慮がちに進言する。心配されていることは十二分に分かっているので申し訳ないとも思うが、それでもリリアンヌは精力的に荷造りを指示し、その手を止めることはなかった。リリアンヌとセリーヌが立つ場所はリリアンヌが一日の大半を過ごす寝室であったはずだが、今はベッドとドレッサー以外のほぼ全ての物が梱包され荷物の山と化していた。
「お父様は王族籍返還に頷くことはないと思うわ。実力行使しか方法はないの。それに、一刻も早く私が王位を継がないと表明しなければ、私の立場だけが貴族達に利用されてオレリアン様に王位が渡らなくなるわ。オレリアン様が命を狙われる可能性も高くなる。それだけは避けなければ」
使用人に納屋の荷物の整理の指示を終え、あらかたの作業は終了した。もう時間も遅い。荷造りを終えた使用人から下がるよう言伝たあと、リリアンヌはやっとソファに腰を落ち着けた。
「今日の所はもう終わりにしましょう。セリーヌ、それが終わったらルネにも終了するよう伝えて」
「分かりました。・・・・・・では、失礼いたします」
少ししょんぼりした様子のセリーヌは、きちんと礼をした後リリアンヌの寝室から出て行った。
「ごめんなさいセリーヌ。ルネにも・・・・・・心配かけてばかり」
そう独りごちたリリアンヌは、結い髪を解くとそのままベッドに寝転んだ。はしたないと思いながらも、今はどうでも良くなっていた。
色鮮やかな紗で覆われた美しい天蓋を見つめながら、これからのことを考える。近い内にこの離宮を出て、リゼリア修道院へ向かう。あそこまでは一週間くらいかかるから、途中宿を取らねばならない。そう思えば、荷物も従者も最小限に選別しなければ。もう王族ではなくなるのだから、体面を気にすることもないのだ。
「自分の事は自分で出来るようにならなくちゃ・・・・・・」
服を着るのも食事をするのも湯浴みをするのも、全てセリーヌに頼っていた。身の安全はいつもルネが気を配ってくれていた。しかし、リゼリア修道院に専属の従者など連れては行けない。リゼリア修道院では自分の衣食住全てを自分でまかなわなければならない。今日から夜着も自分で着てみようかと思案した。
ごろりと寝返りを打ちゆるりと目を開けた先、目に飛び込んで来たのはドレッサーの上にひっそりと置かれた宝石箱。繊細な彫刻が美しい、オーウェンからの贈り物だった。中には母の形見のペンダントが入っている。
顔を見せろなどと要求せず、優しく話を聞いてくれるオーウェン・リガルド。騎士団長という肩書きの上に一国の嫡男であるのにも関わらず奢った所がなく、本当に優しい人だ。
誕生パーティー以来、リリアンヌは父に勧められた幾人もの縁談者と対面してきたが、オーウェンに出会うまであんなに優しい男の人が居るとは思いもしなかった。男は皆野蛮か身勝手で、相手の容姿でしか判断できない生き物なのだと思っていたくらいだ。
「この目にあんな力さえなかったら・・・・・・」
誕生日の夜、この訳の分からない『力』が男性を狂わせるという奇怪な事件を起こしたのだ。目の合った男性全員が一週間以上もリリアンヌの名を呼びながら意識をさまよわせたと聞いた時は、ぞっとして言葉にならなかった。今までそんな予兆はなかったし、自分がそうしたくてそうしたわけではない。それでも外聞は随分悪かったし、リリアンヌ自身何が起こったのか分からず何も弁明することが出来なかった。
気付けば王妃が「男性が怖いのなら」と一方的にこの北の離宮を改築してリリアンヌを住まわせた。それからもう二年も経つのかと思うと、この環境に耐えてきた自分自身が不思議だった。
――ずっと、誰かに連れ出して欲しかった
きっと、自分は『誰か』を待っていたのだろう。自分を自由にしてくれる至極都合の良い『誰か』。だってその『誰か』は、顔も姿も見せないリリアンヌを連れ出しても何の利益もないのだから。
「もう少しだけ夢をみていたかった・・・・・・」
オーウェンの優しい声を聞くのが好きだった。そして、多分縁談を受ける気はないのだろう彼の少し距離を置いた優しさに胸が苦しくなることもあった。どんなに恋焦がれても一緒にはなれない相手だと分かっていたのに。
「好きになってはだめ・・・・・・大丈夫、すぐに忘れられるもの」
そう言い聞かせて、枕に顔を埋めた。
今まで自分の希望が叶ったことは一度もない。いつも誰かの『一番いいこと』に沿って行動してきた。母の願いを全うし、父と王妃の思いを考え。そして今、未来の王たる弟・オレリアンの命を守るため、そして国民の為にこの離宮を単身で出ようとしている。もう『誰か』を待つのはやめる。
――リガルド卿を巻き込んではだめ。この問題は、罪は・・・・・・原因を作った私が償うべきもの。
思考が暗く、冷たい水底に沈んでいく。
リリアンヌは思考の海に囚われたまま、うとうととまぶたを閉じようとし始めた時だった。
「うわあああああっ!」
夢へと足を踏み入れかけていた思考が男性の叫び声で一気に現実に引き戻された。
「な、何・・・・・・!?」
慌てて上体を起こすが、いつもならこんな時すぐに駆けつけてくるルネやセリーヌは姿を現さない。不安に思いつつ扉に手を掛けると、ある異変に気付いた。
「この臭いは何かしら、焦げ臭い感じ・・・・・・っ!えっ、煙!?」
扉の隙間から、黒い煙が部屋へ流れ込んできた。開きかけていた扉を慌てて閉めると、人一人通れないようなはめ殺しの窓から外を見た。
「なに、これ・・・・・・!」
宵闇に包まれていたはずの空が、赤く染まっていた。眼下には逃げ惑う人々。
リリアンヌはこの時やっと悟った。自分が住まうこの北の離宮が燃えているのだと。
「どうしましょう、ここからどうやって出れば・・・・・・!」
数センチ扉を開けただけであれだけの量の煙が来たと言うことは、もう火の手が近いのだろう。
一体何故?こんなに燃え広がるまで誰も気がつかなかったの?一体誰が――。
混乱した頭を落ち着かせようと、リリアンヌはドレッサーに置いてあった宝石箱を抱きしめた。
できるだけ窓の方に身を寄せたが、目と鼻の先にある扉の隙間からはどんどん黒煙が流入してきていた。死を予感させるような真っ黒な煙は瞬く間に部屋に充満していく。木製の扉に火が移るのも時間の問題だろう。
「たす、けて・・・・・・」
次第に苦しくなっていく呼吸。リリアンヌは意識が遠のいていくのを感じながら、必死に宝石箱を掻き抱いた。
北の離宮の下まで来ると、見慣れた第一旅隊が避難と救護に当たっているのが見えた。離宮を囲むようにして消火活動をしているのは第二旅隊だ。オーウェンの姿を見留めると、各旅隊長が報告に走ってきた。
「報告します。現在傷病者十六名、重軽傷の差はありますが命に別状はありません。しかし話によると王女殿下と、王女殿下を探しに行った使用人二名がまだ中に居ると」
第一旅隊長が報告し終えると、第二旅隊長が次に口を開く。
「第二旅隊は現在城の使用人達にも呼びかけ消火に当たっています。しかし石造りで窓の少ないこの北の離宮では上手く水が届かず鎮火しません」
「風も出てきているようだな」
離宮が竈、小さな窓が鞴の役割を果たしてしまい、中の炎は大きくなるばかりだろう。
第二旅隊が城の使用人や近衛と協力して消火を試みているのが見えるが、効果は薄いようだ。
「第一旅隊はこのまま引き続き避難と救護に当たるように。第二旅隊は一階の大扉を開放してそこから順に消火する!人員の配置は第二旅隊長に任せる。倒壊に注意しろ。人命を最優先、絶対に誰一人死なせるな!」
「了解!」
各旅隊長はオーウェンの一声に気迫のこもった敬礼をした後、すぐさま各持ち場に戻っていった。
オーウェンが次にアベルに指示を出そうと口を開き掛けた瞬間、救護を行っている第一旅隊の方から声が上がった。
「無礼だぞ!私はリリアンヌ王女を助けようとしたんだ!私が疑われるいわれはない!」
声を張り上げる男の声に聞き覚えがあった。走って近づいてみると、近くに真っ青になり震える従者の姿も見える。声の主はマーティン・ボイル侯爵。いつも隙のない煌びやかな装飾を身に纏っている彼だが、今日はどこもかしこもすすけたり袖がぼろぼろに焦げているようだった。
「この火傷を見ろ!必死に王女を助けようとしたが間に合わなかったんだ!王女が私に心を開いて離宮に招いてくれたというのに・・・・・・!」
内容に引っかかりを覚えたオーウェンは「何があった」と困り顔で対応する旅隊員に尋ねる。
旅隊員は咄嗟に敬礼した後、助けを求めるように答えた。
「は!我々がここに到着した際、離宮の者以外でこの場にいらっしゃったのがボイル侯爵でしたので、手当と共に状況を確認していたのですが・・・・・・」
「私は被害者だ!王女に招かれて離宮に来たが、急に火事が起こった。私は火事に関係ない!」
「はあ・・・・・・」
こんな調子で、と途方に暮れる隊員。彼の肩を叩いてオーウェンは進み出る。
「落ち着いて下さい、ボイル侯爵。火傷は隊員に手当をさせて下さい。早めの処置であれば治りも良い。今回は王女殿下に招かれてこられたと・・・・・・では、やはり王女はまだ中にいらっしゃるのですね」
「あ、ああ。最上階の寝室にいらっしゃるだろう。きっともう逃げ場もなくなって・・・・・・お労しい」
ボイルが無念そうに顔をしかめるのを、オーウェンは冷たい氷のような眼で見つめた。顔を上げてそれに気がついたボイルは背筋をぞっとさせた。後ろでボイルの従者の肩が大きく揺れる。
「・・・・・・まだ命を落とされたと決まったわけではありませんよ。失礼」
怒気をはらんだ声で告げると、オーウェンはすぐにその場を後にする。するとその背中をボイルの従者が鋭い目つきで睨むのをアベルは見逃さなかった。一拍遅れて動き出したアベルは、従者に目線を合わせ一言尋ねた。
「従者殿。顔色がたいそう悪いようですが、どこかお怪我でも?」
「ひっ・・・・・・い、いえ・・・・・・!」
「おい!」
ひどい怯えようを見せた従者をボイルが慌ててたしなめる。
――さっきの視線は気のせいか?
アベルはその様子を一瞥すると肩をすくめ、オーウェンを追いかけるため駆けだした。
「オーウェン様!」
燃える離宮の傍まで来ていたオーウェンを、アベルが慌てたように呼び止めた。
「隊員に侯爵達の見張りを指示しました。あの従者、少し注意しておいた方が良いかと。・・・・・・私にこの後の指示を」
少し心配そうな表情でこちらを見てくる彼にオーウェンは少し口角を上げて見せた。
「お前にはこの場の指揮と、第二旅隊の精鋭数名を連れて離宮の一、二階を捜索を任せる。多分使用人二人は王女殿下付きの侍女と女騎士だろう。俺は王女殿下の部屋に行ってくる」
そう告げると同時に、オーウェンは手近にあったバケツの水を頭から浴びた。
「待って下さい、せめて私が供を!」
「命令だ、アベル」
「その命令だけは聞けません!」
頑なに反発するアベル。副官のアベルにとって最優先事項はオーウェンの命を守ることだ。
しかしそれが分かっていてなお、オーウェンはアベルを連れて行くことが出来なかった。
「お前はこの塔の上まで登ったことがないだろう。炎で様変わりした慣れない場所に行くのは危険だ。この場で迷わず王女の所に行けるのは俺だけだ」
アベルは何か言葉を探しているようだったが、声にはならず俯く。
お前を信用しているから頼むことだ――その言葉を聞いて、アベルはどこかこらえるように下唇を噛んだ。
物わかりの良い冷静な従者であろうとするアベルの、少し幼い我慢した素の表情。本当は情に厚く人一倍突っ走る性格のアベルは、今にもオーウェンと共に駆け出したかったのだろう。
「――あーもう!分かりましたよ!でもオーウェン様がお怪我をされて怒られるのは俺なんですからね!必ず無事にお帰りになると約束して下さいよっ」
言いながら、アベルはぐっしょりと濡れた騎士用のコートを差し出した。
「お持ち下さい!」
半ば投げやりに腕を突き出してくるアベルを、オーウェンは珍しいものを見たような心境でしばし呆然と見つめた。しかしそれも一瞬で、オーウェンはすぐさま顔を引き締める。
「お前は本当に話が早くて助かる」
本国に居る第一師団長が今回の従者であったなら何が何でも止めただろう。心底彼が今回同行していなくて良かったと思うオーウェンだった。
「・・・・・・二名の使用人を救助し次第早急に応援に向かいます」
「ああ」
短く答えると、オーウェンは誰よりも早く駆けだした。オーウェンの存在に気付いたイシュトシュタインの衛兵が止めようと駆けてくるが、それらも引き離しオーウェンは炎の巣窟と化した北の離宮へ飛び込んだ。
水分を多く含み重たくなったコートを被りながら、まだ無事に残っていた脇の連絡通路を見つけ入り込む。身の安全のためいつでも離宮から脱出できるよう一度調査していたことがこんな事に役に立つとは。離宮の構造を頭に思い浮かべながら、上階へ続く階段の場所を目指す。正面階段は既に火の海であったため、側階段を思い出して方向を決める。
リリアンヌが居るだろうと思われる彼女の部屋は、この塔の最上階だ。五階の最奥、元は宝物庫だったと聞く。風の通りも悪く最上階と来れば、もうこの時点で呼吸を害する煙が充満していてもおかしくはない。
「無事で居てくれ・・・・・・!」
自分でも驚くほど、オーウェンはなりふり構わず必死に炎の中を駆けた。オーウェンを突き動かしていたのは、騎士としての使命感ではなく、ただあの王女を救いたいという一心だった。
顔も姿も見せない、自らも相手を見ない不思議な王女。それでいて、もっと花や日だまりが似合うような優しい心を持っている。女性が苦手なオーウェンでも気さくに話せるような人柄は彼女の良心によるものだ。そして引きこもっているはずであるのに国交や国の政治についても聡明なリリアンヌ。そんな彼女が、急に王族籍を返還し城を出て行こうとしたことはにわかに信じがたいことだった。彼女が完全に継承権を手放せば、彼女を押す貴族達が黙っていないからだ。無駄な国内の混乱を招かないためにも、彼女はあの離宮に閉じこもることをよしとしているのだと思っていた。その考えを覆すような事情が彼女に生まれたとしたら。――それが一体何なのか、彼女と出会って日が浅いオーウェンには想像が付かない。ただ、この火事と無関係ではないような気がした。
途中何度も炎に包まれた柱が倒れてきて行く手を阻み、或いは頭上から崩れた木片が落ちてくることもあった。頭を庇うせいで腕や背中にいくつもやけどや傷を負いながらも、オーウェンは走り続けた。
やっと五階の王女の部屋に辿り着いた時には、もう彼女の寝室の扉にまで火の手が伸びていた。その光景を見た途端心臓が止まるような思いがした。
王女は無事なのだろうか。もし気が動転して部屋の外に出ていたら?
そんな嫌な予感に冷や汗が流れるのをこめかみに感じながらオーウェンは炎の中をくぐり抜け、燃えさかる扉を蹴破った。
「王女!!」
叫びながら踏み込んだ室内は、まだ火は広がっていなかった。しかし黒煙が充満し、視界がすこぶる悪い。屈んで姿勢を低くしながら目をこらすと、窓付近にうずくまる人影が見えた。
慌てて近寄ると、美しい豊かな金髪の女性が横たわっていた。透き通るような白磁の肌は赤く火照って居たが、呼吸は浅かった。意識はない。
「まずい、肌が赤い。煙で中毒を起こしている・・・・・・」
手ぬぐいを取り出すと、オーウェンは女性の口元を塞がないように注意しながらそっと覆った。これ以上煙を吸わせないためだ。
「この方が、リリアンヌ王女・・・・・・?」
肖像画でみた女性は、まだ少女の顔立ちだった。目の前の女性はそれよりは大人びて見える。ただとびきり美しいという点では肖像画と共通していた。判断しかねていたオーウェンは、ふと女性が抱えている箱を見つけた。それは紛れもなく、自分が王女に贈った宝石箱だった。
「こんな大変な時に、これをずっと持っていて下さったのか・・・・・・」
恥ずかしいようなくすぐったいような思いに駆られたオーウェンだったが、すぐにそんな悠長なことを言っていられないことを思い出す。
「王女。リリアンヌ王女!分かりますか!」
必死に呼びかけるがなかなか反応がない。しかし何度か揺さぶって声をかけると、リリアンヌは長い睫毛をふるりと震わせながらゆっくりと目を開けた。美しい深蒼の瞳がおぼろげにオーウェンの姿を捉えた。美しい、引き込まれそうな瞳だと思った。
「あ・・・・・・」
「気付きましたか、王女」
「あ、なた、は・・・・・・ごほごほっ!」
煙を多く吸い込んでしまったのだろう、話し出した途端リリアンヌは大きく咳き込んだ。涙を浮かべるほど咳き込むリリアンヌの背中を撫でてやりながら再度手ぬぐいを渡して口に当てるよう指示する。
「申し遅れました。自分はオーウェン・リガルドです。そのお声は間違いなくリリアンヌ王女ですね。ここももう危ない、自分と一緒に――」
顔色を確認するために顔をのぞき込みながら話すと、リリアンヌははっとしたように顔を背けた。
「みっ、見ないで、くださ・・・・・・!ごほっ」
「えっ――」
「私の目・・・・・・見ては・・・・・・だめ!」
必死に顔を隠そうとするリリアンヌ。そこでオーウェンは王女がずっと今まで顔を隠してきたことを思い出した。
「申し訳ありません、軽率でした。とりあえずここはもう出ましょう。これを被って」
顔を隠す理由は聞かず、オーウェンは今まで自分が被っていたコートをリリアンヌに被せる。しかしそれで露わになったオーウェンの腕や背中を見てリリアンヌは悲鳴を上げた。
「リガルド卿!その、怪我はっ・・・・・・」
「ああ、この程度たいしたことはありませんよ。慣れていますから――」
それより早く、とリリアンヌに手を伸ばすと、リリアンヌは何故か身を引いた。
「王女殿下?」
「駄目です・・・・・・私を連れて行けば、足手、まといに・・・・・・ごほごほっ」
いやいやと必死に頭をふるリリアンヌ。おそらくオーウェンの怪我を見て、自分が付いていけばさらにオーウェンが危ないと思ったのだろう。
「貴女はここで死ぬべき人ではないでしょう。王も民も、貴女の無事を祈っています。私は大丈夫ですから、さぁ!」
そう強く告げるが、リリアンヌは首を縦には振らなかった。
「誰も・・・・・・悲しま、ない」
その一言にはオーウェンも目を丸くした。頼りない華奢な肩。第一王位継承者という肩書きを背負いながら、母を亡くし離宮へ追いやられた孤高の王女。王族籍まで返還し、一人で何かを成し遂げようとする強き王女は、実際は目の前に居るこんなにも儚い少女だという。イシュトシュタインに来た夜に聞いた拠り所のない悲しい旋律が脳裏によぎった。
「――」
そこからは、考えるよりも身体が動いていた。
「きゃっ!」
オーウェンの行動にリリアンヌは相当驚いたに違いない。オーウェンは何も言わずリリアンヌを抱き上げ、元来た道を走り出したからだ。リリアンヌは慌てて宝石箱を抱え直しながら目を白黒させた。
「リガルド卿、やめ――」
「悲しむ!」
「えっ・・・・・・」
オーウェンは絞り出すような声で訴えた。流石に人一人を抱え酸素の薄い炎の中を駆け抜けるのはきついものがあった。しかしそれでもオーウェンは彼女に訴えることをやめなかった。
「貴女が死んだら、俺が悲しむ!だから生きろ!」
語尾はほとんどかすれてしまって、彼女の耳に届いたのかは分からない。しかしリリアンヌは目に涙を浮かべた後、しっかりとオーウェンの肩に手を回してきた。
「ごめんなさい・・・・・・オーウェン、さま・・・・・・」
か細い泣き声と共に聞こえた謝罪。オーウェンは抱く手の力を強くすることで応えとし、倒れてきたり落ちてきたりする火だるまの柱を避けながら出口を目指した。
「ホルガー、ヨハン!見つかったか!」
炎でほとんどが焼失してしまっている離宮の一階。アベルは精鋭二人を連れ、王女を探しに飛び込んでしまったのだろう侍女のセリーヌと騎士のルネを探していた。大きな木製の家具が倒れてきたり、充満する煙に動きを鈍らせてしまう中、懸命に捜索に当たっていた。
「こちらにはいません!二階でしょうか?」
一階の奥の廊下を見に行ったホルガ―がそう報告する。続いてヨハンが大きく腕を振って合図をした。
「大階段の下にドレスの裾とマントが落ちています!燃え移るのを防ぐのに置いていったのではないかと!」
「よし、大階段を上って二階を捜索する。ホルガ―、お前は退路を確保していてくれ」
「了解!」
アベルは火だるまになった火の塊を飛び越えヨハンを伴い二階へ駆け上がった。
体中やけどや傷が痛んだがそれどころではない。二人を助け出し、すぐにオーウェンの元に向かわなければならないのだから。
大階段を上がりきると、二人はすぐに見つかった。二人は折り重なるようにして、柱の陰にうずくまっていた。
「王女殿下付き侍女のセリーヌ・ベルトンと騎士のルネ・バシェレリーだな!」
アベルがほっとして駆け寄ると、力を振り絞るようにしてルネが顔を上げた。ルネはセリーヌを抱えるようにしてうずくまっていたようだ。
「よく頑張ったな!」
アベルが声をかけると、ルネが泣きそうな顔を上げ、ほっとしたように目元を緩める。しかし次の瞬間には表情が凍り付き、かすれた声で呟いた。
「ひ、め・・・・・・さまが、まだっ・・・・・・!」
悲痛な表情で告げるルネに、アベルは笑って見せた。
「大丈夫だ、今オーウェン様が王女殿下の部屋へ向かわれている。自分たちは貴女方を助けに来たんだ。さぁ、早く!」
セリーヌは気を失っているようだったが呼吸はしていた。ルネが体力のないセリーヌを守っていたのだろう。ヨハンにセリーヌを任せ、アベルはルネを助け起こした。
「申し訳ない・・・・・・姫様を・・・・・・リガルド卿も・・・・・・」
譫言の様に呟くルネ。アベルは彼女の気持ちが痛いほど分かった。守るべき主人を守れなかったこと、他国の人間に頼ってしまったこと。王女をずっと守ってきたルネにとって、とても悔しく辛い心境であろうことが察せられた。
ルネの肩を支える手の力を少し強めて、励ますように出口へ誘導した。
「大丈夫だ。オーウェン様を信じろ」
力強く告げると、ルネは小さく笑って頷いた。
ルネとセリーヌを救出し離宮の外に出たアベルは、離宮の炎が更に勢いを増していることに気がつき急いで離宮を離れた。
「アベル副官!ご無事でしたか!」
「ああ、この二人を頼む。大分煙を吸っている」
アベルは救護に当たっている第一旅隊に預け、消火活動を続ける第二旅隊へと走った。
「オーウェン様は戻られたのか!?」
「いえ!まだお姿が見えません!最上階にも先ほど火が燃え移って・・・・・・」
必死の消火活動もむなしく、離宮の炎は煌々と燃え広がっていく。あたりの静けさを打ち破るような轟音を響かせながら。
「オーウェン様・・・・・・!」
やはり自分も行くべきだった。無理だと思った時点で止めるべきだったのだ――。
考えれば考えるほど後悔と自分を責める言葉しか出てこない。踏み込んで探しに行くか、しかし現場の指揮を投げ出すことも出来ない。頭を抱えていると、第二旅隊長が駆け寄ってきた。
「アベル副官、先ほど離宮の五階に人影が見えました。オーウェン様は最上階まで辿り着かれたのだと思われます」
「本当か!」
「はい。・・・・・・きっと大丈夫です。オーウェン様は、今までも我々を信じて背中を託され、我々と共に死地をくぐり抜けてきたお方ですから」
オーウェンよりも、アベルよりも年長者である第二旅隊長は、炎に包まれた離宮を見ながら確信するように言った。それは、アベルにしっかりしろと励ましているようにも聞こえた。
オーウェンは部下との約束を違えない。身分を隠して騎士団に入団したオーウェン。しかし元首の息子だと分かった途端周囲の反応は冷ややかになった。それでも彼は誠意と努力に裏打ちされた実力によって今の騎士副団長の座を勝ち取ったのだ。こんなところで死ぬような男ではない。ずっと彼の背中を追ってきた自分が、何故主たる彼を信じないのか。
アベルは自分を叱咤して顔を上げた。
「第一旅隊!王宮の医者も呼んで早急に負傷者に手当を。もうすぐ王女とオーウェン様がいらっしゃる、手当の準備を整えろ!」
「了解!」
消火活動は続いている。何か出来ることはないか。そう考え離宮に目をこらしていると、不意に三階のバルコニーに、大きな破裂音とガラスが割れる音と共に、煙に包まれながら出てくる人影を見た気がした。
その瞬間、アベルは叫んだ。
「――第二旅隊、消火の後衛に入っている者は騎士団の荷から丈夫で大きな布を持ってこい!」
「丈夫な布、ですか!?」
何故、と目で問う部下達にアベルは指を差す。
「三階のバルコニーを見ろ!」
一斉に三階バルコニーへ視線が集まる。そして歓喜の声が上がった瞬間、リガルド国の精鋭旅隊は動き出した。
「く、・・・・・・っ」
リリアンヌを抱えてやっと三階まで下りてきたオーウェンだったが、二階へと降りる階段はことごとく火の海となっていた。通路も倒れた柱などで塞がれ退路が断たれていた。
勢いを増す炎を避けながら、やっとの思いで三階の広間に駆け込んだ。
「確か、ここにバルコニーが・・・・・・」
黒煙の充満する室内を見回し窓を探す。すると腕の中のリリアンヌがか細い声で告げた。
「この奥・・・・・・右から3番目」
指を差す方向を見やると、かすかに窓の並ぶ壁が見えた。
「王女・・・・・・」
「私も、生きたい。あなたが、望んで・・・・・・くれたから・・・・・・」
オーウェンの肩口に顔を埋めているリリアンヌの表情は見えなかったが、その言葉は彼女の本心だと思った。
「絶対に・・・・・・絶対に助けます」
彼女を抱く腕に力を込め、示された方向へ真っ直ぐ駆けだした。
黒煙の中にうっすらと大きな窓が見えてくる。オーウェンの眼が窓の輪郭を捉えたと同時に、背後の大扉がガタガタと大きな音を立て始めた。火が燃え移り、勢いを増しているのだろう。リリアンヌの肩が驚きと不安に震えているのが分かる。
「王女、このまま窓を突き破ります。しっかり掴まって!」
「はいっ・・・・・・!」
背後の扉が大きな破裂音を伴って火を噴くと同時に、オーウェンは窓に身体ごとぶつかり突き破った。




