王女の素顔
「――おや、これはこれはリガルド国の副騎士団長様じゃないですか」
翌日。中庭に面した大きな回廊を通り姫君の所へ案内される途中、煌びやかな装飾を身に付けた男とその取り巻きに出くわした。
「ウェルタルジア国のジェラルド殿下でしたか。お久しゅうございます」
「もしかして君も姫君の?」
「ええ」
そう答えると、ジェラルドは鼻であざ笑った。
「君が、あの絶世の美女と噂される姫君とかい?僕なんかはもうこの縁談は3回目だけれどね、姫君は花のかんばせをまだ一度も見せて下さらない。それが君と・・・・・・ねぇ。うーん、国王陛下ももっと相手をお選びになった方が良いと思うけれど」
嫌みったらしく腕を組む様子にオーウェンの従者であるアベルが怒って一歩踏み出したが、オーウェンはすっとそれを制した。
「国王陛下もお考えがあってのことだろう。今の発言は陛下に対し不敬に当たるのでは」
「なっ!僕は――」
「では、先を急ぎますのでこれで失礼」
一言告げると、オーウェンはその場を後にした。
実は、この前にもあと二名、同じように姫君の最後の候補者が偶然を装ってオーウェンに話しかけてきた。そのどれもが軍事国の嫡子に過ぎないオーウェンを馬鹿にした様子で、お前には無理だと告げるものばかりだった。
「……姫君はずっと、あんな者達の相手をされてきたのか」
それだけで心が痛む。
「これで縁談者は全員顔を合わせたことになるのか」
「いえ。最有力候補のマーティン・ボイル侯爵がまだです。イシュトシュタインの上級貴族で、王妃からの信頼も厚いとか」
「まだいるのか・・・・・・」
げんなりしながらもオーウェン達はどんどん人気のない方へと進み、やがて狭い螺旋階段に辿り着いた。
するとすっと目の前にやってきた陰があった。黒い細身の騎士服を着込んだ少年。腰には細剣を帯びている。
「――いや。女性か」
「そのようですね」
アベルも同じ事を考えていたのか、こくりと頷く。よく見ると線が細く、男装している女性であると分かる。とても美しく中性的な容姿をしていて、一見すれば少年でも通るだろう。
「君は?」
声を掛けると、男装の麗人は恭しく礼をとった。
「ようこそいらっしゃいました、オーウェン・リガルド様。私は王女殿下に仕える直属の騎士、ルネ・バシェレリーと申します。ここから先は許された男性以外は立ち入りを禁止されております。従者の方はこちらの控え室でお待ち下さい。剣は預けられますよう」
「なっ!オーウェン様は一国の副騎士団長、並びにリガルド国元首の嫡子であるお方だ!従者も付けず、剣も携行できないなど・・・・・・」
アベルの抗議に対し、女騎士はひるむ様子も無く淡々と答える。
「オーウェン・リガルド様は私が命に代えてもお守りいたします。しかしこの塔は第一王位継承者リリアンヌ・L・イシュトシュタイン王女殿下の管理する塔。姫君の御身を守るため、そして男子禁制の理を違えることは出来ません」
「しかし!」
ここに来てからと言うもの主に対するあまりの扱いに堪忍袋の緒が切れたのか、アベルは身を乗り出す。しかしここでもオーウェンはアベルを制止した。
目配せすると一度否定する様子を見せたアベルだったが、オーウェンが落ち着いた表情で頷き剣を差し出すと、気持ちを切り替え剣を両手で受け取った。
「何かあればいつもの合図をする。ここで待機するように」
「イエス・サー」
機敏に敬礼を返したアベルはそのままオーウェンの後ろに控えた。
「すまない、こちらの者はここに来るまでに少し気が立っていたんだ。こちらの規則を侵す気はない。これで良いだろうか」
「いえ、こちらこそ非礼をお許し下さい」
ではこちらに、と促す女騎士の背を追うようにしてオーウェンは歩き出した。
王宮から少し離れた南の離宮。周囲の庭は南の庭園らしく整備されているが、塔自体はやや陰鬱としている。
「こちらに王女殿下が?」
「はい」
「・・・・・・君は、女性でありながら王女殿下の従者なのか」
「はい。殿下は男性の立ち入りを固く禁じておりますので、私だけでなくここ南の塔で従事する使用人は全て女です」
オーウェンの疑問を見透かしたかのように質問以上の答えを返した女騎士。しかしそれはオーウェンがこの塔に入ってから気になっていたことだった。
侍女はもちろん、衛兵までもが女性だったのだ。オーウェンは今までほとんど男に囲まれて生活してきたため、女性というものにどこか苦手意識があった。異国の地で女性だけという異様な雰囲気に呑まれそうになりながらも、オーウェンは外交と割り切り歩を進めた。
「リガルド卿、こちらでございます」
そこは、その昔宝物庫として使用されていたそうだ。それを姫のために改装し、今ではごく普通の部屋となっているらしい。しかし扉の作りは重厚で、とても私室には見えなかった。
「失礼します、リリアンヌ様。オーウェン・リガルド卿がお見えです」
「――――お通しして」
案内の者が目配せをし、オーウェンは頷く。
――――あの歌声はやはり、彼女だ
鈴を転がしたような澄んだ声、しかしどこか震えている。男性恐怖症は未だ治っていないのだろうか。
「失礼します」
オーウェンは、できるだけ穏やかな声を掛け入室した。
「お初にお目にかかります、王女殿下。私はリガルド国元首の息子、副騎士団長を務めておりますオーウェン・リガルドという者です」
「――――リリアンヌ・L・イシュトシュタインです」
侍女がお茶を入れてくれ、二人は静かに口を付けた。
といっても、ついたての向こうで彼女がいつカップに口を付けたかなど知る術も無いが。
繊細なティーカップはイシュトシュタインらしい作りでとても華奢だ。美しく質の良い品であることから、王女は経済的に縛られているわけではないのが窺えた。
しかし部屋は存外広くは無く、応接セットが2つ入れば一杯になってしまうような広さだった。続きの部屋があるようだが、おそらく寝室だろう。元は宝物庫であったためか窓ははめ殺しで小さい。ランプの光が無ければ部屋はさぞ暗いことだろう。
今は部屋に吊されたいくつものランプが室内を照らしているが、夜のような錯覚を覚えてしまう。
姫君は全く話さなかった。もしかしたらもうついたての向こうに居ないのではとも思ったが、気配はあり衣擦れの音や陶磁器がぶつかる高い音も時折聞こえかろうじて存在を確認できていた。ついたての近く、おそらく姫君とオーウェンのどちらもを見ることが出来る位置には先ほどの女騎士が控えている。気を遣って給仕をしてくれる侍女に礼を言いつつ、オーウェンは再度紅茶に口を付けた。
特段彼女の絶世の美女と噂される容姿も地位も興味が無かったので、そのついたてから向こうに行こうという気は全く起きなかった。
「この紅茶、香りがとても良いのですね。この国の原産ですか?」
「え……ええ」
リリアンヌの声が少し戸惑いに震えている。縁談相手の自分が、今までの縁談者のようにご機嫌伺いをしてこないことに驚いているのだろうか。
「この種類の紅茶は始めて飲んだもので」
付け足すと、少し間を置いてから返事があった。
「この茶葉は私のお気に入りで、ここから南に少し行った所にあるムスカという地域で栽培されているのです。お気に召しましたか?」
「ええ。妹がイシュトシュタイン産の紅茶をよく好んで飲んでいまして。土産に買って帰ろうと思います」
「ふふ。仲がよろしいのですね」
「わがままで困らせられるばかりですがね」
「――――この茶葉は市場での流通が少ないのです。お持ち帰り頂けるよう、包ませますわ」
姫がくすりと笑う声が聞こえて、オーウェンは驚くとともに嬉しくなった。
「お気遣い有り難うございます」
それから、二人は緊張を解きぽつぽつとたわいもない話をした。
とくに雪の降らないイシュトシュタイン国では雪の話が珍しいらしく、姫君は楽しそうに話を聞いていた。
「雪が多く外にあまり出ないわが国では、家の中を装飾することに力を入れる傾向にあるのです」
「それは、たとえばどんな?」
「そうですね・・・・・・例えば家具でしょうか。一流の職人が芸術品のような家具を作り、貴族達はこぞって買い求めます。セットで持つとさらに価値が増すので、職人を抱え込んだりすることもありますね。調度品が同じ作風で揃うので、部屋の中が統一されて美しいですよ」
「素敵です!他には?」
「あまり花も育ちませんから、鮮やかな布地でパッチワークした絵画や、美しく繊細な刺繍の施されたカーテンや絨毯も特徴的ですね。シャンデリアもガラス職人の腕が良く、他国からは星が降ってくるようだと言われます」
「リガルド国は騎士団が愚王を打ち倒した逸話が印象的ですけれど、元々は職人の息づく国だと聞きます。厳しい寒さの中で、人々が努力された結果なのでしょうね」
「そう言って頂けると嬉しいです」
オーウェンの話に、リリアンヌは楽しそうに相づちを打つ。オーウェン自身気の利いた話しをするのは苦手だが、外交で国を紹介する時に使う文句くらいは心得ている。姫君の容姿やドレスを褒めるより自国のアピールを楽しそうに聞いてくれるのは有り難かった。
オーウェンは、最初のか細い声で話していたリリアンヌがこんなに人懐こく明るく話すのを聞いて少し驚いていた。こんな暗く寂しい部屋で籠もるのでは無く、輝く陽のもと草花に囲まれて微笑んでいる方が似合っているような印象を受けたからだ。
そして意外だったのは彼女の見識の高さだった。もう三年はこの北の離宮に引きこもっていると聞いていたのだが、彼女は国交や政治に関心が高く、オーウェンの話にも熱心に耳を傾けていた。女性が好むような話を全く用意できていなかったオーウェンは、この点でも幾分彼女に助けられたと言っていい。そして民を思う心や、王族としての誇りを持っているリリアンヌにオーウェンはただただ感心するばかりだった。口数の多い方ではないオーウェンも、この時ばかりは少々饒舌だった。ひとしきり盛り上がった後、二人は侍女が持ってきた菓子を口にしながら一息ついた。会話がなくなっても居心地が悪くないのは、きっとお互いをよく知ることが出来た証だろう。
そして心地よい沈黙をゆっくりと破ったのは、意外にもリリアンヌだった。
「・・・・・・私、他の国へ行ったことがないのです。16歳の誕生日の日からは、この城から一歩も・・・・・・」
リリアンヌが自嘲的に笑うのが聞こえた。
「このような年なって、外交の1つも出来ない第一王女だなんて聞いたことがありませんよね。でも、私にはこの国と民が全てです。外の世界を何も知らないから。知っているのはこの国のことだけ。オーウェン様、外の世界からこの国はどのように見えますか?」
リリアンヌの声音が自嘲的なものから凛としたものに変わる。探るような、それでいて縋るような。
「どう、とは?」
「・・・・・・こんな私でも、この国の平和を守りたいと願っています。出来ることなら何でもしたいのです」
その言葉にオーウェンは目を丸くする。返す言葉を、一瞬迷う。
――彼女は、俺がこの国に来た本当の目的に気付いている?
不意を突かれた衝撃に緊張を滲ませると、リリアンヌは少し間を置いて口を開いた。
「もし滞在中、お困りのことがあればお話し下さい。公の場には立てませんが」
「何故、そこまでの思いを持ちながら・・・・・・」
「・・・・・・私はどなたにもこの顔をお見せすることは出来ないのです。それがたとえ私の伴侶となる方であっても。私はこの国を守る力がないのですわ」
思わず呟やいた一言を、リリアンヌは拾って答えを告げる。しかしそれは、どこかやりきれなさを伴っていた。
「そうおっしゃる理由は何なのでしょう?」
悲しいつぶやきにオーウェンが尋ねると、リリアンヌは少し間を置いてから、答えた。
「――――狂わせてしまうから、ですわ」
その言葉を、オーウェンは上手く咀嚼できず、沈黙で続きを促した。すると、小さく身じろぎするリリアンヌの衣擦れの音が室内に響いた。
「私は、誰かを愛することも、愛されることもできないのです」
そう話す彼女の言葉は、悲しみと諦めに満ちていた。
ドロシーやアベルの話を思い出したのは、それから随分と後だった。
オーウェンは、再び女騎士に連れられて孤塔を後にした。
『また、いらしてくださいますか?』
控えめに、リリアンヌは最後に声を掛けてきた。その言葉が嬉しくて、オーウェンは「必ず」と即座に答えた。その様子に、リリアンヌはころころと鈴を転がすような声で笑っていた。
リリアンヌの部屋を辞し女騎士・ルネの案内で離宮の入り口へと戻ると、アベルがほっとした表情でオーウェンを出迎えた。
「お帰りなさいませ、オーウェン様。王女殿下とのお茶会はいかがでしたか?」
「ああ、気さくで話しやすい方だった」
そうですか、と意外そうな顔で相づちを打ちながらアベルはオーウェンの剣を差し出す。それを受け取りながらこの後の予定を伝えていると、ふと後ろに控えていた女騎士が小さく話し出した。
「・・・・・・有り難うございます、リガルド卿」
「何がだ?」
女騎士が礼を言ってくるので首を傾げていると、彼女は目に涙を浮かべていた。
「ど、どうしたんだよおまえ!何で泣いてるんだ!?」
アベルが慌てふためいて、とりあえず懐を探り手ぬぐいを見つけ差し出す。ん、と突き出す様はまるで子どものようだったが、アベルには精一杯の気遣いだったのだろう。
しかし当のオーウェンとて女性は苦手である。女性に慣れていない男二人が気の利いた言葉をかけられるはずもなく困っていると、女騎士は涙を拭いながらぽつりぽつりと話し始めた。
「今まで姫様にご案内した方の中で、貴方様だけでございました。姫様に顔を見せることを要求せず、話を聞き、姫様を笑顔にして下さったのは」
「・・・・・・そう、か」
オーウェンは何もしていない。ただ、話しただけだ。オーウェンにとって容姿は特別価値を持つものではない。今回の縁談で、オーウェンは初めから姫君の顔を見たいとは思っていなかった。美しいものには確かに心惹かれる。しかしそれを手に入れたいとも、どうにかしようとも思わないのだ。ましてや相手が嫌がっていることを無理強いするつもりもない。
「姫様も、貴方様に心をお開きになった様子。また来て欲しいと、ご自分の望みを口にしたのも初めてでございます」
ついに零れた涙は、もはやその堰を崩壊させる。姫様、と呼ぶ親しげな響きから、この女騎士はリリアンヌと付き合いが長いのだろう。
「有り難うございます・・・・・・!どうか姫様をお救いくださいませ!」
えぐえぐと嗚咽し始めた女騎士をアベルと共に戸惑いつつなだめながら、オーウェンは頷いた。
それからというもの、他の縁談者との兼ね合いもあり毎日とはいかなかったが、オーウェンはあまり日を空けずリリアンヌの元を訪ねた。アベルも快くオーウェンを送り出してくれるようになり、初めて会話した日から2週間が経っていた。
そして今日もリリアンヌとの茶会に招かれたオーウェンは、離宮へ向かう回廊をアベルと共に歩いていた。すると正面から怒ったようなカツカツと高い足音。何事かと見てみると、惜しげも無く着飾った縁談者怒り心頭の様子で歩いてくる所が見えた。
「オーウェン様、縁談者のマーティン・ボイル侯爵です」
「ああ」
マーティン・ボイル。イシュトシュタイン国の侯爵位を持つ男で、自分磨きに余念が無い男だ。さらにボイル家は王妃と血縁のある名家である。年齢は姫君の一回り以上上だと聞く。女性との浮き名も多く、常に違う女性が隣を歩いていると専らの噂である。しかし政治的権力が強く、王妃からの信頼も厚いためにどんな横暴も咎めることが出来ないという。
従者が慌てて追いかけてくるのにも構わず廊下を驀進している彼を少し端に避けて見ていると、こちらに気がついたマーティンがきっと睨み上げてきた。
「これはこれは、リガルド卿。貴方はこれからまた王女殿下の所に通いに行くのですか?熱心なことだ」
嫌みたっぷりな声音で突き刺すような視線を送ってくる。何事かと黙って眉を潜めていると、彼は吐き捨てるようなため息をついて肩をすくませて見せた。
「王女殿下はどんな方法で取り入ってもお顔は見せて下さらないぞ」
「・・・・・・それは初めから分かっていたことでは?」
「それどころか、返事も『はい』か『いいえ』、『そうですか』の3つしかない!一体何のつもりかと叱ってきたよ、全く」
憤然として息巻くマーティン。
だが彼の言い分は正しいのか。彼女は、口べたな自分の話にあんなに楽しそうにしていた。きっと、笑っていた。彼女を返事しか返さない人形にしてしまう、マーティンの「話」の方がおかしいのだ。
「王女殿下は本当に結婚する気があるのかもここまで来ると疑問だな。全く、こちらはわざわざ政務の合間を縫ってこんな茶番に付き合っているというのに・・・・・・」
イシュトシュタイン国貴族に特徴的な金髪を揺らしながら怒りを露わにするマーティン。リリアンヌに気に入られるためにここぞとばかりに着飾ってきたのだろう、その様は乙女小説の挿絵に出てくる王子様が如きだ。しかしそれを見てももらえないのであれば意味が無い。
「王女殿下が本当にお美しいのかも最早疑わしい。公の場でそのご尊顔を現されたのはあの『事件』が起こった16歳の誕生パーティーのみ。もう2年も前ですよ?あんな塔に引きこもって、何をしているのかも分かりやしな――」
そこまで言った所で、マーティンはそれ以上言葉を続けなかった。いや、続ける事が出来なかった。
「うぐっ・・・・・・!何をするっ!」
オーウェンは無言でマーティンの胸ぐらを片手で掴んで引き寄せたのだ。オーウェンとマーティンではオーウェンの方が遙かに体格も良く背も高い。半ば引き上げられるような状態になり、マーティンは顔を真っ赤に染めながら抗議した。
「貴様、私を誰だと思っている!?このようなこと、不敬罪で・・・・・・ぐっ!」
次々と口を突いて出てくる言葉に苛立ちを感じながら、オーウェンは更に胸ぐらを引き上げる。マーティンの従者は怯えて主人に近づくことさえままならない状態だった。
「・・・・・・オーウェン様、」
落ち着いて下さい、と言外に含まれたアベルの声にリガルドはかすかに頷いて見せた。
「先ほどの王女殿下を愚弄する発言こそ、不敬罪に問われることだとは思わないのか」
「そっ、それは・・・・・・」
紅潮した赤ら顔を、急に焦ったように蒼白にし始めたマーティンを見ながらオーウェンは続ける。
「貴方は外見や血筋と結婚するおつもりか」
「は・・・・・・」
言っている意味が分からない、といった表情が浮かぶのを見て、オーウェンは諦めたように不意に手を離した。
「うわっ!ひっ・・・・・・!」
急に手を離されたマーティンは、どすんと痛そうな音を立てて尻餅をつく。解放されてほっとしたのもつかの間、厳しく冷たい表情のオーウェンを見て悲鳴を上げる。
「外見や血筋に目のくらんだ結婚ほど、不幸なものはない」
そう言い置くと、もう用は無いとばかりにオーウェンは踵を返して歩き出した。
「っ・・・・・・『男を狂わせる』など、王位継承権がなければこちらから願い下げだ!」
背中に罵声を浴びせられるが、オーウェンはそのまま歩き続けた。
「また、それか」
『男を狂わせる』――そんな呪術的な力が本当に存在するものなのか。
来た道を戻り角を曲がった所で、オーウェンは歩く速度を緩めずアベルに絞り出すような声で指示を出す。
「すまない、王女殿下に茶会の断りを伝えてくれ。・・・・・・今日は無理だ」
「・・・・・・オーウェン様、手が」
アベルの心配そうな視線の先には、握りすぎて血が滲んでしまった白手袋。つられるようにして赤い自分の手元を見て自嘲的な笑みが浮かんだ。
「・・・・・・慣れないものを身に付けるべきでは無いな」
自分以外の縁談者は皆貴族や各国の王族の出だ。皆白手袋に紳士的な服装をしている。
しかしオーウェンは、リガルド国元首の嫡男ではあるが実際は毎日訓練に明け暮れる騎士副団長である。優雅な式服など邪魔以外の何物でもないし、白手袋などよりずっと実戦的な革手袋を愛用している。しかしこの王宮に滞在するには不慣れな会食や茶会に参加しなければならず、国の顔でもあるオーウェンはその品位を高く見せなければならなかった。
その苦肉の策が「白手袋」。今まで式典でしか身に付けなかったものを日常生活に取り入れるのはとても違和感があった。しかしそれも、自分を少しでもよく見せようとするため。
『外見』を気にするが故。
「俺も、結局『母上』と同じじゃないか」
吐き捨てるように呟いたその瞳は、光も宿らない底冷えするような冷たさだった。