生きよう
「この年まで生きて、ようやくまた、気づけたよ。――私は生きるよ、エルピス」
私より幾分か年上である方が、そうおっしゃいました。
すでに高齢の老人であり、私にとっては常に見習ってきた先人の神官のその一人。
私たち《アクティース教》の神官らしく、いつも朗らかに語るその方の言葉が、その時は少し、違うように聞こえました。
辛いこと、苦しいことと無縁に見えて、そうではない私たち。
言葉では〝生きているだけで幸福〟と言いながら、それでいて本心ではその言葉を否定している者も、いないわけではありません。
ただ縋りたいかと言えば、そうではなく。
けれど、思いたい、感じたいように出来るかと言えば、それもまた、そうではなく。
押しつぶされそうな哀しみを、悪く言ってしまえば、いつも言葉でごまかして。
それでいて、本心からその言葉を信じている。
完璧な存在など、神くらいだ、と言ってしまえばそれまでで。
けれど私は、違うとそれを否定したいのです。
全ての生き物が、完璧であると。
だからこそ、生きていることが、最高であるのだと。
選択をしましょう。
今、この瞬間に。
自分らしく、堂々と。
咲き誇る花のように美しく。
空のように自由そのもので。
生きる、という選択を。
どんな生き方であったとしても、他人はそれを否定できない。
ただ一人、自分だけが、否の言葉を突きつけられる。
選ぶ、とはそういうこと。
感情でさえ、自分が選ぶ権利がある。
楽しく嬉しい毎日を――。
笑って日々を過ごせるように――。
気づくことさえ出来たのならば、後は自分が選ぶだけ。
言葉だけではどうしても、表現出来ない時があるけれど。
ならばそっとこの胸に、感情を宿すのが私の選択。
綴る言葉のその先に、私はいつも光を見ます。
生者それぞれに異なった、無限の生がある中で……私はきっと、今、この瞬間に、自分を生きているのです。
――祝福を。
そう、自分に祝福をおくっている。
あの方は、そう伝えたかったのだと、私は勝手に思っています。
――今一度、私自身のこの言葉で。
〝全ての生者に、祝福を〟




