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リリカの朝は早い。日の出とともに目覚め、手早く最低限の身支度を済ませると、水を汲み、八人分の食事の調理を済ませ、流れるように食卓のセットを完成させる。朝食は一汁三菜は最低限、きちんと小魚からだしをとった味噌汁に、具は旬の根菜を加え、柔らかく、しかし煮崩れもしない絶妙な火加減で仕上げる。今日は青菜のおひたしに、柔らかく煮た豆、魚の切り身は胃にたまらないよう油ののりすぎていないものを焼いておろしを添えた。もちろん塩味はやや強めである。それらを白い絵皿に盛り付け、汁は中が赤、外見が黒の器に盛って、計8セットを机にぴたりと整列する。そうして館の住人たちが起きだす頃には澄ました顔で食堂の壁際、扉の横に待機している。リリカの定位置である。
後は住人たちが各々食事をするのを見守り、時に茶や水を給仕しながら皆が食べ終わるのを待つばかりである。
「あの……」
待つばかりである。絶対にここから動かないからな、本当に。
「リリカさん……、すみません、リリカさん」
席についてから、ろくに食べすすめもせずこちらの様子をうかがっていた少女が、か細い声で呼びかけてくる。それがあまりにか細く消え入りそうな声なので、かえってリリカは無視もできずにこたえてしまう。
「はい、ユカリ様、何でしょう」
「あの、大地君が今日も部屋から出てこなくって……なんだか体調が悪いみたいで、部屋で食事をしたいって言ってたんですけど……」
「そうですか、では朝食は食堂におとりおきしますので、体調が戻られたら食べにいらっしゃるようお伝えください」
リリカがやや食い気味に返答すると、少女、紫はくっと身を縮ませて、ためらいながら言葉を返した。
「っ……、あの、でも、すごくお腹がすいてるみたいで、いますぐ食べたい、みたいな」
「それほど食欲があって体調不良というのが信じられません。そのような道理の通らない話を私にする理由はなんですか。あなたはどうお考えで……いえ、あなたを責めているわけではないのです」
膝に敷いた白いナプキンをにぎりしめ、紫が真っ赤になってうつむいてしまったのでリリカは焦った。同じ卓で朝食をとる残りの6人も、食事の手を止め、気まずげに視線を交わしている。いや、リリカは至って普通に対応したつもりだ。しかし、反論に対する耐性がなさすぎるのだ、ニホンジンというやつは。
「あなたが彼から伝言を頼まれただけなのはわかっています。しかし私も他の仕事がありますので、」
「えっ、紫、大丈夫かよ~。まったく、リリカは俺が見てないとすぐ人をいじめるから」
「語弊のある言い方はおやめください」
朝食の刻限に大幅に遅れてやってきた彼をキッと睨みつける。も、当の本人は対して気にした風でなく、寝癖がついたままの茶色い頭をぱりぱりとかいている。皆が食事をとっている食卓の真ん前で、彼が上着の中に手を突っ込んで腹を掻くのを見咎めながら、リリカは挨拶した。
「ごきげんよう、ダイチ様。お加減戻られたようで何よりです。さぁ、時間がおしておりますので早く召し上がってください」
「なんでそこでそんな言い方するかなー。食事が冷めちゃうからとか、もっとそれらしい言い方できないの? メイドなのに気遣い足りなくない?」
「申し訳ございません。勉強不足です」
「勉強って……、そういうものでもないと思うけどー」
頭一つ上からリリカをたっぷりと見下ろしてから、ふっと目をそらして大地は手近な椅子に手をかける。
「まぁ、素敵なニホンブンカのこと、しっかり勉強してくださいねー。なんてったってリリカさんはここでの母親みたいなもんだし。まぁ、年齢的にはねーちゃんか。とにかく、第二の故郷、みたいな?」
にやり、と彼が笑いとともに投げかけた言葉で、食卓の空気がざわりと波立った。
黙れ、こんなにも尽くしているのに、どうしてわざわざそんなことを言う。
ダイチは非常に扱いづらい。こちらに来てもうすぐ三月も経つというのに、いまだにこうした微妙な言い方をしては館の平穏を乱すのだ。彼が来てからすぐ後に来たユカリは、年若いせいもあってか未だに毎晩忍んで泣いているようだし、フツキやオオタといった古参の住人も彼の言葉に時折動揺をみせている。以前より落ち着かないようだ。
苛立ちを口には出さずに、しかし顔には出ているだろうな、と思いながら、リリカは黙礼をして定位置に下がった。苛立つのは少なからず彼の言葉が正しいからで、その事実にに忸怩たる思いを噛みしめながら、リリカは定位置から、いつも一歩ひいて彼らを見る。
もっと献身的にならねばならない。本当ならば。帰れぬ彼らとこの世界をつなぐために、自分に精神的支柱のような役割が求められているのをリリカは十分に理解していた。
理解していて嫌だった。自分で自分を薄情だと思う。その自省すら本当は忌々しい。彼らは「帰れない人」、一方通行の世界の境界を踏み越えてきてしまった人達である。リリカはその世話役。世界の境界を超えたにも拘わらず、特異な力を得ることもなかった人達が身を寄せあう館の保護者なのだ。