太閤秀吉死去
1597年5月 秀吉は病床についた。
戦国の世
信長の草履とり(武士以下の存在)から、一挙に日本国の頂上に駆け登った太閤秀吉の生涯が閉じようとしている
秀吉はこの世で、ほしいものはすべて手に入る。
しかし、寿命には勝てなかった。
すでに、自分の死を予感していた。
下克上で天下を取った秀吉は、今川、武田、浅井、明智、朝倉、柴田すべての武将が、家が戦いによってほろぼされたのを、みている。
なぜならば、信長、秀吉が滅ぼしてきたからだ。
自分が死ねば、覇権争いが必ず起こることは秀吉はわかっている 一番心配なのは、目の中に入れても痛くない 息子 秀頼である
この時、秀頼は6歳である
秀吉は淀君に「三成を呼べ」
佐和山城から三成は伏見城に着いた
頭の切れる文官の三成は豊臣家・世継ぎ秀頼君をどうやって守っていくか書類をまとめていたとろころであった、合戦に告ぐ合戦、一揆、まだ国は安定はしていない。
三成は、秀吉の枕元にきた
秀吉「三成か、わしはもう長くはない、秀頼を頼む。あとはまかせる。。」
病状は悪化しているのであろう、三成が秀吉の口元に耳をあててやっと話がきこえるぐらいである。
三成「おまかせあれ、太閤殿下・・」
三成の工作どうりに事が進んだ
五大老に秀頼をたのむという遺言状を 五大老、五奉行に同様の趣旨の誓紙をかわさした。
その後、全国の諸大名に血判証文を提出させた。
五大老 徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家 小早川隆景
五奉行 石田三成 前田玄以 浅野長政 増田長盛 長束正家
どんな誓書も絵に書いた餅同様である
小牧、長久手の戦いで対峙した家康は、実力者であり覇権をねらっている
7月 五大老、五奉行が秀吉の御前に呼ばれた
秀吉が「皆の物、豊臣家、秀頼を頼み申しますぞ」
家康「太閤殿下、この家康がいるかぎり豊臣家と秀頼君はお守り申し上げます。弓ひくものがいれば。この家康が成敗してみせます」
秀吉「なんと、心強いものか 皆の物たのんだぞ!」、」
横には、秀頼と淀君が座っている。
全員「ははーーっ、」
翌月 8月秀吉は 生涯を遂げた
露と落ち露と消えにし我が身かな
浪速のことは夢のまた夢
時世の句である
400年以上も前である