八年間、あなたのために生きました。婚約破棄された私は、もう自分の価値がわかりません。
夜の王宮大広間は、幾千の蝋燭の明かりとシャンデリアの輝きに照らされ、豪奢な甘い香水と百合の香りが混じり合って漂っていた。
オーケストラが奏でる軽やかなワルツが耳朶を打つたび、私の胸の奥に冷たい針が一本ずつ突き刺さるような痛みが走る。
磨き上げられた大理石の床に映る自分の姿は、息苦しいほどきつく絞め上げられたコルセットに、色味を抑えた端正な夜会服を着込んだ、ただの痩せぎすな影に過ぎなかった。
八年間。十歳で婚約者に選ばれてから、私は一度も息を抜いたことがなかった。
万年筆を握る指先は常にひび割れ、睡眠時間を削って王太子の公務を陰で代筆し、法学書と財務帳簿を読み耽る毎日。
心も身体も、とっくの昔にすり減り、燃え尽きて、真っ白な灰のようになっていた。
張り詰めていた細い糸一本だけで、倒れそうになる自分をかろうじて立たせていたのだ。
「おい、エレノア。いつまでそんな暗い顔をして立っているつもりだ。我が国の王太子妃となる者が、まるで通夜に参列しているような陰気な気配を振りまいてどうする」
氷のように冷え切った声が頭上から降ってきた。
声の主は、私の婚約者である第一王子、アレン殿下だった。
黄金の髪を後ろに撫で付け、彫刻のように整った顔立ちには、私に対する明白な侮蔑と苛立ちが張り付いている。
彼の腕の中には、今夜もまた、胸元を大きくはだけた深紅のドレスを纏った少女――ロザリア男爵令嬢が収まっていた。
豊満な胸が露わになるほど深く切り込まれた襟ぐり、熟れた果実のように艶めく唇、そして男の庇護欲をそそる上目遣い。
私の持っていないものを、その少女はすべて持ち合わせていた。
「申し訳ございません、アレン殿下。昨夜は王立孤児院の運営報告書と、隣国との通商条約の下書きの確認が夜半までかかりまして……少し、目眩がいたしました」
私はドレスの裾を握りしめ、掠れた声で弁明した。
声が震えてしまうのを止められない。
少し強い言葉を投げかけられただけで、内側からぐずぐずと崩れてしまいそうな、豆腐のように脆い心。
自分の喉から出た声がひどく情けなく、惨めで、消え入りたかった。
「言い訳は見苦しいぞ、エレノア様。殿下はお前を気遣って声をかけてくださったのではないか。それを、公務の疲れを理由に恩を仇で返すとはね」
ロザリアがアレン様の胸元に顔をすり寄せ、ふふっと鈴を転がすような声で笑った。
その豊かな胸がアレン様の腕に押し付けられるたび、殿下の目元がだらしなく緩む。
かつて私に向けられたことのない、熱を帯びた眼差しだった。
「その通りだ、ロザリア。エレノア、お前は昔からそうだ。融通が利かず、小難しく本ばかり読み、書類を片付けることしか能がない。女としての愛嬌も、男を喜ばせる柔らかさも何一つ持ち合わせていない木偶の坊だ。お前のその薄っぺらな胸板と細い鎖骨を見ているだけで、私は寒気すら覚えるよ」
大広間に居並ぶ貴族たちの視線が、一斉に私へと突き刺さった。
ひそひそとした嘲笑、好奇の目、あるいは憐れみ。
どれもが刃となって、私の心臓を細切れに切り裂いていく。
――あなたを、心から愛していました。
あなたを立派な王にしたい、あなたの隣に恥じない伴侶になりたい。
その一心で、私は少女時代のすべてを捧げた。
けれど、限界まで絞り尽くした私の命の燃え殻を、あなたはいとも簡単に足蹴にしたのだ。
「もういい。聞き飽きたよ、その陰気な声は。……皆の者、聞くが良い!」
アレン殿下が突如として声を張り上げた。
演奏がぴたりと止まり、広間を支配する静寂の中に、殿下の高らかな声が響き渡る。
「私、アレン・フォン・クラインベルクは、ここにいるエレノア・フォン・シルフィード公爵令嬢との婚約を、本日ただいまを破棄することを宣言する!」
周囲から息を呑む音が漏れた。
頭の中で、ブツリと最後の細い糸が切れる音がした。
悲鳴を上げる力さえ残っていなかった。
「理由だと? 言わなければ分からないのか! お前は王太子妃としての華やかさに欠け、周囲への気配りもできず、何より私の心をこれっぽっちも癒やすことができなかった! 見よ、ロザリアを! 彼女のこの温もり、豊かな抱擁力、男を立てる健気さ! 真の王太子妃に相応しいのは、愛を知るロザリアだけだ!」
殿下の勝ち誇った笑み。ロザリアの嘲笑。
八年間張り詰めていた私の精神は、完全に粉々に砕け散った。
「……はい」
私は静かに頭を下げた。
「そうですね。おっしゃる通りです、アレン殿下。私は、あなたの言う通りの、何の価値もない人間なのでしょうから」
完璧な淑女の礼を捧げ、私は大広間を後にした。
背中に浴びせられた嘲笑も、もう遠い海の底の泡のようにしか聞こえなかった。
深夜、這うようにして辿り着いた生家の屋敷で、出迎えてくれた両親は何も問わなかった。
ただ泥のように汚れ、虚ろな目をした私を抱きしめ、父は低く掠れた声で言った。
「とにかく、休みなさい。疲れているのだろうから」
あくる日から、私の時間は完全に止まってしまった。
起き上がることができない。
食事をすることもできない。
全身を重度のうつ病のような鉛の倦怠感が支配し、背中に一トンもの鉄板を何枚も背負わされているかのようだった。
顔を洗わなければ、歯を磨かなければと思っても、足一つ動かせない。
それどころか、ベッドに座ることさえできなかった。
敷布の上に横たわったまま、天井の木目をじっと見つめるだけの肉塊と化していた。
耳の奥底では、あの罵倒が途切れることなくリフレインする。
『理由だと? 言わなければ分からないのか! お前は王太子妃としての華やかさに欠け、周囲への気配りもできず、何より私の心をこれっぽっちも癒やすことができなかった! 見よ、ロザリアを! 彼女のこの温もり、豊かな抱擁力、男を立てる健気さ! 真の王太子妃に相応しいのは、愛を知るロザリアだけだ!』
何度も、何度も、走馬灯のように光景が明滅する。
そう、私には価値がない。
お胸も大きくないし、色香さえない。
八年間、すべてを捧げて燃え尽きて、残ったものは誰にも顧みられない灰だけだった。
母が泣きながら林檎入りのスープを口元に運び、父が震える手で毛布をかけ直してくれても、豆腐のように崩れた私の心は、ただ「申し訳ありません」と消え入るような涙を流すことしかできなかった。
一方、王宮の執務室は、日を追うごとに荒れ果てていった。
エレノアが姿を消してから、王太子の机の上には決裁を待つ羊皮紙が雪崩を起こし、床にまで散乱していた。
王妃教育を免除され、公務を任せようとしたロザリアはといえば、高級な絹のクッションに身を沈め、艶やかな爪を整えながら甲高い声を張り上げた。
「私の時間がないじゃないの!!」
派手なドレスで着飾り、夜会へ出かけようとするロザリアは、机の上の書類を足蹴にしてヒステリックに喚いた。
「こんな埃っぽい部屋で紙切れと睨み合うために婚約したんじゃないわ! 私は愛されるだけでいいの! ネイルをして、お友達とお茶を飲んで、夜会で踊る時間がないじゃない! そんな泥臭い仕事、役人に丸投げしなさいよ!」
役人には代行できない重要な国家機密と外交案件の数々。
エレノアがたった半日で片付けていた仕事を前に、アレンは仕方なく、一人で執務机に向かわざるを得なくなった。
慣れない複雑な計算、地方貴族との利害調整、隣国との条約書の確認。
アレンは夜を徹してペンを握りしめ、睡眠時間を削り、指先をインクで真っ黒に汚しながら、必死に書類と格闘した。
だが、そんなアレンの元へ、夜会から戻ったロザリアが不満を爆発させて怒鳴り込んでくる。
「ねえ、アレン様! 私との時間はどうなっておりますの!? 毎日毎日、仕事ばかりして! ちっとも私を構ってくれないじゃない! こんな貧乏くさい部屋で難しい顔ばかりする男なんて、ちっとも素敵じゃありませんことよ!」
「黙れ……! 国を動かす公務を片付けなければ、私は王太子としての責務を果たせないのだ! お前が何一つ手伝えないから、私がやるしかないのではないか!」
「なによそれ! 私は愛の象徴なんですもの、泥臭い仕事なんてする義務はありませんわ! 仕事ばかりにかまけて私を放置するなんて、あんまりですわ!」
ロザリアの身勝手な叫びを聞きながら、アレンの脳裏をよぎったのは、かつてのエレノアの姿だった。
エレノアは八年間、一度だって「私との時間は」などと言わなかった。
アレンの立場を守るために、寝る間も惜しんで一人でこの重責を背負い続けてくれていたのだ。
愛嬌や肉体ばかりに目を奪われ、その尊さに気づかずに踏みにじった自分の浅ましさに、アレンの胃の腑がきりきりと痛んだ。
やがて、滞りかけた国政と、ロザリアが王室費を私的に使い込んで作った莫大な負債に眉をひそめた国王が、二人を玉座の間に呼び出した。
冷え切った玉座から、国王の厳格な声が響く。
「アレン。エレノア嬢が担っていた膨大な公務を、男爵家の娘にこなす能力などないことくらい、最初から分かっていたはずだ。己の情欲の赴くまま、身の程知らずの女を選んだのは貴様だ。……ならば、自分が選んだ女なのだから、王太子としての公務はすべて貴様一人でこなせ」
「父上……!」
「廃嫡はせぬ。王太子の地位に留まり、次代の王としての重責から逃げることは許さん。他人に丸投げし、甘えていたツケをすべて己の身一つで払え。エレノア嬢が八年間、一人でやり抜いていた激務を、今度は貴様自身が骨の髄まで味わうのだ」
国王の冷たい視線が、床にへたり込むロザリアへと向けられた。
「そしてロザリア男爵令嬢。貴様が浪費した負債は、実家の男爵領を取り潰して充当する。貴様からは貴族籍を剥奪し、平民へ落とす。だが、アレンが選んだ唯一の女だ。アレンの私的な養い人として、執務室の隅に置いてやる。アレンが一人で公務に励む姿を、そこで一生眺めているがよい」
「い、嫌っ! 平民だなんて冗談じゃないわ! こんな仕事ばかりで構ってもくれない男、もういりません! 婚約破棄してください!!」
ロザリアの醜悪な罵声が玉座の間に響き渡る中、近衛兵によって二人は執務室へと連れ戻された。
アレンは王太子の地位を失うことも許されず、終わりのない書類の山に向かい、ペンを走らせ続ける。
隣では、飾り立てることも夜会へ行くことも許されなくなったかつての想い人が、退屈と不満から絶え間なく罵声を浴びせ続けてくる。
かつて自分が求めた「愛の象徴」は、いまや耳を塞ぎたくなるような呪詛の塊となって、アレンの神経を削り取っていた。
だが、逃げることはできない。
自分が選び、自分がエレノアから奪った場所なのだから。
同じ頃、公爵家の静かな寝室に、柔らかな陽射しが差し込んでいた。
ベッドの脇には、母が活けてくれた庭の白い小花が、控えめに咲いている。
エレノアの心は、まだ豆腐のように脆く、傷口は塞がっていない。
八年間で燃え尽きてしまった心身の空白は、そう簡単には埋まらない。
それでも、マーサが優しく拭いてくれる手のひらの温もりに、母がそっと握りしめてくれる指先の温かさに、エレノアはほんの少しだけ、固く閉ざしていた瞼を開いた。
「……お母様、風が……いい匂いがします」
「ええ、エレノア。春が近いようですよ」
母の優しい微笑みに、エレノアの瞳から、今度は痛みの混じらない涙が一筋こぼれ落ちた。
誰かのために身を削る日陰の八年は終わったのだ。
何者でもなくなった自分を、ただ静かに抱きしめてくれる家族の腕の中で、エレノアは初めて、自分のためだけに深く、長い息を吸い込んだ。
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