初めてのライバル
中学校へ入学してから、玲奈の生活は小学生のころより少しだけ慌ただしくなった。授業時間は長くなり、宿題の量も増え、部活動へ入るかどうかを友人たちが楽しそうに相談している。
その一方で玲奈には以前から続けている芸能活動があり、放課後すべてを学校で過ごすことは難しかった。
それでも玲奈は、新しい環境をかなり楽しんでいた。制服を着て登校することにもすぐ慣れ、同じ小学校から進学した友人だけでなく、新しく知り合った同級生とも普通に話すようになっている。
仕事を知っている生徒から声をかけられることはあったが、以前ほど大きな騒ぎになることもなかった。
天才子役、天城玲奈。その呼び名は芸能界ではすっかり定着していたものの、本人にとって中学校は仕事場ではない。
授業で指名されれば答え、忘れ物をすれば注意され、体育ではクラスメイトと同じように汗をかく。そんな時間を玲奈は意識して大切にしていた。
入学から数週間が過ぎたころ、玲奈は母とともに所属事務所を訪れていた。担当マネージャーから新しい連続ドラマの企画書を見せられ、応接室のテーブルへ広げられた資料を一枚ずつ読んでいく。
作品の舞台は、地方都市にある公立中学校だった。大きな事件や特殊な能力が登場する作品ではなく、それぞれ異なる悩みを抱えた中学生たちが、友人や家族、教師との関係の中で少しずつ変化していく群像劇である。
玲奈へ提示されたのは、主要人物の一人である《水城紗良》だった。成績優秀で責任感が強く、教師からも周囲の生徒からも頼られている一方、自分の感情を表へ出すことが苦手な少女として書かれている。
「優等生だけど、別に何でもできる子じゃないんですね」
玲奈が企画書を読みながら言うと、向かいに座るマネージャーが頷いた。紗良は周囲から優等生だと思われているからこそ、分からないと言えず、助けてとも言えない。その不器用さが物語の一つの軸になるのだという。
玲奈はもう一度人物紹介を読み返した。これまで演じた役と完全に重なるわけではなく、年齢も今の自分に近い。
さらに同年代の俳優が多く出演する作品だという点にも興味を引かれた。
「やってみたいです」
玲奈が迷わず答えると、母とマネージャーは顔を見合わせて笑った。出演そのものはすでに制作側から強く希望されており、学校との日程調整さえ問題なければ正式に決まる状況だったため、その場で話は大きく進んだ。
そして数日後、玲奈は最初の顔合わせと読み合わせへ向かった。会議室には主要キャストと制作スタッフが集まっており、中学生役を演じる十代前半の俳優たちが、少し緊張した様子で席についている。
玲奈が部屋へ入ると、何人かがこちらを見た。幼いころからテレビへ出演し、大河ドラマをきっかけに名前が広まり、その後も数多くの作品へ出演しているため、同年代の俳優たちにとっても玲奈はよく知られた存在だった。
玲奈自身はそうした視線に慣れていた。近くの席にいる出演者へ一人ずつ挨拶し、自分の名前が書かれた場所へ座ろうとしたところで、少し離れた位置にいた少女と目が合った。
肩まで伸びた黒髪に、強い印象を残す大きな目。座っているだけなのに落ち着かないというより、早く何かを始めたくて仕方がないような雰囲気を持っている。
名前の札には、《黒川美咲》と書かれていた。
玲奈も、その名前は知っていた。ここ一、二年で急速に出演作を増やし、特に感情の強い役で評価されている同年代の女優だった。
玲奈ほど幼いころから芸能活動をしていたわけではないが、最近では主演級の役まで任され始めている。
「天城玲奈さんだよね?」
美咲から先に声をかけられ、玲奈は隣の席へ荷物を置きながら頷いた。
「うん。黒川美咲ちゃんだよね。よろしくお願いします」
「知ってたんだ」
少し意外そうな顔をされたため、玲奈は笑った。美咲が出演したドラマを二本ほど見たことがあり、とくに母親へ感情をぶつける場面が印象に残っていたと伝えると、美咲の表情が一瞬だけ変わった。
「……私も藤乃、見てたよ」
短い返事だったが、その声には社交辞令らしさがなかった。玲奈もそれ以上褒め合うことはせず、「ありがとう」と返して台本を開いた。その距離感が、二人にとってはちょうどよかった。
今回、美咲が演じるのは《桐谷凛》。紗良とは同じクラスだが、性格は正反対だった。思ったことをすぐ口にし、理不尽なことがあれば教師に対してさえ反論する。
問題児として扱われることも多い一方、友人が傷つけられれば誰より早く動く少女だった。
物語の序盤では、紗良と凛は頻繁に衝突する。秩序を守ろうとする紗良と、納得できない決まりには従わない凛。
どちらか一方だけが正しいのではなく、それぞれの考え方に理由があることが少しずつ分かっていく構成だった。
顔合わせが終わると、そのまま第一話の読み合わせへ入った。最初は教師役や他の生徒役を含めた場面が続き、玲奈も自分の番になると台本から必要以上に目を上げず、紗良として落ち着いた声を出していく。
読み合わせなので、大きく身体を動かすことはない。それでも玲奈は相手の台詞を聞き、その言葉を受け取ってから返していた。
普段の玲奈より少し声が低く、言葉を選びながら話すことで、すでに水城紗良の輪郭が見え始めている。
そして、第一話中盤に用意された紗良と凛の最初の衝突場面へ入った。授業中に問題を起こした男子生徒を教師が一方的に叱り、それに凛が反発するところから始まる場面だった。
「先生、それ違うでしょ。その子だけ悪いみたいに言うの、おかしくない?」
美咲が台詞を口にした瞬間、会議室の空気が少し変わった。
まだ本番ではない。椅子に座ったまま台本を持ち、衣装も照明もない。それでも声にははっきりと怒りが乗り、目の前に本当に納得できない教師がいるような勢いがあった。
教師役の俳優が返したあと、玲奈の台詞になる。紗良は騒ぎを大きくしたくないため、凛を止めようとする。
「桐谷さん。今は授業中だから、続きはあとにしたほうがいいと思う」
玲奈は声を張らなかった。
美咲の強い感情へ同じ強さでぶつからず、相手を落ち着かせようとする紗良として静かに返す。その瞬間、美咲が台本から顔を上げた。
「そういうの、ずるくない?」
予定された台詞だった。しかし読み方は、それまでよりさらに強くなっていた。
「何でも正しいこと言ってるみたいな顔して、結局自分が面倒に巻き込まれたくないだけじゃん」
玲奈は美咲を見た。
次の台詞を知っている。それでも、すぐには口にしなかった。ほんの短い間、美咲の表情を受け止めてから、紗良として視線を少しだけ逸らす。
「……そうかもしれない。でも、怒鳴れば全部伝わるとも思わない」
今度は美咲が止まった。
台本に書かれた台詞そのものは変わっていない。ただ、玲奈の一瞬の間と視線の逃がし方によって、紗良が本当に痛いところを突かれたように見えた。
美咲の目つきが変わる。
「じゃあ、黙って見てるほうがいいの?」
凛の怒りが、最初より少し違うものになった。ただ相手を責めるだけではなく、なぜ分かってくれないのかという苛立ちが混ざっている。
玲奈もそれを受け取った。
「いいとは言ってない。私は、私のやり方で話す」
二人の間に短い沈黙が生まれた。
台本上では、そこで教師が二人を止める。教師役の俳優も一瞬入り損ねそうになりながら、それでも自然に次の台詞へつないだ。
読み合わせはそのまま続いた。
けれど、美咲はそれ以降も何度か玲奈のほうを見ていた。
休憩に入ると、美咲は飲み物を持ったまま玲奈のところへやって来た。先ほどまで凛として向けていた険しい表情は消えているが、何かを確かめたいような顔をしている。
「ねえ。さっき、わざと間を空けた?」
「うん。凛にあそこまで言われたら、紗良もすぐには返せないかなって思って」
玲奈が普通に答えると、美咲は少しだけ眉を寄せた。怒っているわけではなく、先ほどの場面を頭の中で思い返しているようだった。
「私、あそこで次の台詞もっと強く言いたくなった」
「分かった。最初より怒ってたよね」
「玲奈がああいう顔したからだよ」
今度は玲奈が少し驚いた。
自分としては、美咲の芝居を受けて紗良ならそうなると思っただけだった。しかし美咲からすれば、その反応を見たことで凛の感情がさらに動かされたらしい。
「美咲ちゃんもすごかったよ。最初に先生へ言ったところ、読み合わせなのにびっくりした」
「でも玲奈って、全然声大きくしないのにこっちが焦るんだもん。変なの」
美咲は納得しきれないように言いながらも、口元は少し笑っていた。玲奈も嫌な気持ちはせず、むしろ久しぶりに味わった感覚を楽しんでいた。
これまでにも上手な共演者は大勢いた。真田や水城、柴崎のようなベテランから学ぶことも多く、彼らに引っ張ってもらった経験は玲奈の中にしっかり残っている。
しかし、目の前にいる美咲は違った。
年齢が近い。
経験も実績も違うが、同じ世代として同じ場面に立っている。そして玲奈が何かを返せば、美咲もすぐに別のものを返してくる。
それが純粋に面白かった。
午後の読み合わせでは、二人が再び同じ場面に入る機会があった。今度は凛が一人で泣いているところを紗良が偶然見つける、物語後半の場面だった。
美咲は、泣こうとしているようには見えなかった。
けれど台詞を読み始めた途端、声の奥に感情が滲んだ。怒っているときの激しさとは違い、泣きたくないのに耐えられない少女の不安定さが、その場にいる全員へ伝わってくる。
玲奈は思わず見入った。
強い。思わずそう感じた。
声を大きくするだけではない。感情を出すと決めた瞬間、美咲は迷わずそこへ飛び込める。その勢いは、玲奈がこれまであまり使ってこなかった演技だった。
玲奈の番になる。
「……見なかったことにしようか?」
紗良は慰めなかった。凛が泣いていることを誰にも知られたくないと理解し、逃げ道だけを差し出す。
美咲が顔を上げた。
「なんで、そういうときだけ分かるの」
台本より少し声が震えた。
玲奈の胸にも、その言葉が強く入ってきた。
「分からないよ。だから、聞いてる」
読み合わせが終わった瞬間、監督が小さく息を吐いた。
周囲のスタッフも、二人の名前が並んでいる台本を改めて見ている。もともと実力のある若手を揃えたつもりだったが、紗良と凛については想像していた以上のものが生まれそうだった。
すべての日程を終え、玲奈が荷物をまとめていると、美咲が再び近づいてきた。今度は休憩中よりも楽しそうな顔をしている。
「玲奈。次の撮影、楽しみ」
「私も」
「でも、次は負けないから」
玲奈は一瞬だけ目を丸くしたあと、笑った。
「何で勝ち負けなの?」
「分かんない。でも、なんか負けたくない」
美咲自身にも、はっきりした基準はないらしい。それでも玲奈には、その気持ちが少し理解できた。
自分も、美咲の芝居を見たときに思った。
もっとやってみたい。
もっと返したいし次はどんな芝居をしてくるのか見てみたい。
「じゃあ、私も負けないようにする」
玲奈がそう返すと、美咲は満足そうに笑った。
二人はまだ友人ではないが敵でもなかった。
ただ、初めて会ったその日に、互いが自分にはないものを持っていることだけは分かった。
玲奈は、感情へ迷わず飛び込んでいく美咲の強さに刺激を受けた。
美咲は、相手を見ているだけで自分の芝居まで変えられてしまう玲奈を意識した。
天才子役と呼ばれ続けてきた天城玲奈にとって、同じ世代の誰かをここまで強く意識したのは初めてだった。
そして黒川美咲にとっても、テレビの中にいた有名な子役は、この日から単なる憧れでも目標でもなくなった。
同じ場面に立つ相手になった。
次の撮影で、どちらが何を引き出すのか。
二人ともまだ知らない。
それでも、新しいドラマの撮影が始まる前から、天城玲奈と黒川美咲の関係はすでに動き始めていた。




