藤乃、クランクアップ
再び忙しく動き始めた。藤乃の追加場面はいくつか残っていたものの、榊原家の落城という大きな山場はすでに撮り終えている。
それからの撮影では、逃れた先で暮らす藤乃や源吾たちの姿が少しずつ収録された。戦そのものを動かすのではなく、故郷を失った人々がその後をどう生きるのかが中心だった。
藤乃は領民たちの話を聞き、寺の仕事を手伝い、時には同年代の子供たちと遊んだ。姫だから特別なことをするのではなく、自分にできる範囲で人々のそばにいる。
その姿を見て、源吾たちも少しずつ変わっていった。主君から預かった娘を守るという使命だけで動いていた家臣たちが、いつしか藤乃自身を新しい希望として見るようになる。
ただし、藤乃が急に大人びることはなかった。夜になれば父や母を思い出し、一人になったところで寂しそうな顔を見せることもある。
玲奈は、そんな場面でも無理に涙を流そうとはしなかった。布団へ入る前に家族から受け取った小物へ触れ、少しだけ手を止める。それだけで十分だった。
撮影が進むにつれ、監督から玲奈へ細かな演技指示が出ることもさらに減っていった。立ち位置やカメラの位置だけを確認すると、あとは共演者と場面を作らせることが増えている。
玲奈自身も、その変化を特別なものとは思っていなかった。藤乃として相手の話を聞き、その場で必要だと思った反応を返す。それが今では自然になっていた。
そんな日々が続き、季節が少し進んだころだった。玲奈は撮影所へ入ると、いつもより少しだけ静かな空気を感じ取った。
今日の予定表には、藤乃の名前がいくつも並んでいる。しかし、その最後には小さく「天城玲奈 藤乃役最終日」と記されていた。
「今日で最後なんですね」
衣装部屋で着付けをしてもらいながら玲奈が呟くと、担当の女性が頷いた。何度も着せてもらった藤乃の衣装も、今日で最後になる。
「寂しい?」
「ちょっとだけです。でも、最初のころよりずっと長く出られましたから」
玲奈は素直に答えた。当初聞いていた予定より出番が増え、藤乃として過ごした時間も長くなっている。
鏡の中には、いつもの藤乃がいた。簡素な着物に変わってからも、髪を整え、背筋を伸ばせば榊原家の姫に見える。
玲奈は鏡を見ながら、小さく息を吐いた。もう何度も着た衣装なのに、最後だと知ると一つ一つが少し違って見えた。
最初の撮影は、藤乃が源吾たちと食事を取る場面だった。物語の中では落城からしばらく時間が経過しており、一行の生活も以前より落ち着いている。
源吾が今後の行き先について話し、藤乃は黙って聞いていた。大人たちの話へ無理に口を挟まず、必要なところだけを確かめる。
「北へ向かえば、我らを受け入れてくださる可能性がございます。ただし、道中は長くなりましょう」
柴崎演じる源吾が説明すると、藤乃は地図へ目を落とした。以前なら父や母が決めていたことを、今は自分も聞かなければならない。
「皆が安全に進める道を選んでください。私は、源吾たちを信じます」
藤乃はそれだけ答えた。自分が分からないことまで判断しようとはせず、信頼できる家臣へ任せる。
源吾は深く頭を下げた。「承知いたしました」と返す声には、落城直後とは違う穏やかさがあった。
監督は一度でオーケーを出した。続いて撮影されたのは、藤乃が寺を離れる前に領民たちへ挨拶をする場面だった。
境内には以前の撮影にも参加した役者たちが並んでいる。木彫りの馬を持っていた少女も、母親と一緒にその中へいた。
藤乃は一人ずつへ大げさな言葉をかけることはしなかった。世話になった住職へ礼を述べ、残る人々へ頭を下げる。
「皆様から聞いたことは、忘れません。私に今できることは少ないですが、忘れないことだけはできます」
子供らしくないほど立派な約束を並べるのではなく、できることだけを口にする。それが、これまでの藤乃らしい言葉だった。
領民たちも藤乃へ礼を返した。その中から、木彫りを持った少女が少しだけ前へ出る。
「お姫様、また馬に乗るの?」
少女から尋ねられ、藤乃は柔らかく笑った。「ええ。今日は長い道を進むそうです」と答え、それから木彫りへ視線を向ける。
「そのお馬も、一緒に連れていくのですか?」
「うん。ずっと持ってる」
「それなら、お互いに大切なものを連れていくのですね」
藤乃はそう言って、自分の胸元へ軽く手を当てた。そこには母から最後に渡された、小さなお守りが入っている。
少女は意味をすべて理解したわけではない。それでも嬉しそうに頷き、木彫りの馬を抱きしめた。
その様子を見ていた源吾が、藤乃へ声をかける。出発の時間が近づいていた。
藤乃は少女と母親へ一礼したあと、寺の人々へもう一度深く頭を下げる。城にいたころの格式張った礼ではなく、助けてもらった一人の人間としての礼だった。
撮影が終わると、監督からすぐにオーケーが出た。玲奈は少女役の子と笑いながら話し、次の準備へ移っていく。
そして午後、藤乃として最後の場面を撮影する時間になった。
用意されていたのは、山道を見渡せる小高い場所だった。実際の撮影では安全に整備された場所を使い、遠景には後から映像処理が加えられる。
そこへ藤乃と源吾たちが到着する。これから新しい土地へ向かう一行が、最後に進む方向を確認する場面だった。
撮影前、監督は玲奈へほとんど指示を出さなかった。
「藤乃として最後の場面だから、今まで通りでいいよ。特別なことをしようとしなくていい」
「はい」
玲奈も短く答えた。
それだけで撮影が始まった。
藤乃は源吾たちとともに坂を上り、開けた場所で足を止める。遠くには山々が続き、その向こうに次の目的地がある。
「姫様。あの山を越えれば、ひとまず追っ手の心配は少なくなります」
源吾が説明すると、藤乃は遠くを見た。簡単な道ではないことは分かっている。
それでも、以前のように城へ戻る道を探すことはなかった。父から命じられた「生きよ」という言葉を守るためには、前へ進むしかない。
家臣の一人が、後方を見た。
「榊原の城は、もう見えませぬな」
その言葉で、一行にわずかな沈黙が落ちた。
源吾の表情も曇る。家臣たちにとって、あの城は主君だけではなく、自分たちの家族や暮らしがあった場所だった。
藤乃は後ろを振り返らなかった。
燃える城を見たあの日、すでに最後の礼を済ませている。
代わりに、周囲の家臣たちをゆっくり見回した。
「皆、疲れていますね」
突然の言葉に、源吾が少しだけ笑った。「姫様も同じにございましょう」と返すと、藤乃は素直に頷く。
「はい。とても疲れました」
家臣たちから、小さな笑いが漏れた。
藤乃も笑った。
これまでの旅で、姫だから疲れていないふりをする必要はないと知った。怖ければ怖いと言ってもいいし、悲しければ悲しいままでいい。
それでも、進むと決めることはできる。
藤乃は前方の山へ向き直った。
「では、参りましょう。今日は少しでも遠くまで行って、早く休みたいです」
源吾が思わず吹き出した。周囲の家臣たちも、今度ははっきりと笑った。
「姫様らしからぬお言葉ですな」
「そうでしょうか。源吾だって、早く休みたいでしょう?」
「それはもちろんでございます」
藤乃は満足そうに頷いた。
「ならば同じです。参りましょう」
一行が再び歩き始める。
藤乃は先頭ではなく、源吾の少し後ろを進んだ。自分が道を知っているわけではないのだから、案内できる者についていけばいい。
しかし誰かに運ばれているようにも見えなかった。
自分の足で歩いていた。
カメラは徐々に一行から離れていく。
山道を進む藤乃は、一度も後ろを振り返らなかった。
「カット!」
監督の声が響いた。
玲奈は数歩進んだところで止まり、振り返った。
監督はモニターを確認している。
周囲のスタッフも、いつもなら次の準備へ動き出すところだった。しかし今日は誰もすぐには動かなかった。
少しして、監督が顔を上げる。
「オーケーです」
玲奈は頷いた。
その直後だった。
「以上をもちまして、榊原藤乃役、天城玲奈さん、全撮影終了です!」
一斉に拍手が起こった。
玲奈は目を丸くした。
撮影が今日で最後だとは分かっていた。それでも実際に拍手を向けられると、急に終わったという実感が押し寄せてくる。
「玲奈ちゃん、お疲れさま!」
スタッフの一人から花束を渡され、玲奈は慌てて両手で受け取った。
「ありがとうございます!」
笑って答えたところで、少しだけ声が震えた。
最初の撮影の日から、何か月もこの現場へ通ってきた。初めて本格的な時代劇所作を習い、馬へ乗り、真田たちと榊原家の家族になった。
それが今日で終わる。
水城が近づき、玲奈の頭を優しく撫でた。
「お疲れさま、藤乃」
その呼び方を聞いた瞬間、玲奈の目に涙が浮かんだ。
「母上も、お疲れさまでした」
反射的にそう返してから、二人は顔を見合わせて笑った。
「最後まで母上なのね」
「水城さんって呼ぶより、そっちのほうが慣れちゃいました」
水城は笑いながら玲奈を抱きしめた。撮影の中では何度も娘を抱きしめてきたが、今度は志乃としてではなく、共演者としての抱擁だった。
そこへ真田もやって来た。
「玲奈ちゃん、お疲れさま。最初に会ったころより、ずいぶん立派な姫になったな」
「父上のおかげです」
「ほら、俺も父上になってる」
真田が笑うと、玲奈も涙を拭いながら笑った。
「でも、本当にありがとうございました。真田さんが宗景でよかったです」
玲奈が改めて頭を下げると、真田も少しだけ表情を変えた。
「こっちこそ。玲奈ちゃんとやれて楽しかったよ」
柴崎も最後に近づき、いつものように大げさに頭を下げた。
「姫様、長きお役目、お疲れさまにございました」
「源吾もお疲れさまでした」
「今後は誰がお守りすればよいのでしょうな」
「もう撮影終わりましたから、柴崎さんは自分で帰ってください」
玲奈が真面目な顔で答えたため、周囲から笑い声が上がった。
最後に監督が玲奈の前へ立った。
「最初のオーディション、覚えてる?」
「覚えてます。すごく緊張してました」
「俺はあのとき、面白い子が来たと思ったんだ。でも、ここまでになるとは思ってなかった」
監督は花束を抱えた玲奈を見る。
「上手くやろうとするより、相手を見ることを忘れなかった。それが一番よかった。これからも大事にしてほしい」
玲奈は真剣な顔で頷いた。
「はい。忘れません」
それから少し考え、笑う。
「でも、次は全然違う役もやってみたいです」
監督も笑った。
「それがいい。藤乃だけで終わったら、もったいないからね」
その日の帰り道、玲奈は車の中で花束を抱えていた。
母が運転席から「寂しい?」と尋ねると、玲奈は少しだけ考えてから頷いた。
「寂しい。でも楽しかった」
撮影が終わっても、大河ドラマの放送はまだ続く。
視聴者にとっての藤乃の物語は、これから先もしばらく画面の中で進んでいく。
けれど玲奈にとっては、今日が一つの区切りだった。
九条美月から始まり、小川ひなた、水野千夏、そして榊原藤乃。
いくつもの役を演じてきた。
その中でも藤乃は、玲奈を大きく変えた役になった。
演技とは、覚えた通りに動くことではない。
相手を見て、聞いて、その人物としてそこにいる。
藤乃を演じた時間の中で、玲奈はそれを身体で覚えていた。
だから次の役がどんな人物なのか、まだ知らなくても怖くなかった。
むしろ楽しみだった。
花束を抱えたまま窓の外を見ていた玲奈は、ふと母へ尋ねる。
「次のお仕事って、もう決まってる?」
「いくつかお話は来てるみたいよ。事務所の人が今度説明してくれるって」
「どんな役かな」
玲奈の声は期待に弾んでいた。
姫でもなく、病気の少女でもなく、元気な女の子でもない。
まだ出会ったことのない誰かになれる。
大河ドラマという長い舞台を終えた天城玲奈は、藤乃の衣装を脱いだその日から、もう次の役を楽しみにしていた。
そして事務所にはすでに、一つの企画書が届いていた。




