榊原家の誇り
大河ドラマの撮影が始まって三週間が過ぎたころ、榊原家の屋敷には、それまでとは違う緊張感が漂い始めていた。
これまで撮影してきたのは、宗景や志乃が子供たちと過ごす穏やかな日常が中心だった。しかし今日からは、周辺の大名たちの動きが活発になり、榊原家にも戦の気配が近づいてくる。物語の中ではまだ落城まで時間があるものの、平穏な日々が永遠には続かないことを、視聴者へ少しずつ伝えていく段階だった。
玲奈が撮影場所へ到着すると、屋敷の庭ではすでに大勢の家臣役が準備を進めていた。普段より甲冑姿の俳優が多く、廊下を行き交うスタッフの人数も増えている。今日は榊原家の重臣たちが集まる評定の場面があり、藤乃もその前後に登場する予定だった。
衣装を整えてもらった玲奈は、控室で台本を確認していた。今日の藤乃には、これまでのような家族との穏やかな会話とは異なり、領主の娘として人前に立つ場面が用意されている。そこで求められるのは、幼いながらも自分の立場を理解している姫君の振る舞いだった。
「玲奈ちゃん、おはよう。今日は少し雰囲気が違うでしょう?」
声をかけてきた水城は、いつもより格式の高い衣装をまとっていた。玲奈が頷くと、水城は台本を覗き込み、今日の撮影で最も楽しみにしている場面を尋ねてきた。
「最後のところです。藤乃が家臣の皆さんとお話しする場面を、早く演じてみたいです」
「なるほど。今日は私も近くで見られるから楽しみね」
水城はそう言って微笑んだが、その表情には少しだけ期待が混じっていた。ここ数週間、玲奈と芝居をするたびに、自分でも予想していなかった反応が生まれている。今日のように多くの俳優が集まる場面では、また違った藤乃を見られるかもしれない。
最初の撮影は、宗景と重臣たちによる評定だった。藤乃は登場せず、玲奈も撮影の邪魔にならない位置から見学することになった。
評定の議題は、隣国の軍勢が国境付近へ集まり始めているという報告だった。宗景は家臣たちの意見を聞きながら、城の守りを固めるべきか、それとも先に使者を送るべきかを検討する。家臣たちの意見は分かれ、室内には次第に険しい空気が漂い始めた。
玲奈は、その様子を静かに眺めていた。
真田の演じる宗景は、普段の家族場面とはまるで違っている。子供たちの前では穏やかな父親だった男が、家臣たちを前にすると一国の領主として振る舞っていた。怒鳴ることもなく、感情的になることもない。それでも、誰が最終的な決定を下す人物なのかは一目で分かった。
撮影が終わると、真田は玲奈のところへやって来た。今日の場面について感想を尋ねられた玲奈は、少し考えてから答える。
「宗景様は、皆さんのお話を最後まで聞いていました。でも、最後に決めるときは誰にも確認しませんでしたね」
「よく見てるな。藤乃も、ああいう父親の姿を何度か見てきたんだろうね」
真田はそう言って笑った。玲奈は頷きながら、次に撮影する場面のことを考える。今日の藤乃は、まさにその父親の姿を見て育った姫として、家臣たちの前に立つことになる。
昼前になると、藤乃が登場する場面の撮影が始まった。
場所は屋敷の広間だった。宗景が評定を終えたあと、志乃と藤乃が重臣たちへ挨拶する。さらに宗景から命じられ、藤乃が負傷した兵たちへ届ける品を家臣へ託すという内容だった。
大きな戦はまだ始まっていない。しかし国境での小競り合いによって負傷者が出ており、志乃は城に保管されていた薬や布を用意していた。その一部を藤乃自身の手で渡させることで、領主の家族にも果たすべき役割があることを教えようとしている。
監督は撮影前、家臣役の俳優たちへ簡単な説明を行った。藤乃は八歳だが、家臣たちにとっては榊原家の姫である。子供だからといって軽く扱うのではなく、当主の娘として接してほしいという内容だった。
玲奈に対しては、ほとんど説明がなかった。
「藤乃は、いつも通りでお願いします。今日の場面は任せるから」
「はい。よろしくお願いします」
玲奈は頭を下げ、所定の位置へ向かった。家臣役の俳優たちが並ぶ広間へ入ると、先ほどまでスタッフと談笑していた彼らも、それぞれの役へ意識を切り替えていく。
撮影開始の声が響いた。
広間では、宗景が上座に座っていた。左右には重臣たちが並び、志乃は夫の隣で静かに待っている。そこへ藤乃が姿を現すと、入り口に近い家臣が自然と頭を下げた。
藤乃は慌てることなく広間へ進み、父と母の前で丁寧に礼をした。続いて重臣たちへ向き直り、八歳の少女とは思えないほど落ち着いた声で挨拶する。
「皆様、本日も父上のためにお集まりいただき、ありがとうございます」
台本通りの言葉だった。しかし、その声を聞いた家臣役の俳優たちの表情が変わった。
幼い少女が大人の真似をしているようには聞こえない。礼儀を教えられた子供が、覚えた台詞を披露しているわけでもなかった。そこにいるのは、榊原家の姫として家臣たちへ感謝を伝える藤乃だった。
宗景が娘へ声をかける。
「藤乃。用意したものを、源吾へ渡しなさい」
「はい、父上」
藤乃は志乃のそばに置かれていた包みを受け取り、重臣の一人である源吾の前へ進んだ。源吾を演じる柴崎宗一は、長年にわたって時代劇へ出演してきたベテラン俳優だった。
柴崎は、近づいてきた藤乃へ膝をついて頭を下げる。
「藤乃様。これは、いったい何でございましょう」
「負傷された方々へお届けする薬と布です。母上と相談し、用意いたしました」
藤乃は包みを差し出した。
源吾が両手で受け取ろうとする。
しかし、そこで藤乃はすぐに手を離さなかった。
柴崎が顔を上げる。
藤乃は真っ直ぐに源吾を見つめていた。
「源吾。兵の皆様へ、私からもお伝えください」
「何とお伝えいたしましょう」
「榊原家のために傷を負われたこと、決して忘れません。どうか今は、お身体を大切になさってください、と」
玲奈の声は大きくなかった。
それでも広間の奥まで、はっきりと届いた。
柴崎は、藤乃の顔を見上げたまま動かなかった。
台本では、ここで源吾が感謝を述べ、包みを受け取ることになっている。しかし目の前にいる藤乃を見ているうちに、柴崎の中で別の感情が生まれていた。
この姫は、兵たちの傷を他人事だと思っていない。
父親に命じられたから品物を届けているのでもない。
自分の家を守るために戦った者たちへ、姫として感謝を伝えようとしている。
柴崎の源吾は、包みを受け取る前に深く頭を下げた。
「……ありがたきお言葉。兵たちも、さぞ喜びましょう」
予定よりも低い声だった。
藤乃は小さく頷き、ようやく包みから手を離した。
「お願いいたします」
そのやり取りを、宗景が静かに見守っていた。
真田は、ここで娘を褒める台詞を用意されていた。しかし藤乃の振る舞いを見た瞬間、単純に褒めるだけでは、この場面が終わってしまうように感じた。
「藤乃。兵たちへ、その言葉を伝えようと思ったのはなぜだ?」
台本にはない問いだった。
藤乃は父へ向き直る。
「皆様は、私たちを守るために戦ってくださっています。私にはまだ、皆様と同じように戦うことはできません」
そこで一度だけ言葉を区切った。
玲奈は宗景を見つめたまま、藤乃として答えを続ける。
「ですが、私にもできることがございます。父上や母上が教えてくださったように、榊原家の姫として、皆様のお力になりたいのです」
宗景は黙った。
その言葉は、娘が自分たちから何を学んできたのかを示していた。まだ八歳でありながら、藤乃は自分の立場を理解し、できることを考え始めている。
真田は、思わず志乃へ視線を向けた。
水城も娘を見ていた。
母親としての誇らしさと、いつか娘が自分たちの手を離れていくことへの寂しさが、志乃の表情に同時に浮かんでいる。
「……立派になりましたね、藤乃」
水城が静かに言った。
藤乃は母へ向き直り、柔らかく微笑んだ。
「まだまだ、母上には及びません」
その返事を聞いた志乃が、ほんの少しだけ笑う。
宗景も口元を緩めた。
ところが、そこで源吾が再び頭を下げた。
「藤乃様。我ら家臣一同、姫様のお言葉を胸に刻み、これからも榊原家へ忠義を尽くしてまいります」
台本にはない言葉だった。
周囲の家臣役も、自然と姿勢を正した。
誰かが合図を出したわけではない。
柴崎の源吾が頭を下げたことで、ほかの家臣たちも藤乃へ向かって礼をしたのだ。
広間の空気が変わった。
藤乃は、その光景を静かに受け止めた。
驚いた様子はない。
照れることもない。
自分より年上の家臣たちが頭を下げていることを、当然のように受け入れている。しかし、決して偉そうではなかった。
藤乃はゆっくりと頭を下げた。
「皆様、どうぞよろしくお願いいたします」
その礼を見た源吾が、さらに深く頭を下げる。
宗景は娘の姿を見つめながら、何も言わなかった。
今は父親として褒めるべき場面ではない。
榊原家の当主として、娘と家臣たちのやり取りを見届けるべき時間だった。
「カット!」
監督の声が響いた。
広間にいた俳優たちが、ゆっくりと顔を上げる。
しかし柴崎だけは、すぐに立ち上がらなかった。
目の前の玲奈を見てから、ようやく膝を伸ばす。
「……いや、参ったな」
柴崎が呟く。
玲奈は不思議そうに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いやいや。今のは、完全に源吾として頭を下げてしまったよ」
柴崎は笑った。
だが、その目は真剣だった。
長い俳優人生の中で、優秀な子役と共演した経験は何度もある。台詞を完璧に覚えている子もいれば、大人顔負けの表現力を持つ子もいた。
しかし今日の玲奈は、少し違った。
柴崎は最初、八歳の姫を演じる子役へ向かって礼をするつもりだった。ところが藤乃が包みを差し出し、兵たちへの言葉を託した瞬間、目の前にいる少女を守るべき主家の姫だと感じてしまった。
だから自然と頭が下がった。
芝居を合わせたのではない。
源吾として、藤乃へ忠義を示したくなったのだ。
「真田さん。これは、落城の場面が大変なことになりそうですな」
柴崎がそう言うと、真田も笑った。
「でしょう? 俺も最近、玲奈ちゃんと芝居をすると予定が変わるんですよ」
「それは困りましたな。台本を覚える意味がなくなってしまう」
冗談を言いながらも、柴崎の表情は楽しそうだった。
監督がモニターから顔を上げる。
「今の場面、全部使います。特に最後の家臣たちが頭を下げるところは、別角度からも押さえたいですね」
スタッフが準備を始めた。
玲奈は監督から何も修正されなかったため、そのまま次の撮影へ向かうことになった。追加で撮影するのは、藤乃を見つめる家臣たちの表情が中心だった。
午後になると、撮影は屋敷の庭へ移った。
次の場面では、藤乃が父の宗景と二人で話すことになっている。
評定が終わったあと、宗景が娘を庭へ呼び、先ほどの振る舞いについて言葉を交わす。そこで藤乃は、父から榊原家の姫として何を大切にすべきなのかを教わる。
撮影前、真田は玲奈へ声をかけた。
「玲奈ちゃん。次の場面、ちょっと楽しみにしてるんだ」
「私もです。父上と二人でお話しする場面、久しぶりなので」
玲奈が笑うと、真田も笑った。
しかし本番が始まると、その表情は宗景のものへ変わった。
庭には、秋の気配を感じさせる木々が並んでいた。
宗景は縁側へ腰を下ろし、娘を隣へ呼ぶ。
「藤乃。先ほどは立派だったな」
藤乃は父の隣へ座り、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、父上」
「だが、一つだけ覚えておきなさい」
宗景の声が少し低くなる。
藤乃は姿勢を正した。
「人から頭を下げられることを、当たり前だと思ってはならぬ」
玲奈は父を見た。
藤乃の表情には、戸惑いよりも真剣さが浮かんでいた。
「はい、父上」
「源吾も、ほかの家臣たちも、お前が榊原家の姫だから頭を下げる。だが、彼らにも家族がいる。守るべきものがある。それを忘れてはならぬ」
藤乃は静かに頷いた。
宗景は娘へ視線を向ける。
「お前は今日、兵たちのことを考えていた。それはよいことだ。だが、これからも同じように考え続けなければならぬ。姫として生きるとは、そういうことだ」
藤乃は父の言葉を聞きながら、少しだけ庭へ目を向けた。
風が木々を揺らしている。
遠くでは、家臣たちが仕事を続けていた。
藤乃はその姿を見つめてから、再び父へ向き直った。
「父上。私は、榊原家の姫であることを誇りに思っております」
真田の宗景が、娘を見る。
「そうか」
「ですが、その誇りは、皆様が私たちを支えてくださっているからこそ持てるものなのですね」
宗景はすぐには答えなかった。
台本では、ここで娘を褒めることになっていた。
しかし真田は、目の前にいる藤乃を見ながら、別の言葉を選んだ。
「……お前がそう思ってくれるなら、父は嬉しい」
藤乃は微笑んだ。
その笑顔には、先ほど家臣たちの前で見せた気品とは違う、父親に向ける親しみがあった。
「父上。私も、いつか皆様のお役に立てるようになりたいです」
「もう十分、役に立っているさ」
宗景は娘の頭へ手を伸ばしかけた。
しかし途中で止める。
藤乃は、もう幼い子供として扱われるだけの年齢ではない。
父親として抱きしめてやりたい気持ちはある。
だが同時に、榊原家の姫として育ち始めた娘の誇りも尊重したかった。
真田は手を下ろし、代わりに静かに頷いた。
「これからも、よく学びなさい」
「はい、父上」
藤乃は深く頭を下げた。
その姿を見た宗景が、満足そうに微笑む。
「カット。オーケーです!」
監督の声が響いた。
玲奈は顔を上げ、真田を見る。
真田は少しだけ困ったように笑っていた。
「いやあ、今のは危なかった」
「何がですか?」
「頭を撫でたくなったんだけど、宗景ならどうするかなって考えちゃってね」
玲奈は少し考えた。
「藤乃は、撫でてもらったら嬉しかったと思います」
「そうか。じゃあ、今度は撫でようかな」
「でも、皆さんの前では恥ずかしがると思います」
玲奈がそう付け加えると、真田は声を上げて笑った。
その様子を少し離れたところから見ていた監督も、満足そうに頷いている。
今日の撮影で、藤乃という少女の姿がさらに明確になった。
家臣たちの前では榊原家の姫として堂々と振る舞い、父や母の前では年相応の感情も見せる。しかし、その根底にあるのは、自分が榊原家の一員であるという揺るぎない自覚だった。
そして、その藤乃を演じている玲奈自身も、以前とは明らかに違っていた。
撮影が終わるころには、現場の俳優たちの間で、玲奈の話題が自然と増えていた。
柴崎は休憩中、ほかの家臣役の俳優たちへ今日の出来事を話していた。藤乃から包みを渡された瞬間、本当に主家の姫を前にしているような感覚になったこと。予定していなかった言葉が自然と出てきたこと。そして、玲奈がそのすべてを藤乃として受け止めていたこと。
話を聞いた俳優たちは、最初こそ冗談だと思っていた。しかし実際に撮影した映像を確認すると、柴崎の言葉が大げさではないことに気づいた。
そこには、子役へ合わせて演技をする大人たちの姿はなかった。
榊原家の姫へ忠義を示す家臣たちがいた。
監督は、その映像を何度も確認していた。
藤乃が家臣たちの前へ立ち、静かに言葉を伝える。源吾が頭を下げると、周囲の家臣たちも自然と続く。その中心にいる玲奈は、誰よりも幼いにもかかわらず、決して場の空気に負けていなかった。
むしろ、彼女がいることで場面全体に説得力が生まれている。
監督は隣にいた助監督へ声をかけた。
「落城の場面、家臣たちの配置を少し考え直そう」
「配置ですか?」
「ああ。藤乃が最後に皆を率いて城を出るところだ。今の映像を見ると、あの子が一人で前に立つだけでも十分に成立すると思う」
助監督は頷き、撮影予定表へ目を落とした。
落城の撮影までは、まだ数日ある。
しかし監督の頭の中では、すでに最後の場面の映像が変わり始めていた。
家臣たちに守られて逃げる幼い少女ではない。
榊原家の姫として、家臣たちの前に立つ藤乃。
父と母から受け継いだ誇りを胸に、城を離れる決断をする八歳の姫君。
その姿を、今の玲奈なら演じられる。
監督はモニターに映る藤乃を見つめながら、静かに笑った。
「……これは、楽しみになってきたな」
そのころ玲奈は、控室で母と一緒に帰り支度をしていた。
今日も演技について修正を受けることはなく、撮影は予定通りに終了している。玲奈自身は、現場の俳優たちが自分について何を話しているのか知らなかった。
ただ、今日の撮影がとても楽しかったことだけは確かだった。
「お母さん、今日ね、源吾役の柴崎さんがすごかったの」
「どうしたの?」
「藤乃がお願いしたら、本当に家臣みたいに頭を下げてくれて。私も、もっと藤乃として頑張ろうって思った」
母は、娘の話を聞きながら微笑んだ。
玲奈は、自分が周囲の演技を引っ張っていることに気づいていない。
むしろ、周囲の俳優たちが素晴らしい演技をしてくれるからこそ、自分も藤乃として自然に振る舞えるのだと思っていた。
その感覚は、決して間違っていなかった。
玲奈が周囲の芝居を引き出し、周囲の芝居が玲奈をさらに役の中へ引き込む。そんな関係が、撮影を重ねるたびに深まっている。
そして数日後。
いよいよ、榊原家の運命を大きく変える場面の撮影が始まろうとしていた。
藤乃が生まれ育った城を失い、父と母に別れを告げる日が近づいていた。




