武家の姫
大型時代劇の企画書を持ち帰ったその日から、玲奈の生活には新しい時間が加わった。
学校から帰って宿題を終え、夕食まで少し時間があれば資料を読む。分からない言葉が出てくれば印をつけ、あとで母と一緒に調べる。寝る前にはオーディション用の台本を読み直したが、これまでのように台詞を先に覚えることはしなかった。
今回の役は、それでは足りないと思ったからだ。
玲奈が演じる少女の名は、藤乃。
戦国時代、山間部に領地を持つ武家・榊原家の姫として生まれた八歳の少女だった。
父は榊原家当主・宗景。母は正室の志乃。兄が一人おり、本来なら藤乃が家督について考える必要はない。それでも武家に生まれた娘として、幼いころから読み書きや礼法を学び、いずれ他家へ嫁ぐことも自分の役目の一つだと教えられている。
企画書に書かれている設定だけなら、玲奈にとって理解しにくい少女ではなかった。
むしろ近すぎた。
家のために教育を受け、自分の立場にふさわしい振る舞いを求められる。幼いころから将来の婚姻が個人だけの問題ではないと教えられ、大人の客人の前では年齢以上の礼節を求められる。
セレスティア・アルヴェインとして生きた自分と、いくつもの共通点があった。
だからこそ玲奈は、最初の夜にノートの一番上へ大きく書いた。
藤乃はセレスティアではない。
前世の自分をそのまま持ってくれば、武家の姫らしく見える部分はあるだろう。
しかし、それでは藤乃を演じたことにはならない。
セレスティアは公爵家の娘として、王妃になるための教育を受けた。藤乃は戦国の世に生きる武家の娘であり、家族との関係も、信じるものも、日々目にする景色も違う。
玲奈は企画書を最初から読み直しながら、共通点より相違点を探し始めた。
藤乃は父を恐れていない。
むしろ大好きだった。
厳しく叱られることはあっても、乗馬や弓の稽古を褒められれば素直に喜ぶ。母とは礼法の稽古で衝突することがあり、兄には負けたくないと張り合っている。
家のために生きることを、まだ苦しいとも不自由だとも思っていない。
それは玲奈にとって重要な違いだった。
セレスティアは人生の最後になって初めて、自分が一度も才能を自分自身のために使ってこなかったことを突きつけられた。
藤乃は八歳である。
まだ人生を悔いる年齢ではない。
父から認められれば嬉しく、兄に勝てば得意になり、母に叱られれば少し不満を持つ。それでも自分が榊原家の姫であることを疑ってはいない。
やがて城が戦に巻き込まれ、その当たり前だった世界が一夜で崩れる。
だから序盤から悲劇の姫として演じれば、その変化が消えてしまう。
玲奈は以前、映画の撮影で言われたことを思い出した。
最後に悲しいからといって、最初から悲しい顔をする必要はない。
その経験が、ここでもつながった。
翌週、事務所ではオーディションに向けた特別な稽古が始まった。
普段の演技レッスンとは別に、時代劇の所作指導を担当している講師が呼ばれていた。六十代ほどの女性で、長年にわたり映画やテレビドラマで俳優への所作指導をしている人物だった。
稽古場へ入った玲奈は、いつものように一礼した。
その直後、講師から最初の指摘が飛んできた。
「綺麗ね。でも今回、そのお辞儀は忘れましょうか」
玲奈は顔を上げた。
まだ何も演じていない。
それどころか挨拶をしただけだった。
講師は玲奈の困惑を面白そうに眺めながら、床に座るよう促した。
「あなた、普段から姿勢を褒められるでしょう?」
「はい」
「礼儀作法も習っている?」
玲奈は一瞬だけ考えた。
現代で専門的に習ったことはほとんどない。
それでも幼いころから姿勢がよく、両親からも食事や挨拶の仕方を教わっている。その範囲で答えれば問題はなかった。
「お母さんたちに教えてもらったり、演技の練習で習ったりしました」
「なるほど。だから洋服を着ていると、とても綺麗なの。でも時代劇で求める綺麗さとは少し違うわ」
講師は玲奈の前へ座ると、自分で一度礼をしてみせた。
玲奈はその動きを注意深く見る。
背筋を伸ばす。
頭を下げる。
それだけなら同じに見える。
しかし細かく観察すると、身体の使い方が違った。
玲奈が普段している礼は、前世の宮廷礼法が無意識に土台となっている。現代風に調整していても、相手へ自分を美しく見せることまで含んだ動きになっていた。
講師の礼は、もっと重心が低い。
畳の上で着物を着ていることを前提とした動きだった。
「やってみましょう」
促され、玲奈は真似をした。
一度見た動きを再現すること自体は難しくない。
しかし講師は玲奈の周囲を歩き、肩や腰の位置を細かく確認した。
「覚えるのは早いわね。でも、まだお姫様というより外国のお姫様が時代劇を真似している感じ」
玲奈は思わず講師を見た。
あまりにも的確だった。
もちろん講師が前世を知っているはずはない。
単純に玲奈の身体へ染みついた所作を見抜いただけである。
「そんなに違いますか?」
「違うわよ。でも、それは悪いことじゃない。最初から何の癖もない人なんていないから。あなたの場合は癖が綺麗すぎるだけ」
講師は笑いながら、今度は立ち上がった。
そこから一時間ほど、玲奈は座り方、立ち方、歩き方を教わった。
普段の玲奈なら、一度説明されれば二回目にはかなり近づけられる。
今回も形だけなら早かった。
けれど、着物を着た状態で自然に動くことは別だった。
練習用の着物を着せてもらうと、歩幅が変わる。袖の扱いを忘れれば物へ引っかかりそうになり、床へ座る動作でも洋服のときと同じようにはいかない。
玲奈は何度も立っては座り、そのたびに講師から細かな修正を受けた。
途中で佐伯が稽古場を覗きに来たときには、玲奈の額にうっすら汗が浮かんでいた。
「珍しい。玲奈ちゃんが苦戦してる」
「難しいです」
玲奈は素直に認めた。
佐伯は少し意外そうにしたあと、むしろ安心したように笑った。
「よかった。何でも最初からできたら、教える方が困るもの」
その言葉に講師も同意した。
「でも吸収は早いですよ。さっき注意した歩幅は、もう戻らなくなりました。ただ、この子は自分の中に完成した姿勢があるから、それを崩す方が大変ね」
玲奈は二人の話を聞きながら、自分の足元を見た。
九条美月のときには武器だったものが、藤乃では邪魔になることがある。
その事実が面白かった。
才能は、持っていればどんな場面でも正解になるわけではない。
使い方を変えなければならない。
それは女優という仕事を始めなければ、気づかなかったことかもしれない。
所作の稽古が終わるころ、講師はオーディション用の台本を確認した。
指定されているのは二つの場面だった。
一つ目は、父・宗景へ稽古の成果を見せる場面。
藤乃がまだ何も失っていないころの場面である。
二つ目は、城から脱出する直前。
敵が迫る中、家臣から父母が城に残ると知らされ、それでも自分は逃げなければならないと理解する場面だった。
同じ少女の、まったく違う二つの時間を演じる。
講師は最初の場面から始めることにした。
玲奈は藤乃として父の前へ座る。
相手役は村瀬が務めた。
藤乃はこの日、初めて一人で馬場を一周したという設定だった。
「父上。本日の稽古では、一度も馬を止めませんでした」
玲奈は嬉しさを抑え、できるだけ落ち着いて報告した。
村瀬が宗景として頷く。
「そうか。それは見事であった」
「ありがとうございます」
玲奈は礼をする。
そこで講師が止めた。
「上手。でも八歳じゃないわね」
玲奈は姿勢を戻し、理由を考えた。
「大人っぽすぎますか?」
「それもあるけれど、褒められることに慣れすぎているの。藤乃は今日、お父さんに褒めてもらいたくて報告に来たんでしょう?」
玲奈は台本を見た。
確かにそうだった。
自分は「武家の姫として父へ報告する」という部分を意識しすぎていた。
しかし藤乃にとって宗景は当主である前に父親でもある。
もう一度最初から始めた。
今度は父の前へ座ったときから、玲奈はわずかに期待を持たせた。
姿勢は崩さない。
けれど宗景の返事を待つ視線には、早く褒めてほしい気持ちがある。
「父上。本日の稽古では、一度も馬を止めませんでした」
村瀬が感心したように頷いた。
「そうか。それは見事であった」
玲奈の口元が少しだけ緩んだ。
すぐに姫らしい表情へ戻そうとしたが、完全には隠しきれない。
「ありがとうございます。次は兄上より速く走ってみせます」
台本にはない一言だった。
村瀬が少し笑う。
「兄に勝ちたいか」
「はい」
今度は迷わず答えた。
講師はそこで演技を止めた。
「こっちの方が藤乃が八歳に見えるわね。姫だから子供じゃないんじゃなくて、子供だけど姫なの。その順番を忘れないで」
玲奈はその言葉をノートへ書いた。
子供だけど姫。
簡単な言葉だった。
けれど重要だった。
前世の自分も、最初から完成した公爵令嬢だったわけではない。
褒められれば嬉しかったし、兄弟はいなかったものの、同年代の令嬢に負ければ悔しいと思ったこともある。
教育を受けるうちに、そうした感情を表へ出さなくなっただけだ。
藤乃はまだ、その途中にいる。
続いて二つ目の場面へ移った。
城が敵軍に包囲され、父母が残ることを知る場面。
こちらは玲奈自身も何度も台本を読んでいた。
家臣が膝をつき、藤乃へ告げる。
「姫様。殿と御方様は城へ残られます。我らは姫様をお連れし、北の砦へ向かいます」
玲奈は返事をしなかった。
台本では、ここで藤乃が父母も一緒に来るよう求める。
玲奈はその台詞を言おうとして、講師から止められた。
「今、もう全部分かっていたでしょう?」
指摘され、玲奈は黙った。
確かに分かっていた。
家臣が何を意味しているのか。
父母がなぜ残るのか。
藤乃が逃げなければならない理由も。
セレスティアだった自分なら、説明される前に理解しただろう。
「藤乃は八歳よ」
講師は先ほどと同じことを言った。
「賢い子ではある。でも戦で城を失うのは初めて。お父さんとお母さんが自分と一緒に逃げないなんて、考えたこともなかったはずでしょう?」
玲奈は息を吐いた。
また自分を使いすぎた。
藤乃を理解するために前世の経験を利用することと、藤乃へ前世の自分の判断力を与えることは違う。
二回目。
家臣から同じ言葉を告げられる。
玲奈は最初、意味が分からないように相手を見た。
「父上と母上は?」
「城へ残られます」
「ですから、いつ来られるのです?」
家臣は答えない。
その沈黙で、藤乃は少しずつ理解する。
玲奈の呼吸が浅くなった。
泣こうとはしない。
まだ泣くところまで感情が追いついていない。
「……父上も、一緒ではないのですか」
声が先ほどより小さくなる。
家臣役の村瀬は目を伏せた。
そこで玲奈はようやく、父親が来ないという意味を理解した。
次の台詞まで時間がかかった。
「嫌です」
大きな声ではなかった。
「父上に、私も行くと伝えてください」
「なりませぬ」
「では母上に――」
「姫様」
村瀬の声が少し強くなる。
玲奈は言葉を止めた。
ここで初めて、目の前にいる家臣も苦しんでいることに気づく。
父母を置いて逃げたい者などいない。
それでも自分を連れて行かなければならない。
玲奈は膝の上で手を握った。
怖い。
行きたくない。
父と母のところへ戻りたい。
けれど自分が泣き続ければ、この人たちは困る。
そのことまで理解できてしまう程度には、藤乃は武家の姫として育てられていた。
「……分かりました」
玲奈は一度だけ目を閉じた。
次に顔を上げたとき、涙は落ちていなかった。
「皆の者、参ります」
稽古場が静かになった。
玲奈はそのまま藤乃として座り続けた。
しばらくして講師から「そこまで」と声がかかり、ようやく肩の力を抜く。
講師はすぐには褒めなかった。
台本を確認しながら、何かを考えている。
「最後はいい。でも、まだ綺麗すぎるわね」
「綺麗すぎる?」
「泣かないようにするのが上手すぎるの。藤乃は泣かないと決めているんじゃなくて、泣きそうなのを必死で止めている。そこは違うでしょう?」
玲奈は返事をせず、自分の演技を振り返った。
言われれば、その通りだった。
感情を抑えることは得意だった。
前世で何度も求められたからだ。
しかし藤乃は、まだ八歳。
完璧に隠せる必要はない。
むしろ隠しきれない方が自然だった。
この役は、自分に近いから簡単なのではない。
近いからこそ、違いを見失いやすい。
玲奈はその日、稽古が終わってもすぐには台本を閉じなかった。
講師から受けた指摘を一つずつ書き込み、自分が藤乃へ持ち込んでしまったものを確認していく。
礼が綺麗すぎる。
褒められることに慣れすぎている。
状況を理解するのが早すぎる。
感情を隠すのが上手すぎる。
どれも、これまでなら長所と呼ばれていたものだった。
それを削らなければ、八歳の藤乃にはならない。
玲奈はノートの最後に一つだけ書き加えた。
できることを見せるのではなく、藤乃に必要なことだけを使う。
オーディションまでは、あと十日。
そして玲奈はまだ知らなかった。
その十日の間に始まる乗馬の確認で、今度は反対に、隠そうとしても隠しきれないほど前世の経験が現れることを。




