病院で暮らす少女
水野千夏役が決まってから二週間後、玲奈は母とともに撮影スタジオを訪れていた。
今回のドラマでは病院が物語の中心となるため、スタジオ内には病室だけでなく、ナースステーションや廊下まで作られている。初めて足を踏み入れた玲奈には本物の病院とほとんど区別がつかなかったが、よく見れば窓の外には景色がなく、廊下の先も撮影に必要なところで途切れていた。
玲奈が演じる千夏は物語の主人公ではない。
主人公は、突然の病気で入院することになった八歳の少女・春香と、その家族である。健康だった少女が初めて長期入院を経験し、家族や病院で出会った人々との関係を通して少しずつ現実を受け入れていく物語だった。
千夏は春香と同じ病室にいる先輩患者として、全十話のうち六話ほどに登場する。
出番だけなら小川ひなたより少ない。
それでも玲奈にとっては、これまでで最も役作りに時間を使った人物だった。
衣装へ着替えた玲奈は、撮影開始前に病室のセットを確認した。千夏のベッド脇には児童書や漫画、色鉛筆の入ったケースが置かれ、小さな棚には家族写真と折り紙で作った動物が並んでいる。
玲奈はスタッフへ許可をもらい、一つずつ手に取った。
千夏が三か月暮らしている場所なら、どこに何があるのか迷わないはずだった。
色鉛筆は上の引き出し。
漫画はベッドの下。
水筒は手を伸ばせば届く位置。
その配置を覚えながら、玲奈はベッドへ腰を下ろした。
九条美月のときには、正しい姿勢を求められた。
小川ひなたなら、ベッドへ飛び乗って注意されたかもしれない。
では、千夏ならどう座るのか。
玲奈は背もたれへ身体を預けてみた。
少し違う。
長く入院している子なら、ここは他人の家ではない。行儀よく座る場所でもなければ、初めて見る家具でもない。
玲奈は枕の位置を少し動かし、自分が楽だと思える姿勢を探した。
「そこまでやるんだ」
声をかけてきたのは、春香役の子役・白石芽衣だった。
八歳の芽衣は玲奈より二歳上で、すでにいくつものドラマや映画に出演している。今回もオーディションではなく制作側から声をかけられており、玲奈がこれまで共演した子役の中では最も経験が長かった。
「千夏ちゃんは、ここにずっといるから」
玲奈が答えると、芽衣は自分が演じる春香のベッドを見た。
そちらにはまだ荷物が少ない。
入院したばかりの春香と、三か月目の千夏。
同じ病室でも、置かれている物からすでに二人の違いが作られていた。
「じゃあ私は、どこに何があるか知らない方がいいんだ」
「たぶん。春香ちゃん、今日来たばっかりだもん」
芽衣は少し考えたあと、玲奈とは反対にセットを詳しく見ないことにしたらしい。自分のベッド周辺だけ確認すると、それ以上は歩き回らず台本を読み始めた。
その姿を見て、玲奈は感心した。
同じセットでも、役によって知っていていいことが違う。
自分一人では思いつかなかった考え方だった。
最初に撮影するのは、オーディションでも演じた二人の出会いだった。
春香が母親とともに病室へ入り、不安そうにベッドへ座る。母親が手続きをするために一度退室すると、二人きりになった病室に気まずい沈黙が生まれる。
玲奈は自分のベッドで漫画を読んでいた。
すぐには話しかけない。
春香が荷物を整理する音を聞きながらページをめくり、しばらくしてから顔を上げる。
「売店、行った?」
突然の質問に、芽衣が戸惑ったように玲奈を見る。
「まだ」
「アイスあるよ。バニラがおいしい」
「……アイス、食べていいの?」
「先生に聞いてからね。勝手に食べると怒られるから」
千夏にとっては当たり前の注意だった。
春香にとっては、病院にもアイスがあること自体が意外だったらしい。少しだけ表情が変わったのを見て、玲奈は漫画へ栞を挟んだ。
そこから売店や看護師の話へ進む。
オーディションで何度も練習した場面だったため、玲奈は台詞を覚えている。しかし本番では、芽衣の反応が練習相手とは違った。
芽衣の春香は、あまり笑わなかった。
質問には答えるが、警戒するように玲奈を見ている。
玲奈は無理に笑わせようとはしなかった。
千夏だって、今日会ったばかりの相手とすぐ仲良くなれるとは思っていないはずだった。
だから必要なことだけ教え、自分の漫画へ戻る。
監督からカットがかかると、玲奈は芽衣と一緒にモニター前へ呼ばれた。
「二人とも悪くない。玲奈ちゃんは、もう少し春香を気にしてもいいかな。ただし、心配してる顔は作らなくていい」
玲奈は映像を見ながら考えた。
気にする。
でも心配している顔はしない。
言葉だけでは少し難しい。
監督は二人の映像を巻き戻し、玲奈が漫画へ戻る部分で止めた。
「千夏は新しい子が来るのに慣れてる。でも、興味がないわけじゃないよね。漫画を読んでても、ちょっとだけ春香のことを見てるくらいでいい」
玲奈は頷いた。
二回目の撮影では、漫画へ戻ったあとも完全には春香から意識を外さなかった。ページをめくりながら、荷物を整理する音が止まったときだけ視線を上げる。
春香がこちらを見ると、すぐ漫画へ戻る。
それだけだった。
監督からカットがかかり、今度は撮り直しにならなかった。
玲奈は小川ひなたの現場で覚えたことを思い出していた。
一度教えてもらったことを、次に使う。
それだけなら以前からできた。
最近は、教えられた内容を別の場面でも使えるようになってきている。
午後には、春香が初めて採血を怖がる場面を撮影した。
処置そのものを映す場面ではなく、順番を待つ二人の会話が中心だった。
芽衣は椅子へ座り、落ち着かない様子で指先を動かしている。
玲奈は隣で児童書を読んでいた。
「痛い?」
春香から尋ねられ、千夏は本から顔を上げる。
台本に書かれている返事は短かった。
「ちょっとね」
玲奈は必要以上に優しい声を作らなかった。
痛くないと嘘をつけば、あとで分かる。
だから本当のことを言う。
春香の表情がさらに曇ったところで、玲奈は本を閉じた。
「でも今日は宮本さんだから大丈夫」
「誰?」
「上手な人。すぐ終わるよ」
そこで看護師役の女性が二人を呼ぶ。
春香は立ち上がらない。
玲奈は先に立ち、数歩進んでから振り返った。
ここで手を差し出すのか。
玲奈は一瞬迷った。
けれど千夏は、春香より年下だった。
何でも知っているように振る舞っていても、七歳の少女である。
玲奈は手を差し出す代わりに、春香を待った。
「宮本さんのときに行った方がいいよ。あとで佐藤さんになっても知らないから」
春香が慌てて立ち上がった。
監督からカットがかかると、現場に小さな笑いが起きた。
看護師役の女優まで笑っている。
「佐藤さん、完全に外れ扱いだね」
監督が笑いながら言うと、玲奈は少し困った。台本にも佐藤という看護師の名前は出てくるが、実際に下手だとは書かれていない。
それでも監督は、今の場面をそのまま使うことにした。
「千夏が三か月ここにいる感じが出てる。病院のことなら春香より自分の方が詳しいっていう、小さな先輩なんだよね」
その言葉を聞いて、玲奈は千夏という少女を少し理解できた気がした。
病気だから大人しいわけではない。
長く入院しているから達観しているわけでもない。
七歳なりに自分の生活へ慣れ、その中で知っていることが増えただけなのだ。
撮影は数週間にわたって続いた。
玲奈の出番は毎日あるわけではなく、学校へ通いながら週末や放課後を中心に撮影へ参加した。
ある日は、春香と二人で病院食のデザートを交換した。
別の日には、消灯後に小さな声で話して看護師から注意された。
院内学級の場面では算数の問題を間違え、春香から教えてもらった。
千夏は病院に詳しい。
けれど何でもできるわけではない。
春香を助けるだけの存在でもなかった。
二人は少しずつ友達になり、千夏が教える日もあれば、春香に助けてもらう日も増えていった。
玲奈自身も、芽衣から多くのことを学んでいた。
特に驚いたのは、撮影の合間だった。
次の場面まで時間が空いたとき、玲奈はいつものように台本を読み直していた。そこへ芽衣が隣へ座り、玲奈の台本を覗き込んだ。
「玲奈ちゃん、ずっと台本見てるよね」
「次のところ、確認してるの」
「覚えてない?」
「覚えてるけど、間違えたくないから」
玲奈が答えると、芽衣は少し考えてから、自分の台本を閉じた。
「私、覚えたらあんまり見ないよ。台詞ばっかり考えちゃうから」
玲奈には意外だった。
前世では、覚えるべきことは何度でも確認するのが当然だった。間違えないために準備し、必要なら直前まで復習する。
しかし演技では、それが必ずしも正しいとは限らないらしい。
芽衣は次の場面について簡単に説明した。
台詞を完璧に思い出そうとしすぎると、相手が話している間にも自分の次の台詞を頭の中で確認してしまうことがある。それより、十分覚えたなら一度台本を閉じて、相手を見る方がやりやすいという。
以前、菜々から教わったことと似ていた。
相手の台詞を待つのではなく、聞く。
玲奈は自分の台本を見たあと、思い切って閉じた。
「じゃあ、今日はこれでやってみる」
「忘れたら見ればいいじゃん」
芽衣は簡単に言った。
その気楽さが、玲奈には少し羨ましかった。
完璧に準備してから臨むのではなく、必要なら途中で直せばいい。
最近の玲奈が演技を通して覚え始めた考え方だった。
撮影終盤には、千夏にとって大きな場面が待っていた。
春香より先に退院が決まるのである。
オーディションでは反対の条件を出されたが、本編では千夏が先だった。
医師から退院できると告げられ、母親と一緒に喜ぶ。
そのあと病室へ戻り、春香へ報告する。
台本を読んだとき、玲奈はこの場面を難しいと思った。
千夏はずっと退院したかった。
当然、嬉しい。
けれど仲良くなった春香は病院に残る。
嬉しいのに、少し言いづらい。
その二つをどう見せればいいのか、玲奈は撮影当日まで答えを決めなかった。
病室のセットへ入り、芽衣の顔を見てから考えることにした。
撮影が始まる。
春香はベッドで宿題をしていた。
玲奈は病室へ入ってくると、自分のベッドへ向かう途中で足を止めた。
「春香」
「なに?」
「私、退院していいって」
玲奈は笑った。
千夏は嬉しい。
そこを隠す必要はない。
「ほんと? いつ?」
「明後日」
「よかったじゃん!」
芽衣が笑顔になる。
その笑顔を見て、玲奈も嬉しくなった。
「うん。家帰ったら、お母さんがハンバーグ作ってくれるって」
「いいなあ」
「春香も退院したら食べればいいじゃん」
言ってから、玲奈は少しだけ止まった。
春香の退院日はまだ決まっていない。
励ますために「すぐ退院できる」と言うこともできた。
けれど千夏は、病院に長くいる。
予定通りにいかないことも知っている。
玲奈は安易な言葉を選ばなかった。
「退院したらさ、外で遊ぼうよ」
「どこで?」
「まだ決めてない」
「決めてないの?」
「だって、病院じゃないところならどこでもいいもん」
芽衣が笑った。
玲奈も笑う。
それから自分の棚へ向かい、三か月かけて増えた荷物を眺めた。
「これ、二日で片づけるの面倒くさいなあ」
退院という大きな出来事の直後なのに、千夏が気にしたのは荷物だった。
監督は最後まで止めなかった。
撮影が終わると、玲奈はモニターで自分の演技を確認した。
泣いていない。
春香も泣いていない。
それでも二人が離れることを少し寂しく思っているのは、玲奈自身にも分かった。
「このままでいこう」
監督は大きな修正を出さなかった。
「別れの場面だからって、必ず泣く必要はないからね。この二人なら、また会うつもりで別れる方が自然だと思う」
玲奈はその言葉を覚えておくことにした。
感情が大きいから、大きく表現するとは限らない。
九条美月では、感情を抑える演技を知った。
小川ひなたでは、考えるより先に身体が動く人物を知った。
水野千夏からは、自分とは違う日常を想像することと、悲しい場面だから悲しそうに演じればいいわけではないことを学んだ。
そして数日後、玲奈の出演場面はすべて撮り終えた。
最後の撮影を終えると、スタッフから小さな花束を渡された。
「天城玲奈さん、水野千夏役、オールアップです!」
拍手に包まれながら、玲奈は花束を受け取った。
「ありがとうございました!」
以前より少しだけ大きな声で挨拶すると、現場からさらに拍手が返ってくる。
芽衣も近くまで来ており、撮影が終わった玲奈へ手を振っていた。
「またどこかで会ったらよろしくね」
「うん。芽衣ちゃん、ありがとう」
「次は私より先に台本閉じてたりして」
「それはまだ無理かも」
二人で笑い、玲奈は母のもとへ戻った。
三つ目の役が終わった。
けれど今回は、撮影が終わった寂しさよりも、次はどんな人物を演じるのだろうという楽しみの方が大きかった。
帰りの車の中で花束を抱えながら、玲奈は窓の外を眺めた。
女優になりたいと思ったころは、自分が持っている才能を使えることが嬉しかった。
今は少し違う。
自分が持っていないものを覚えられることが楽しい。
それから数か月後、水野千夏を演じたドラマが放送される。
そのころには玲奈は七歳になり、別の撮影現場で新しい役と向き合っていた。
九条美月、小川ひなた、水野千夏。
三人の少女を演じた経験は、まだ小さな経歴にすぎない。
それでも制作関係者の間では、天城玲奈について一つの評価が定着し始めていた。
最初から何でもできる子ではない。
けれど、一度教えたことを次の現場まで持っていく。
そして役が変われば、前の役を引きずらず、また一からその人物を作ろうとする。
七歳になった玲奈のもとには、前年よりも明らかに多くのオーディションの話が届くようになっていた。




