笑わせる演技
小川ひなた役の撮影が始まってから一か月ほど経つころには、天城玲奈にとって撮影現場は、最初に足を踏み入れたときほど未知の場所ではなくなっていた。床に貼られた印を確認して立つこと、同じ場面を別角度から撮るときに動作を揃えること、スタッフが慌ただしく動いている時間には邪魔にならない場所で待つことなど、最初はいちいち意識していたことが少しずつ身体へ馴染んでいる。
もちろん、まだ知らないことはいくらでもあった。けれど一度覚えたことを毎回考えなくても使えるようになったことで、その分だけ相手役の表情や声へ意識を向ける余裕が生まれている。藤崎菜々から教えてもらった「次の台詞を待つのではなく、相手の言葉を聞く」ということも、最初のころほど意識しなくても少しずつできるようになっていた。
この日の午前中に予定されているのは、小川家の休日を描く場面だった。父親が珍しく仕事を休めたため、家族四人でホットケーキを作る。ただそれだけの日常的な場面だが、監督によれば、事件が起きない場面ほど家族の普段の関係が見えるため、意外に大切なのだという。
撮影用のキッチンではスタッフが材料や調理器具を準備しており、玲奈は邪魔にならない場所からその様子を眺めていた。やがてテーブルへ置かれたボウルと泡立て器を見つけると、台本にひなたが生地を混ぜる場面があったことを思い出し、空のボウルを借りて実際の動きを確かめ始める。
玲奈としてなら、中身をこぼさないように小さく丁寧に動かす。しかし、それではひなたらしくない気がした。小川ひなたにとってホットケーキ作りは仕事でも稽古でもなく、家族と一緒に楽しむ遊びに近い。そう考えながら少しずつ腕の動きを大きくしていると、父親役の木村修一がコーヒーを片手に近づいてきた。
「ずいぶん真剣に練習してるな。ひなたなら、そんなに綺麗に混ぜようとしないんじゃないか?」
木村はそう言いながら玲奈の隣へ立ち、自分ならこうするとばかりに大きく腕を回してみせた。玲奈がその動きを真似すると、今度は少し大きすぎたらしく、近くを通りかかった衣装スタッフから「本番でそれをやったら衣装まで飛びますよ」と笑いながら止められる。
「じゃあ、このくらいなら大丈夫ですか?」
玲奈が動きを少し小さくすると、衣装スタッフはボウルとの距離を確認してから頷いた。木村も横から「ひなたらしく元気に、でもスタッフさんが泣かない程度だな」と付け加えたため、玲奈は笑いながらもう一度だけ腕の動きを確かめた。
以前なら、こぼさないための正解を探していただろう。
今は、ひなたならどう失敗しそうなのかまで考えている。
その違いが玲奈には面白かった。
やがて撮影準備が整い、小川家の四人がキッチンへ集まった。母親役の高瀬真紀が材料を並べ、姉の美咲を演じる菜々が卵を割る。その隣では玲奈が落ち着きなく手元を覗き込み、菜々に身体で押し戻されても、次の卵へ手が伸びたころには再び少しずつ近づいていく。
「ひなた、近いってば。殻が入っちゃうでしょ」
菜々が二個目の卵を割りながら注意すると、玲奈は今度こそ一歩下がったものの、卵から興味がなくなったわけではない。自分にも割らせてほしそうに手元を見つめながら、「今日は上手にできるかもしれないよ」と期待を込めて訴える。
「この前、殻だらけにしたの覚えてないの?」
菜々が呆れたように笑うと、玲奈は少し考えたあと、自信満々に胸を張った。
「でも、あれからいっぱい寝たもん。上手になってるかもしれないよ」
あまりにも堂々と言われたため、菜々の口元が緩んだ。そこで真紀が二人の間へボウルを置き、美咲は卵、ひなたは混ぜる係だと役割を決めると、玲奈は先ほどまでの卵への執着をあっさり忘れたように泡立て器を受け取った。
最初はゆっくり混ぜる。
けれど、すぐに楽しくなってくる。
腕の動きが大きくなり、ボウルの中身が少しだけ跳ねたところで、真紀が慌てて容器を押さえた。
「ひなた、もう少しゆっくり。早ければいいってものじゃないのよ」
母親に止められても、玲奈はすぐには納得せず、かなり混ざっているのだから自分の方法でも間違っていないと主張する。そこへ横から覗き込んだ木村が「確かにかなり混ざってるな」と感心したように頷いたため、今度は真紀から父親までまとめて注意された。
木村が何もしていないのに怒られたような顔で後ろへ下がる。
玲奈はその姿を見た。
台本では、このあと混ぜ終わった生地を母親へ渡すことになっている。しかし今のひなたにとっては、ホットケーキよりも父親が母親に怒られたことの方が面白い。
玲奈は泡立て器を真紀へ渡すと、木村の隣へ移動した。
「お父さんも怒られたね」
仲間を見つけたように嬉しそうな玲奈へ、木村は「ひなたのせいでな」と恨めしそうな視線を返す。それでも玲奈はまったく気にせず、「一緒だね」と笑いながら父親の腕へ抱きついた。
監督は止めなかった。
真紀も台本へ戻そうとはせず、二人を見ながら呆れたように息を吐く。
「反省してない人が二人に増えただけじゃない」
その言葉に木村が玲奈を見る。
玲奈も木村を見る。
二人はほぼ同時に真紀から視線を逸らした。
菜々がそれを見て笑い出し、キッチンに小川家らしい空気が生まれる。
撮影はそのまま、父親がホットケーキを焼く場面へ進んだ。
木村がフライパンへ生地を流し込むと、玲奈と菜々は左右から身を乗り出して表面を見つめる。小さな泡が増えていき、最初の一枚が綺麗に裏返った瞬間、玲奈は素直に拍手して喜んだ。
二枚目では、木村が少しだけ大きく腕を動かした。
ホットケーキが傾いて着地する。
形が崩れた。
玲奈と菜々の視線が、同時にフライパンへ落ちる。
木村は数秒だけ沈黙したあと、何事もなかったように頷いた。
「……よし。成功だな」
台本にはない言葉だった。
以前なら玲奈は、次に予定されている台詞を思い出したかもしれない。
今は木村の言葉を聞いた。
成功。
けれど目の前のホットケーキは明らかに曲がっている。
玲奈はすぐに否定せず、フライパンの中身を真剣に観察した。もしかすると、本当にそういうものなのかもしれないと考えるように首を傾げ、それから木村の顔を見上げる。
「お父さん、これ失敗じゃないの?」
「成功だ。こういう形なんだよ」
あまりにも真顔で答えられたため、玲奈はもう一度ホットケーキを見た。
少し考える。
そして何かを決めたように頷いた。
「じゃあ、ひなたそれ食べる。変な形で面白いから」
木村の口元が緩んだ。
「成功したやつなのに、変な形なのか?」
父親から矛盾を指摘され、玲奈は困ったようにホットケーキを見る。それでも食べたい気持ちは変わらなかったらしく、最後には「でもひなたが食べる」と皿を差し出した。
そこで監督からカットがかかった。
周囲のスタッフから小さな笑い声が聞こえる。
玲奈は何が面白かったのか分からず、木村と一緒にモニターの近くへ向かった。
監督は先ほどの場面を再生し、木村が失敗をごまかした直後で映像を止めた。画面の中では、ひなたが崩れたホットケーキを前に本気で悩んでいる。
「玲奈ちゃん、ここで笑わせようとはしてなかったでしょ」
監督から確認され、玲奈は頷いた。ひなたとしては父親の言葉を信じるべきなのか、目の前にある変な形を信じるべきなのか考えていただけだった。
「そこがいいんだよ。面白い顔や言い方を作らなくても、その子が本気で行動した結果を見ている人が面白いと思うことがある。ひなたは家族を笑わせようとしてるんじゃなくて、本当にお父さんの言葉を考えてただけだからね」
玲奈はモニターへ視線を戻した。
小川ひなたを演じ始めたころ、自分はリリアを参考にしていた。人から愛される表情、人との距離を縮める仕草、失敗しても許してもらえる振る舞い。それらは確かに役を作る助けになった。
しかし、今のひなたは違う。
誰かから好かれるために笑っているのではない。
楽しいから笑う。
嫌だから頬を膨らませる。
欲しいから手を伸ばし、疑問に思えば首を傾げる。
その結果として、周囲が笑う。
リリアの表面的な愛嬌を入口にして始めた役だったが、玲奈の中にいる小川ひなたは、もう別の少女になっていた。
午後には、小川家のリビングで父娘二人の場面を撮影した。父親が仕事の電話をしている横で、ひなたが家族の絵を描き、完成したものを早く見せたいのに電話が終わらないという場面である。
台詞はほとんどない。
玲奈は床へ座り、実際にクレヨンを使って画用紙へ家族四人を描いていく。撮影用の完成品は別に用意されていたが、手元を映す部分では玲奈自身が絵を描いていた。
最後の一人を描き終えると、玲奈は満足そうに画用紙を持ち上げた。
木村を見る。
まだ電話中だった。
少し待つ。
もう一度見る。
終わらない。
玲奈は立ち上がりかけたものの、父親が仕事中だと思い出したように座り直す。今度は余白へクレヨンを走らせ、時間を潰すように新しい絵を描き足した。
それでも電話は終わらなかった。
玲奈は画用紙を持って父親から見える位置へ移動し、声を出さずに胸の前へ掲げる。木村は電話を続けながら一度だけ絵を見て、申し訳なさそうに片手で「あとで」と合図した。
玲奈は頬を膨らませた。
しかし邪魔はしない。
床へ戻り、画用紙を裏返して待つ。
やがて木村が電話を終えると、すぐに玲奈の隣へ座った。
「ひなた、待たせたな。さっきの絵、見せてくれるか?」
玲奈は少しだけ顔を逸らした。
見せたい。
けれど待たされたから面白くない。
そんな二つの感情を抱えたまま、裏返した画用紙を木村へ差し出す。
「……もういらないかと思った」
「見たいよ。ずっと待っててくれたんだろ?」
木村の言葉を聞き、玲奈の視線が画用紙へ落ちた。
確かに待っていた。
ひなたは父親に見せたかったから、途中でどこかへ遊びに行かず、ずっとここにいた。
玲奈は少しだけ木村へ近づく。
「じゃあ、見てもいいよ」
木村が画用紙を表へ返す。
家族四人が並んでいる。
父親だけが他の三人より大きく描かれていた。
「これ、お父さんか?」
木村が自分らしい人物を指差すと、玲奈は先ほどまで拗ねていたことを忘れたように身を乗り出した。父親が大きいから絵でも大きくしたのだと説明し、その隣に母親、姉、自分が並んでいることを次々と教えていく。
木村が一人ずつ感想を言うたび、玲奈の表情は明るくなっていった。
やがて木村が、余白に描かれた丸い物体を見つける。
「これは何だ?」
玲奈はその絵を見る。
午前中、電話を待っている間に思いついて描き足したものだった。
「お父さんのホットケーキ」
「なんでホットケーキまで描いたんだ?」
「失敗したから」
木村の表情が止まった。
少し離れた場所から、スタッフの笑い声が漏れる。
玲奈は笑わせようとはしていない。
本当に、今日あった出来事として描いただけだった。
「成功だっただろ?」
木村が午前中と同じ言い訳をすると、玲奈は画用紙の中に描かれた曲がった丸と父親を交互に見た。
「でも、やっぱり曲がってるよ?」
「そういう形なんだ」
「じゃあ、成功だけど変な形?」
「……そういうことにしておこう」
木村が諦めたように頷くと、玲奈はようやく納得した。
そこで監督からカットがかかった。
監督はすぐに次の準備を指示するのではなく、今撮った映像を短く確認した。午前中に起きたことが午後の場面へ自然につながったことで、台本にはなかった小川家の一日が生まれている。
「今の最後は残そう。玲奈ちゃん、午前中のことをひなたが覚えてると思ったんだね」
監督がそう言うと、玲奈は画用紙を持ったまま頷いた。午前中に父親が失敗したことは、撮影が終わったからといってひなたの中から消えるわけではない。だから絵を描いているときに思い出すのも自然だと思ったのだ。
その説明を聞いた監督は、玲奈へ「それでいい」とだけ伝え、スタッフへ次の準備を指示した。
玲奈は邪魔にならない場所へ移動しながら、最初にこのセットへ来た日のことを思い出した。
あのときは、本当に誰かが住んでいそうな家だと思った。
今は少し違う。
ひなたがここで姉と喧嘩した。
母親にピーマンを食べなさいと叱られた。
父親とホットケーキを作った。
絵を描き、褒めてもらった。
台本に書かれた出来事だけではなく、撮影中に生まれた小さな出来事まで積み重なり、この家の中に小川ひなたの記憶が増えている。
役を作るということは、台詞や表情だけを決めることではないのかもしれない。
その人物が昨日までどう過ごしてきたのか。
今日何が起きたのか。
そして、それを明日も覚えているのか。
そんな時間までつながって初めて、一人の人間として見えてくる。
玲奈はまた一つ、自分が今まで知らなかった演技の面白さを見つけた。
撮影終了後、玲奈が母と帰宅したあとも、監督と助監督はその日に撮影した映像を確認していた。最初に映し出されたのは、玲奈が小川ひなたを演じ始めたばかりのころに撮影した朝食場面だった。
そこにいる少女も、十分に明るく愛嬌がある。
しかし今日の映像へ切り替えると、違いが分かる。
最初の玲奈は「明るくて愛嬌のある少女」を演じていた。
今の玲奈は、何をされたら喜び、何を嫌がり、父親のどんな失敗を覚えているのかまで含めて、小川ひなたという少女を動かしている。
「一か月で、ずいぶん変わりましたね」
助監督が初日の映像と今日の映像を見比べながら呟いた。
監督はすぐには答えず、午後に撮影した父娘の場面をもう一度再生した。玲奈が絵の中のホットケーキを指差し、午前中の出来事を持ち出すところで映像を止める。
「最初から全部できる子じゃないんだよ。今日だって、午前中に初めて教えたことがある。でも教えると試す。使えたものは次でも使う。そのうち、別々に教えたことを自分でつなげ始める」
監督はそこで初日の映像へ戻した。
「九条美月のときは、本人と役の相性が良かった可能性もあると思ってた。姿勢も所作も最初から役に合っていたからね。でも小川ひなたは、本人とも美月とも全然違う。それでも一か月でここまで変わった」
助監督は画面の中で笑っている玲奈を見ながら、監督の言いたいことを理解した。
「上手いことより、吸収する速さですか」
「今のところは、そこが一番面白い。しかも最近は、覚えたものをそのまま再現するだけじゃなくなってる」
監督はそれ以上評価を大きくすることなく、次の映像へ切り替えた。
玲奈はまだ六歳で、出演作も二本目にすぎない。
一つの現場だけで将来が決まるわけではないし、違う作品へ行けば上手くできないこともいくらでもあるだろう。
それでも、この現場で彼女と仕事をした人間たちの中には、天城玲奈という名前を覚える者が少しずつ増えていた。
そのころ玲奈本人は、自宅でその日の台本を開いていた。
ページの余白には、撮影を始めてから教えてもらったことが少しずつ書き込まれている。ひなたは考えるより先に動くこと、相手の台詞を待つのではなく言葉を聞くこと、面白く見せようとするのではなく本人が本気で行動した結果として面白さが生まれること。そして今日、新しく覚えたことも加わった。
その日に起きたことは、次の場面になっても消えない。
玲奈は書き終えた文字を眺め、静かに台本を閉じた。
前世では、失敗しないことを求められていた。
未来の王妃として正しい振る舞いを覚え、間違えれば修正し、次には最初から正しくできることが当然だと思っていた。失敗そのものを楽しむ余裕など、ほとんどなかった。
けれど今は違う。
知らないなら教えてもらえばいい。
一度やって上手くいかなければ、次で変えればいい。
教えてもらったことが使えるようになれば、そこからさらに別のことを試してみればいい。
女優としての天城玲奈には、まだ知らないことの方が圧倒的に多い。
だからこそ次の撮影日には、今日より少しだけ違う自分になれる。
玲奈はそれが楽しみだった。




