4.塗り替えられる世界
「……内容って、ハルカ。君、あの中身が分かるのか?」
僕の問いに、彼女は静かに頷いた。
「うん。ボランティアで手話通訳の勉強をしてるの。週に二回、教室で教えたりもしてるし。日常的に使ってるから、遠目でもだいたいの会話は読めちゃうんだ」
ハルカは少し照れくさそうに、けれど誇らしげに自分の指先を見つめた。 彼女のガサツだと思っていた大きな身振りや、豊かな表情。それは「言葉」を全身で伝えようとする習慣から生まれていたものだったのだと、今さらながら気づかされる。
ハルカは再び窓の外に視線を戻し、実況するように呟いた。
「ほら、今、右の人が笑いながら手を振ったでしょ? あれは『お前、相変わらず詰めが甘いんだよ!』って突っ込んでるの。そのあと、鼻の頭を指で弾いたのは『恥ずかしくて顔から火が出そうだった』っていう、彼なりのユーモア。……声は聞こえなくても、あんなに賑やかで、可笑しくて、愛すべき日常がそこにあるんだよ」
彼女の解説を聞きながら改めて二人を見ると、風景がガラリと色を変えた。 ただの「無音の動作」だったものが、色彩豊かな「物語」として立ち上がってくる。片方の男性が、大げさにずっこけるような仕草をすると、もう一人が腹を抱えて笑っている。その躍動感は、時に口から出る言葉以上に雄弁で、生命力に満ちていた。
僕は、自分の喉の奥が熱くなるのを感じた。
「僕は……」
言葉が震える。 僕は彼らを「かわいそうな、守られるべき弱者」としてしか見ていなかった。だから、彼らが冗談を言い、それを誰かが笑うことを「不謹慎」だと決めつけた。
ハルカは、彼らを僕と同じ「等身大の人間」として見ていた。 面白い話には笑い、悲しい話には泣く。そんな当たり前の対等な関係を、彼女はあの一瞬の笑い声で体現していたのだ。
偏見を持っていたのは、僕の方だった。 「正しい人間」であろうとするあまり、彼らから「笑う権利」さえ奪おうとしていたのは、僕の方だったんだ。
「ごめん、ハルカ……。僕は、何も分かってなかった」
僕は深く頭を下げた。視界が滲んで、テーブルの木目がぼやけて見える。 ハルカは何も言わず、ただ優しく、僕の震える手に自分の手を重ねた。その手は、さっきマグカップを置いた時と同じように、温かくて、少しだけ力強かった。




