俺の夜
俺は夜が好きだ。
夜は人がいない。まるで世界が、自分というたった一人のために作られたかのように感じる。その静寂と広大な孤独こそが、俺にとっての至福のひとときだった。
夜風が肌を撫でる初秋の深夜。時刻は0時を回っていた。俺はこの時間に決まって家を抜け出し、抑えきれない支配欲を満たすため、静まり返った公園へと向けて散歩に出かける。アスファルトに残る日中の熱と、時折吹き抜ける涼しい風のコントラストが心地よかった。
しばらく歩いていくと、数十メートル先を歩く人影があることに気づく。俺は舌打ちした。せっかくの一人だけの夜に、穢れた異物が混入したかのような不快感が全身を駆け巡った。
街灯のあるところを敢えて選んで歩くその影は、どうやら女のようだ。真っ赤なコートを着て、長い髪を揺らしている。こんな時間に一人で人通りのない道を歩くなんて不用心な、そして俺のための夜を汚す邪魔者め。
俺は早く女が視界から消えることを願いながら、足音を殺して歩き続けた。しかし女は俺の苛立ちを知ってか知らずか、まるで俺の目的地を知っているかのように、同じ方向へと同じ速度で進んでいく。
「早く、消えろよ...」
俺は心の中で毒づく。邪魔だ。この夜に、お前は必要ない。俺は怒りを隠さず、今度はわざと足音を立ててずんずんと女に近づいていった。
女はどうも俺が後ろにいることに気づいたらしく、わずかに震えるように振り返った。俺の不機嫌な形相を見て、女は慌てたように前を向くと、速足になった。
俺は追い抜こうとしていたのに、速足で俺の前を歩く女に、心底ムカついていた。この空間に、俺以外の存在は許されない。この夜は、俺だけのものだ。
「おい、どけよ!」
気づくと、俺は走り出していた。女は再び振り返り、走りながら近づいてくる俺を見て、悲鳴をあげた。金切り声が夜の静寂を引き裂く。女も走り出したが、ヒールの高い靴を履いていたせいか、すぐに躓いて転んでしまう。
女は倒れたまま、恐怖に顔を歪ませて俺を見つめている。俺は女の横に来ると、女には目もくれず、ただ前だけを見て走り抜けた。
「これで俺の前には誰もいない。俺だけの夜が戻った」
俺は勝利の快感を胸に、誰にも邪魔されない夜の道を歩き続けた。
それから数日後、いつものように散歩に出かけた俺は、電柱に立てられた看板を見つけた。そこには「不審者情報」とあり、夜中に女性が不審な男に追いかけられる事案があったこと、そしてその男の容姿が克明に書かれていた。
「あのときの女か...」
そこに書かれた容姿は、まさに自分そのものだった。あの自意識過剰で勘違いした女が、俺に襲われそうになったと警察に訴えたのだろう。女には一切興味はないので誤解も甚だしいが、この状況はまずいということだけは分かった。もし警察に捕まって誤解だと主張しても、おそらく誰も信じてはくれない。この夜の散歩が、俺の唯一の楽しみだったのに。
「俺だけの夜が、奪われるのか......」
その苦痛に耐えられる自信はなかった。だが耐えることでしか、この状況を乗り越える方法は思いつかなかった。
翌日から、夜の街に俺の姿はなくなった。俺は家に閉じこもり、静かに身を潜めることで、ただ時が過ぎ去るのを待つことにした。
しばらく経ち、ある噂が街に流れるのと入れ替わりに不審者情報の看板はいつの間にかなくなったようだ。俺は安堵し歓喜の中で久しぶりの夜の散歩に出かけることにした。もう、邪魔者はいないはずだ。
さっそく夜になると俺は公園へと向かう道を歩いていた。気分が高揚し、つい鼻歌が出てしまいそうになる。だがしばらく進むと、遠くに見える街灯の下に、赤いコートの女が立っているのが見える。まさか......あの夜の女だろうか。なぜこんなところにいる? 俺は強い憤りを感じ、怒りのまま女の元へと歩みを進めた。そして女に近づくと、こちらに背を向けて立つ女に、俺は背後から遠慮のない怒声を浴びせた。
「まだ俺の夜を邪魔するつもりか!」
黙ったまま微動だにせず立つ女は、ゆっくりと顔をこちらに向けた。街灯の光に照らされたその顔を見て、俺は息をのんだ。
そこにいたのは、あのときの女ではなかった。
真っ赤なコートに、長い黒髪を垂らしたその女は、顔を見ると耳にまで裂けた真っ赤な唇が、忌まわしい笑みを浮かべていた。目からは血のような赤い涙が流れている。そう、この夜に出会ったのはいつかの女ではなかった。そう、これこそが不審者情報と入れ替わるように街に噂が流れた口裂け女だった。