青春同好会スタート!③
新藤はワクワクしていた。長年自分の追い求めていたものがついに実現するからだ。これまで何人もの生徒を勧誘してきたが、ことごとく断られてしまい、悔しい思いを何度もしていた。
「二人は来ているかなぁ」
一抹の不安を覚えたが、来てなかったら来てなかったで二人の家にアポなしで家庭訪問するつもりなので、何の問題はなかった。
昨日二人と別れてから色々と考えたが、やはりこれしかない!というものを思いついてメモ帳に記してある。
下駄箱横にある階段をのぼり、二階にある理科室の扉の前にたどり着く。大きく深呼吸をする。大きな期待と少しの不安を胸に、新藤は理科室のドアを勢いよく開ける。古びた薬品の匂いと、ほこりの混じった独特の空気が鼻腔をくすぐる。窓から差し込む夏の強い日差しが、使い古された実験台の上に、細かな埃の粒を無数に躍らせている。
自分の心配は杞憂だったと思ったと同時に、少し残念な気持ちになった。
その原因は、まるで磁石が反発し合うように、夏樹と遥が机二個分の距離を空けて座っていたからだ。
「二人とも、距離遠くない?同じ部活の仲間なんだからさぁ、もうちょっと近くに来てもいいんじゃない?せっかくの青春が台無しじゃないか!」
「いいじゃん別に。さっさと始めようぜ。つまらなかったら今日で退部するんで。よろしく」
「そうですね。私も同意見です」
そっけない態度をとる二人に対して新藤はかなり残念そうな表情を見せた。
「そんなこと言わなくたって……。自分たちがどうしてもって言うから入部させてあげたんじゃないか!」
「おい、捏造するな。俺は首を絞められた」
「私は恐喝された」
冷たい視線に新藤は、ばつの悪そうな顔をするが、あまり気にしている様子はなかった。
「ところで二人とも!青春ってクリームソーダみたいなものだと思わないかい?」
二人は新藤の急な問いに驚いた表情を見せた。
「いきなりなんだよ……」
「青春ってさ、クリームソーダのソーダみたいだよね。ソーダの部分はシュワっと爽やかで、でもちょっと酸っぱくてさ。アイスが甘くて優しくて、おまけに赤いチェリーも乗っていたら……そんな瞬間、そうそうないけど、だからこそたまんないんだよなぁ!」
夏樹はあまりピンと来ていない様子だったが、反対に遥はうんうんと頷く。そして、さらに新藤は続ける。
「だからさ、青春って甘酸っぱいじゃん?もし、『青春って例えるならどんな味なんですか?』と聞かれたら、『青春はクリームソーダだ!』って自信をもっていったほうがいいと思うんだよね!」
「また訳が分からないこと言ってる……」
「だってそう思わないか?文学少女?」
「え?私ですか?」
「そうだよ。君だよ」
「私は、そうですね……的確な表現かと思います」
その言葉に夏樹は驚愕した。
「え?なんでだよ!」
「確かに、青春は甘酸っぱい。クリームソーダも甘酸っぱい……ということは、青春=クリームソーダという公式も成り立ちますね!」
「そうそう!良く分かってるね!さすが、僕の教え子! いいセンスをしている! 正解者の特典として、次のテストの範囲を教えてあげるよ!」
「アハハ……それほどでも……」
「君みたいな人は絶対に大成するよ! 僕が言うんだから間違いない!あとは……」
「世界一信用ならない絶対だな……」
二人が和気あいあいと話す姿を遠目で見ている夏樹。長い間二人は話しており、夏樹は蚊帳の外にいるような感覚だった。暇つぶしにスマホをいじりだす夏樹。五分が十分になり、十分が三十分へと流れる間、最初は仲良く話していた二人だが、次第に熱を帯び、やがて鋭い刃物のようにお互いを削り始めた。そしてふいに遥は新藤にパンチを繰り出した。それは昨日の放課後と同じ光景だった。
「ええ……急に? なんだよ。何したんだよ……」
急な展開に驚く夏樹。しかし、殴る手を止めない遥。それを受け流す新藤。非常にカオスな空間である。
「教師を殴るなんて! 教育委員会に訴えるぞ!」
「そしたら私は先生のことをセクハラ教師として訴えますけど?」
「そしたら僕は君の夢を横断幕に書いて校舎に飾り付けてやるからな!」
「何でそんなひどいことするんですか? 私が不登校になってもいいんですか?」
「なれるもんならなってみな!ははは」
二人の攻防は続き、結局終了したのは一時間後だった。滝のような汗を流す遥とは打って変わって新藤は表情一つ変えずに涼しい顔で笑っている。
「ハァ……ハァ……やりますね……先生」
「君こそね! 小説家より格闘家目指した方がいいんじゃない?」
「私は絶対に小説家になります……。それだけは譲れません……」
「その夢、大切にしな!」
「はい!」
新藤が右手を差し出すと、遥はハンカチで汗を拭きながら右手を差し出し、がっちりと固い握手をする二人。それを呆然と見る夏樹。
「ひと汗かいたところで、本題に入ろうか!」
「どんなまとめ方だよ!」
夏樹の言葉もむなしく、新藤はコホンと咳払いをして、黒板の前に立つ。
「さて、ちなみに二人は『夏』と『青春』の二つの言葉から連想される単語って何を思いつく?はい、夏樹」
「ん?急に言われても……。そうだな、やっぱり海とか?」
うんうんと新藤は頷く。そして次に遥を指名した。
「私はやっぱり夏祭りだと思います! 屋台や浴衣、花火! どれもこれも夏の風物詩です! その中で同じクラスで少しお互いのことが気になっている男女が偶然夏祭りで出会う! 屋台で焼きそばやかき氷を食べたりして楽しんだり、花火を一緒に見たりしてちょっといいムードになってお互いのことをすごく意識しちゃったりなんて?そんな要素が夏祭りには詰まっているんだと思います! なので夏祭りです!」
「はい。違います」
間髪入れずに返答する新藤。その場に倒れこむ遥。
「まぁ、二人ともこれぞ夏! これぞ青春!みたいなものは考えられていていいと思う!が、これを忘れてはいないかい?」
突然、新藤が教卓の下をごそごそとあさり始めた。
二人が不思議そうに見ている中、彼はどこからか一枚のフリップボードを取り出した。
それは厚紙に筆文字で書かれた、妙に存在感のある一枚だった。
黒々とした墨の線はところどころ掠れていて、滲んだ文字が不気味な迫力を放っている。
そこに書かれていたのは、たった二文字――
『怪談』
新藤はにやりと口元を歪める。
「て、ことで正解は『怪談』だ!」
「そんなことはない!」
「それって正解なんですか?」
「僕が正解って言ってるから正解なんだよ? いいかい、この日本は年功序列の世界だ。だからね、年長者の意見を尊重しなきゃいけないんだよ?」
にっこりと笑う新藤。その笑顔は、何の屈託もなかった。だからこそ、たちが悪かった。
「そんな強引な……そもそもそんなに歳とってないよな?」
「ああ!四捨五入したら三〇歳だからな!」
「そこそこ若いですね~」
「まぁね!」
若いという言葉に丸眼鏡をクイッと上げる。
「まぁ、それはそれとして、改めて――怪談の時間です」
新藤は理科室のカーテンを一枚ずつ閉めていった。
電気を落とすと、部屋は一瞬で薄闇に包まれる。さらに、窓ガラスに暗幕が貼ってあり、外からの明かりは通さないようになっている。
全ての準備が終わると、新藤は教室の真ん中の机にランタンを立てた。
カチッとスイッチを入れると橙色の光がぽうっと広がり、辺りを薄く照らした。
「さぁ、二人ともランタンの近くに集まって」
「ええ……急に始まるのかよ」
「まだ、心の準備が……」
戸惑う二人だったが、暗闇の中でどうすることもできず、結局ランタンのある机に集まった。
「さて――始めようか」
その言葉のトーンに二人の背筋が凍った。普段の掴みどころのない口調から一転して静かで重みもある声が、教室の闇に吸い込まれていくようだった。
ランタンの灯りに新藤の眼鏡が煌めき、普段の飄々とした姿は影を潜めていた。
その空気に二人は息を呑み、互いの顔をちらりと見つめ合った。
「これは僕の友達から聞いた話なんだけど……」
新藤の声が暗闇の理科室に静かに響いた。
「ある学校には、今では珍しい公衆電話があるんだって。で、夜中の二時になると、その公衆電話が鳴るっていう噂がある。でも、電話に出ても何の音もしない。それもそのはず、その公衆電話はとっくに廃止され、電源コードも切られている。なのに毎晩律儀に電話は鳴り響いている。不思議な話だよね。そんな話を聞いて、ある五人の男子学生のグループがその話は本当なのか確かめたくなった。七月のある夜蒸し暑い夜、肝試しも兼ねて、彼らはその学校に忍び込んだ。そして見つけたんだ。噂通りその公衆電話は確かに存在した。錆びたボックスの中で電源コードが蛇のようにぶら下がっていた。『こんなんで本当に鳴るのかよ?』と誰かがぼやいたその瞬間、プルルルルル――ッ。静寂を切り裂くように、甲高い呼び出し音が鳴り響いた」
耳鳴りのような甲高い音が理科室の空気ごと切り裂いたような錯覚が走る。
遥はビクッと体を震わせ、新藤の方を見た。対照的に夏樹は平然としてランタンの灯りを見ている。
新藤はニヤリと笑い、続きを語り始めた。
「静まり返った空間に、けたたましい呼び出し音が鳴り響いた。時計を見ると確かに午前二時ちょうど。誰もが息を呑み、しばらく様子を見ていても、その音は全く鳴りやむ気配がない。そのうちの一人が意を決して受話器に手を伸ばした。ゆっくりと耳に当てる。『もしもし……?』――音も何も聞こえない。笑いながら『やっぱり何も聞こえないよ!』と仲間に受話器を渡す。次もまた同じ。五人全員、聞こえたのは無音だった。噂は本当だった――。安心したと同時に予想外のことが起きずにがっかりした気持ちにもなった。最後の一人が受話器を戻し、電話ボックスを出たそのとき――プルルルルルッ。再び鳴り響く呼び出し音。誰もが凍り付いた。だってそんな話聞いてなかったから。電話はまるで応答を求めるように、強く鳴り続けた。誰もが顔を見合わせ、牽制し合う。ついにそのうちの一人が恐る恐る、まるで生け贄になるかのように、受話器に手をかけて、電話に出た。その姿を他の四人は固唾を呑んで見つめていた。けれど、やっぱり何も聞こえない。彼は安どの表情を浮かべて、仲間の方を振り返る。『なーんだ。やっぱり何も――』その時、違和感に気付いた。――一人多い。見知らぬ少年が、いつの間にか輪に加わっていた。そしてどこからともなく、『なんですぐ出てくれないの?』って」
そのセリフに呼応するように、理科室の暗がりからかすかな声が響いた。
遥は小さく悲鳴を上げ、椅子ごと飛び上がった。夏樹もこれには驚いたようで、ビクッと体を震わせていた。
その姿を見た新藤はどこか満足そうに笑っていた。
「その後、その五人は日を改めて、またあの公衆電話を訪れたそうだ。でも――あれ以来、電話が鳴ることは一度もなかった。何度も通ったが、何も起こらない。拍子抜けするくらい静かだった。やがて誰も行かなくなり、その場所も、ただの『古い電話ボックス』に戻ったんだとさ。めでたし、めでたし」
そう言って新藤はランタンに手を伸ばし、スイッチを切った。パチン。という音とともに理科室は闇に沈み、すぐに教室の蛍光灯がまぶしく点いた。続けてカーテンが開け放たれ、夏の容赦ない日差しが室内を照らす。
「何もめでたくねぇ!」
「そうですよ! 怖がらせないでくださいよ! 私こういうびっくりする系のもの苦手なんですよ!」
「怖かった?それはそれは! やっぱり怪談はこうじゃなくっちゃね!」
アハハと嬉しそうに笑いながら二人を見回す新藤。しかし、その振る舞いに夏樹はどこか違和感を感じた。
「まぁ、この話はフィクションであり、作り話でもある。怪談はそんな話だしね!」
「でも、なんで声が聞こえたんだろう? あの声に私、びっくりしちゃいました」
不思議そうに教室を見渡す遥。その反応を見た新藤は、さらに嬉しそうな表情を見せた。
「それはね、これだよ!」
新藤が教卓の中をガサゴソと漁り、黒い四角い物体を取り出した。
「え、まさか、それって」
「そう、その通り! スピーカーだよ!」
新藤がスマホを操作すると、先程と同じ、『なんですぐ出てくれないの』と男の声が聞こえた。
「そうそう!この声です!もしかして、スマホから流していたんですね!」
「まぁ、怪談をするには演出が大事だと思っているからね!事前準備は怠らないよ!」
スマホを操作しながら色々な効果音を流す新藤。
二人が楽しそうにスピーカーで遊んでいる中も夏樹は何かを考えている表情を見せていた。そして不意に新藤に質問をした。
「この話って、本当に作り話か?」
ピクッと反応する新藤。しかし、笑顔は崩さないまま、夏樹を見る。
「本当だよ!だってこの話は僕が三日三晩寝ないで考えた傑作なんだから!それに、これが実話って証拠、どこにもないでしょ?」
新藤の言い分にうんうんと納得する遥。しかし、その返答にもまだ、違和感をぬぐい切れない夏樹。
「まぁ、それもそうだけど……なんかさ、違和感というかなんというか、引っかかるところがあるんだよなぁ」
「違和感?」
遥が不思議そうに首をかしげる。夏樹は腕を組んで天井を見上げた。
「うーん……ほら、『青春』って言ったら、普通もっと違うもの思い浮かばない? 海とか花火とかさ。なんでいきなり『怪談』なのかって……」
「確かに、『青春』と『怪談』を結びつけるのは少し苦しいですよね」
遥もうなずく。新藤は慌てたように声を上げた。
「いやいや! だって『青春』といったらまず最初に思いつくのは『怪談』でしょ! それ以上のものはないって僕は思ってるんだけど、二人はそうは思わないのかい?」
「いや、全然」
「わ、私もそう思います……」
新藤はがっくりとうなだれた。だが、その顔を上げたとき、一瞬だけ、笑顔の裏に影が差した気がした。
「ま、まぁ、価値観は人それぞれだから! 僕と君たちの意見が違うってのも別に不思議ではないよね! 例え『青春』と『怪談』に違和感があるって思ってもそれはしょうがない! うんうん!」
そのときだった。夏樹の胸の奥に、さっきまでぼんやりしていた違和感が、ひとつの形を持ち始めた。
「……なあ、新藤。なんでそんなに『怪談』にこだわるんだ?」
今までヘラヘラと笑っていた新藤の表情が、わずかに曇った。
夏樹は言葉を選びながら続けた。
「『青春』ってテーマをわざわざ持ち出したなら、他にも案はいっぱいあるのに、最初っから『怪談』に一直線って、ちょっと変じゃない?それに……」
少し間を置き、視線をそらす。
「あの話さ……なんか、作り物っぽくなかったんだよな。変にリアルっていうか……生々しいっていうか……うまく言えないけど。……ただの勘かもしれないけどさ」
夏樹が新藤に視線を向けると、一瞬だけその瞳に冷たい影が差したように見えた。いつもの飄々とした笑みが、ほんの刹那、ぴたりと止まっていた。だが、すぐにいつもの表情に戻る。
「ほうほう、なるほどなるほど、それはなかなか興味深い考察だね……。面白い! 実に面白い!」
隣で聞いていた遥も、思わず夏樹の方を見る。
「……わかるかも。なんか、ゾッとするっていうか……話の中身というより、新藤先生の話し方?空気がちょっと変だった……気がする」
そう言いながらも、自分の直感に自信がもてない様子で、そっと視線を伏せる。
二人の様子を察したのか、新藤は肩をすくめて、わざとらしく笑った。
「わかった、わかったよ。降参、降参」
両手を挙げてみせる仕草はふざけているようで、どこか照れ隠しのようでもあった。
教室に張りつめていた空気が、誰かの肩の力が抜けたようにふっと緩んだ。
「夏樹!さすがだな!少しの違和感でそこまで推理するなんて!」
新藤は夏樹の右手を両手でがっちりと掴み、勢いよく振り回す。
「いや……違和感ってだけで確信はなかったんだけどさ。今の反応で、確信に変わったっていうか……やっぱり、実話なんだな?あと、手が痛いから離してもらえないか?」
「あ、ああ。ごめんごめん! ついうれしくってさ!」
新藤は夏樹の手をパッと放し、照れながら乱れていた白衣の襟元を直す。
「え?これって本当にあった話なんですか? こ、これはいいネタになりそうです!」
遥は驚きに目を丸くするが、その表情はすぐに真剣なものへと変わった。すぐにペンとメモ帳を取り出し、小説のネタにしようと意気込んでいる。
「まさか、見破られるとはね……恐れ入ったよ」
「いいからさっさと本当のこと話してくれないかな」
新藤はふぅと小さく息を吐く。
「実は、これは本当に友達が体験したことなんだ。本当に電話は鳴ったし、声も聞こえた。一人増えていた。その話をつい最近聞いてね。僕も正直半信半疑だったけど、そいつの真剣な顔を見たら信じるしかなくってね。しかも、その話をする時、そいつ、手が少し震えててさ。嘘をついてるって感じじゃなかったんだよね。まぁ、でも正直に話しても信用してくれないだろうから、『怪談』として怖がらせるだけで終わりにしようって思ったんだけど……。失敗しちゃったね」
「え、そしたら本当にこの電話ボックスは実在するんですか?」
遥は忙しくメモを取りながら顔を上げることなく新藤に質問する。
「ああ、もちろん、実在する。しかも、この近くに」
「ええ! この近くなんですか!」
きらりと新藤の眼鏡が光る。
「ああ、ここから電車で一駅のところに五年前に廃校になった学校があるだろう? そこがその現場なんだ」
「え、あそこなんですか?全然知らなかった!」
「俺も。そんな噂聞いたことない」
「まぁ、そうだよね。この噂が出回ったの結構前だし。しかも、知っている人もそんなにいない。ほぼ都市伝説みたいなものだよね。で、そこで、君たちにお願いしたいことがあるんだけど……」
「お願い?」
「まさか……」
見当もつかない遥。それに対して夏樹は嫌な予感がした。そして、その予感は的中する。
新藤は一度黙り込み、窓の外を見ながらゆっくりと言った。
「その現場に行ってみないか?」
やっぱり来たか――夏樹は心の中で小さく呟いた。
「いや、俺は……」
『フツー』でいたい。ただ、それだけなのに。この大人はいつも、俺の心の中を覗き込んでくる。
でも……本当に、それでいいのか?
誰にも知られず、波風も立てず、何も起きない日々。それが本当に、自分の望む毎日だったか?
「い、いや。俺は……」
言葉に詰まる夏樹。しかし、構わず新藤は続ける。
「こんな話聞いたら、実際にこの目で見たくない?」
「それはもちろん見たいですけど……。私たち、未成年なので深夜にうろうろするわけにはいかないんですよ……」
口では否定しながらも、遥の手元は興奮でわずかに震えていた。
「え?未来の大作家様がこんな貴重な体験を逃すのかい?」
「で、でも……」
「おいおい、未成年に夜遊びを進める教師がどこにいるんだよ。俺たちはフツーに生きていたいだけなんだが」
「ほうほう。『フツー』ねぇ……」
その言葉を待ってましたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべる新藤。
「『フツー』に生きたい夏樹らしくて、いい意見だね! でもさ、君はこのまま『フツー』に生きるだけでいいのかい? ……いや、別に悪いことじゃない。何も起こらない『フツー』な毎日って、実は一番幸せかもしれないしね。でもね。たまに、そうじゃない夜があってもいいと思うんだよね。大人になる前にさ、一度くらい――震えるくらいの『フツー』じゃないものを見てみたいとは思わないかい?」
その言葉に夏樹の心は静かに――けれど確かに揺らいでいた。
波風を立てないよう『フツー』に生きていたい。ただ、それだけだった。
面倒なことは避けて、深入りせず、期待もされず、誰にも注目されずに日々をやり過ごしていれば、それでよかった。
なのに――。この大人は、ズカズカと土足で人の心に入り込んでくる。
平気な顔をして、俺の中の知られたくない部分をまるで見透かしたように突いてくる。
その笑顔が、無性に腹立たしかった。
イライラする。なのに、同時に――心のどこかが、疼いた。
あの「震えるくらいの『フツー』じゃないもの」という言葉が、胸に残って離れない。そんなもの、見たくなんかないはずなのに――。
一方、遥は、ぎゅっと胸の前で手を握りしめた。何かが、胸の奥で静かに熱くなるのを感じる。
怖い。でも、知りたい。見たい。感じたい――テレビや小説じゃなくて、自分の目で。肌で。心で。
「『フツー』じゃない夜が、人生に一度だけあってもいいかもしれない」
そんな声が、自分の中からそっと聞こえた気がした。
二人の心を見透かしたように、新藤は笑った。そして、言った。
「さぁ、どうする?二人とも!『青春』をしに行かないかい?」
夏樹と遥は、視線を交わす。
ほんの一瞬の間のあと、それぞれの言葉が重なった。
「行こうか」
「行きましょう!」
新藤は思わず声を上げて笑い、両手を広げて宣言する。
「それでこそ、『青春同好会』のメンバーだ!」
夏樹が苦笑いを浮かべる。
「……まぁ、興味本位だけどな」
遥も笑みを浮かべながら、そっと言った。
「私は小説のネタにします」
新藤はニヤリと笑って、手のひらをパンと打ち合わせた。
「よし、決まり! じゃあ早速――今日の夜十二時、最寄り駅に集合ね!」
二人の表情が凍る。
「え、今日?」
新藤は続けた。
「ちなみに、親御さんには部活の合宿って言ってあるから。そこは安心して!」
夏樹が呆れたように眉をひそめた。
「根回しが早ぇな……。てか、俺らが断ってたらどうするつもりだったんだよ」
新藤はいたずらっぽく肩をすくめて笑う。
「ん〜、まぁ、そのときはそのときで!」
遥がくすりと笑い、夏樹も思わず口元をゆるめた。
「持ち物は携帯電話、財布、飲み物、懐中電灯、あと、おやつもかな?おやつは五〇〇円までだよねぇ~」
一通り話し終えた新藤は、ハッとした表情で二人を見渡す。
「そしたら二人とも! また夜中にお会いしましょう! じゃ~ね~!」
新藤はひらひらと手を振り、理科室を後にした。残された二人は唖然としてお互いの顔を見合わせた。
「全く……なんて強引な……」
「でも、まんざらでもないんじゃないの?」
二人は荷物をまとめて、理科室を出る。階段を降りると、外からの熱気が、昇降口までじんわりと伝わっていた。蒸し暑い下駄箱で靴を履く。昇降口を出ると、そこには真夏の午後の日差しが広がり、熱を含んだ空気が、景色を歪めるように揺れていた。
炎天下の中、無言で歩く二人。そして、不意に夏樹は目を細めながら、ぼそりと呟く。
「ほんとに行くんだな、俺たち……」
横にいた遥が、小さく笑った。
「うん。でも、ちょっとだけワクワクしてる」
二人は顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。
その様子を新藤は二階の窓から優しい目で見ていた。手に持っていたクリームソーダの缶をプシュッと空け、一口ごくりと飲む。
「……やっと、始まるんだな。なぁ、親友」
静かに語りかけるように空を見上げ、クリームソーダの缶を一気に飲み干す。
空はどこまでも青く澄みわたり、入道雲がゆっくりと形を変えていた。