プロローグ④
「我ながら今日の演説はよかったと思うな……」
新藤はにやにやしながら廊下を歩いていた。ひょろりとした体型に、彼のトレードマークである白衣を羽織っている。一見頼りなさげだが、その動きは常に予測不能で、まるで獲物を狙うかのように素早く、生徒たちの間をするりとすり抜けていく。化学の教員である彼に、授業以外の白衣着用義務などない。だが、その白衣こそが彼なりの『仕事着』であり、彼の奇抜な教育論と同様に、譲れないポリシーがある。白衣を着る理由を聞かれるたび、決まってこう答えるのだ。
「かっこいいからに決まってるだろ!」
この回答に生徒には笑われるが、当の本人はいたって真面目に言っているので、笑われることに関しては少し嫌な気持ちになっている。
「さて……今日はこれから何しようかなっと」
鼻歌を歌いながら廊下を歩いていると、外から男女が話す声が聞こえてきた。
「君、夏樹君でしょ? 私の質問にちゃんと答えてくれない?」
「だから、何回も言ってるだろ? 俺は『フツー』の人生を過ごすのが夢なんだ。『フツー』に就職して、『フツー』に結婚して、『フツー』に最期を迎える。それがどれだけ幸せか!俺の人生の目標はそれ以上でも、それ以下でもないんだよ!」
「本当にそれがあなたの夢なの? それは心の底から思っていることなの?」
「しつこいなぁ! じゃあ、聞くけど君の夢は何なんだよ!」
「私は……」
「あれは……遥と夏樹か?」
言い合う声がどんどんとヒートアップしていくのを感じ、仲裁に入ろうとする新藤。
「私は……私は、小説家になりたい!」
はっとした表情を見せる遥。その言葉に驚く夏樹。そして、青春のオーラを感じ取った新藤。
「いい夢じゃん。すごいな。大きな夢をもっていて。尊敬するよ」
夏樹のその言葉は、遥の心を不意打ちした。褒められた喜びと、それに沿って生じた恥ずかしさが、熱となって頬に集まる。次の瞬間、遥は無意識のうちに右手を振り上げていた。乾いた、それでいてやけに響く音が、誰もいない静まり返った校舎に響き渡る。夏樹の左頬は真っ赤に腫れあがり、彼は信じられないといった表情でそのままきれいに地面に倒れ込んでいった。
「な、何で急に……」
新藤はその姿を見て確信した。これは青春だと。しかも、ラブコメのオーラも感じると。このチャンスを逃してはならない!そう思ったと同時に、意識がなくなった。
「はっ!ついビンタをしてしまった。大丈夫?痛くない?」
「いや……痛いに決まっているだろ……」
地面に倒れる夏樹を揺さぶる遥。少しして夏樹が立ち上がると、遥は頭を深々と下げていた。
「ごめん! 恥ずかしすぎて……つい。悪気はないのよ! ホント! だから、ね? 許して?」
遥は舌をペロッと出すが、夏樹は怪訝な目で見ている。
「悪気がなかったで済んだら警察はいらないんだよ!あーもーこれでもう、今日の予定が全部狂ってしまったー」
「だって、夏樹君が私が恥ずかしくなるようなことを言うからでしょ?」
「はぁ?いつ俺がそんなことを言った?」
「言った!」
「言ってない!」
「言った!」
「言ってない!」
「青春のオーラを感じるなぁ……」
ねっとりとしたその声の主は、笑みを浮かべながら二人の間に立っていた。
「うわっ! 新藤……先生?」
二人が新藤から距離をとる。しかし、新藤はその距離をすぐに詰める。
「青春……いいなぁ。羨ましいなぁ……」
「べ、別に俺らは青春をしているわけでは」
「いいや! 僕が青春のオーラを感じたのだからそうに違いない! 絶対に合っている!」
二人が警戒している様子を見ると、新藤はふと我に返った。
「おっと、失礼。怖がらせてしまった。しかも、君たちは僕のクラスの生徒たちじゃないか!奇遇だね!こんなところで出会うなんて!」
「なーにが奇遇だよ。学校の中だから会うのは当たり前だと思うけど……」
「そうだそうだ!」
「ところで君たち、さっき将来の夢の話してなかった?」
新藤の言葉に二人は互いに顔を見つめ合った。
「この子が急に絡んできて、いい夢だなって言ったらビンタしてきたんですよ!これは許せないですよね!」
「だって夏樹君が恥ずかしいことを急に言うからでしょ?」
「だから言ってないっての!」
「まぁまぁ、お二人さん。痴話喧嘩はここまでにしておくれ」
「どこがだ!」
「どこがよ!」
二人の息の合ったやりとりを見て新藤はさらにぞくぞくした。
「さっきの話の続きだが、君たちには将来の夢はあるかい?」
「俺の夢は『フツー』に生きること!」
「私は……小説家になることです……」
「遥。君はいい夢をもっている。その夢を大事にしなさい」
「あ、ありがとうございます」
遥は恥ずかしそうにぺこりとお辞儀をした。
「それに比べて夏樹……君はなんてつまらない夢なんだ」
その言葉は夏樹にとって一番言われたくない言葉だった。これまでイラついた夏樹は語気を強める。
「そんなの俺の勝手だろ?あんたには関係ない!」
新藤は、そんな夏樹の反発を、まるで幼い子供が癇癪を起しているのを見守るかのように、静かに見つめた。その瞳の奥には、軽蔑ではなく、むしろ何かを期待するような光が宿っている。
「関係なくないね。きみの『フツー』は、君自身が本当の自分を見つける機会を奪ってしまう。僕は、これまで多くの生徒が世間が押し付ける『フツー』という枠に閉じ込められ、本来持っていたはずの輝きを失っていくのを見てきた。だからこそ、君にはそんな彼らと同じ道を辿ってほしくないし……僕は君に興味がある」
夏樹はあきれたような目で新藤を見る。
「こんなフツーの俺のどこに興味があるんだよ?」
「まぁ、それはそのうち分かるよ」
「はぁ?」
夏樹と遥は新藤の言っている意味が分からなかった。分かりたくもなかった。言葉の端々と立ち振る舞いにもイヤな雰囲気も醸し出している。
「それに……」
「それに?」
「君たちの姿を見ていいアイデアを思いついたんだ」
「いいアイデア?」
「そういえば、君たちは部活動は何かしているのかい?」
首を横に振る二人。にこりと笑う新藤。
「それはそれは。好都合だね。それだったらあれをああしてこれをこうして‥‥‥」
独り言をぶつぶつ言い始めて自分の世界に入っている新藤。チャンスだとばかりに二人はこの場から立ち去るジェスチャーを交換し、合図で逃げようとした。
「まさか、逃げようって思ってる?」
か、その作戦はばれてしまい、新藤に背後を取られてしまった。
「ひいっ!」
遥は恐怖のあまり悲鳴を上げてしまった。
「おっと、失礼。怖がらせるつもりはなかったんだけど……」
「用件があるなら早く言えばいいだろ?」
「そ、そうですよ! 私たちも忙しいんですよ?」
「では、手短にいこう! 私の部活に入らないか?」
白衣をたなびかせて両手を大きく広げ、子供のように笑みを浮かべる新藤。しかし、その姿とは対照的で二人の目は、まるでゴミを見るような冷ややかなものだった。
「いやだね」
「お断りします」
「えっ? 何で?部活やってないんでしょ?いいじゃん!」
「え? 忙しいからパス」
「私も忙しいのでご遠慮させていただきます」
その返答にショックを受け、地面に崩れ落ちる新藤。
「じゃあ、私たちはこれで失礼します。行こう。夏樹君」
「あ、ああ」
新藤に背を向け、その場を立ち去ろうと歩き始めると、背後からぶつぶつと何か聞こえてきた。
「プランAは失敗か……。ああ、そうか。君たちはそういうやつだったんだな。良く分かったよ。しょうがない、プランBを使うか……」
すると新藤は急にむくりと起き上がり、再度二人の前に立ちはだかった。
「まだ何か?」
「忙しいんだけど」
「自分の夢を見つけてみないか?」
さっきとは打って変わって真剣なまなざしを向ける新藤。その言葉に夏樹は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「私は、小説家になる夢があるので間に合ってます」
「俺も、『フツー』の人生を生きるって決めてるからいいや」
二人はそっけなく答えるが、新藤は構わず続ける。
「本当にそれでいいのか? 本当は違うだろ?夏樹」
自分の心を見透かされているような言葉に夏樹は動揺した。
「べ、別にそんなことないけど」
「いいや。違うね。本当は自分の夢を見つけたいんじゃないか?君の眼がそう言っている」
「そんなことはない! 俺は『フツー』でいいんだよ……」
「『フツー』に大学行って、『フツー』に会社員して、『フツー』に結婚して家を建てて、八五歳くらいで家族に看取られて最期を迎える……。そんな『フツー』の人生がいいのか?」
「な、なぜそれを……」
明らかに動揺する夏樹。さらに新藤は続ける。
「そもそも、『フツー』とはなんだい? 遥」
「わ、私ですか? ええと、さっき先生が言っていたみたいに、大学行って、就職して、結婚してって感じですか?」
「確かにそれが夏樹の考える『フツー』なのかもしれない。じゃあ、もし、一つでもそれらが欠けてしまったらどうする?」
「そ、それは……」
「大学受験に失敗してしまった! 就職活動がうまくいかなかった! 結婚相手が見つからなかった! それらのイレギュラーがあったときに、君は、どうする?」
「どうするって……それは、その時考えますね」
『フツー』に生きることを目標にしてきた夏樹にとって、イレギュラーが起きた時にどうすればいいのかを考えてはいなかったので、そう答えるのが精一杯だった。
「でも、まぁ、『フツー』に生きるのであればそれは別にそれでもいいのかもしれないな。それに比べて、遥を見てみろ」
急に指名された遥は驚いた。何を言われるのか戦々恐々としている。
「何かイレギュラーがあったとしても、『小説家になる』という夢があるからこそ嫌なことや辛いことも頑張れるのだろう?違うかい?」
言われてみれば確かに思い当たる節はあった。勉強や友人関係で辛いことがあっても『小説家になる』という夢があり、それが支えになって現在まで頑張ることができている。
「ま、まぁ、確かにそれは一理あると思いますが……でも、『フツー』に生きるという夢があれば、別にそれはそれでいいんじゃないですか?」
「本人が本当にそう思っているんだったらそうかもね。なぁ、夏樹?」
「まあな……」
弱い声色で答える夏樹。ここぞとばかりに畳みかける新藤。
「だからこそ、高校生で色々な経験をして、青春をして、将来のこと考え、見つけるんだよ! 自分の夢を! 今しかできないぞ!部活なんて尚更だ! 青春のいい例じゃないか! 部活をして沢山の時間を過ごしていく中で色々な感情が芽生える! 時には協力し、時にはぶつかり合う! それが青春じゃないか! そうだろ? だからさ、部活、しようぜ!」
「なんだその理論……」
新藤は急に夏樹の両肩をつかみ、前後に激しく揺らす。
「頼むよ!部活をしよう! 君がうんと言うまでやめない!」
「やめろ……やめてくれ……わかった……わかったから、その手を放してくれ!」
すると急にパッと手を放し、夏樹は地面に尻もちをついた。
「痛っ! 急に放すなよ!」
お構いなしに新藤は満面の笑みを夏樹に向ける。
「そうか! それはよかった! 早速だけど、明日から部活やるからね! 時間は午前九時に理科室に集合で!」
「急だな! 人の予定とか確認しないのかよ!」
「え?なんか予定あるの?」
「ゲームをするという予定がある!」
「じゃあ、ないな! よかった!」
そのやり取りを見ていた遥は危機感を感じ、その場から立ち去ろうとした。が、遅かった。
「あ、もちろん遥も部活に参加ね?」
「い、いや、私は忙しいので……」
「僕さぁ、口が軽いんだよね~」
その瞬間、遥は新藤の懐に素早く飛び込み、右手で腹部めがけでパンチを繰り出した。しかし、新藤は左手でそれをまるで予想していたかのように、いとも簡単に受け止める。
「威力あるね~! キミのパンチ!小説家にしておくには勿体ない!」
「まさか、脅迫ですか……?」
「脅迫も何も。僕ってさ、ほら、口軽いじゃん?」
「知らないですよ」
「だからさ、誰かとすれ違う時にぽろっと言っちゃいそうなんだよね~。遥の夢」
今度は左手で顔面を狙ってパンチをする。しかし、かわされて距離を取られる。
言葉の応酬とともに、遥のパンチは何度も、執拗に新藤を襲う。しかし、彼女の拳はいとも簡単に新藤に受け止められ、躱されてしまう。
「卑怯です! さっさと殴られてください! それが教師のやることですか!」
「そんな怖いこと言わないでくれよ~。まぁ、一生僕には当たらないと思うけどね」
悔しそうに新藤をにらみつける遥。
「それに、小説のネタにもなるんじゃない?」
遥はピクッと反応した。
「平凡な男子高校生が部活に入り、たくさんの出来事を通じて将来の夢を見つけ、青春を謳歌する感動ストーリー! こんなのはどうだい?」
「い、いやぁ……ま、まぁ……悪くはないかと」
「小説を書く上で重要なのは経験とアイデアだ!ずっと家に引きこもってたっていいアイデアなんか出るわけがない! 部活に参加して色々なことを経験してアイデアを出す! それが物語の深みを出して良い作品を作ってくれるんだ! だから、部活をやろう!」
遥は新藤に言い負かされそうになり逃げだしそうになった。しかし、小説のアイデアの話を聞いたとたんにまんざらでもない表情を見せる。が、一つ疑問に思うことがあった。
「いったい部活で何をするんですか?」
「それは部活に来てからのお楽しみ!あ、あと気になっていると思うけど、部活の名前を発表します!」
「はぁ?もう決まってるのかよ!」
新藤は懐に隠し持っていた巻物を広げた。その巻物には太字の文字が躍っている。夏樹と遥の目の前にそれを突きつけ、高らかに宣言する。
「ずばり!『青春同好会』だぁぁぁぁぁぁぁ!」
新藤の顔には会心の命名だと確信した、満面の笑みが浮かんでいた。しかし、それとは裏腹に二人の間には一瞬の沈黙が流れる。
そして、ほぼ同時に
「ダサぇ!」
「ダサい!」
自信満々な新藤に対して、二人の視線はまるでゴミを見るかのような、冷ややかなものだった。彼らの顔には呆れと嫌悪感が交じり合っている。
「しかも、部活ですらない……」
「ダサいとは何だ! この名前を考えるのに三日三晩寝ないで考えたんだから!もちろんウソだけどね!」
「ウソかよ!」
「同好会なのは部員が二人しかいないからね! 部員が集まれば部活動として認められるけど、これ以上増やす予定もないからね! もちろん顧問は僕がやらせてもらう!」
「ちなみに、いつもその巻物っていつも持ち歩いてるんですか?」
「今日という日が来ると思って常に持ち歩いていたんだ! ああ!やっと使う日が来るとは……教員生活始めて早○年……肌身離さず持ち歩いていた甲斐があったなぁ……涙が出る」
「いつも持ち歩いているのかよ!」
「まぁ、それはそれとして、僕は明日からの準備があるんで! それじゃあ!また明日!」
言いたいことを一通り言い終えた新藤は、すっきりとした顔で足早にその場から立ち去っていった。
取り残された二人は呆然としていた。少しして夏樹が口を開いた。
「俺は……『フツー』に生きていきたいだけなのに。何でこんなことに巻き込まれなければいけないんだ!」
「まぁ、でも夏休み長いし、やってみてもいいんじゃない?私も小説のネタになるし、いいかもって思っちゃった」
「ホント迷惑だよ……。バックレようかな……」
「『フツー』の人生を生きていきたいのならそのままいればばいい」
その言葉に夏樹は驚き、遥を見た。
「って言うかもね」
いじわるそうに笑う遥。
「なんだそれ……。面白いな。あ、あとさ、君のことは何で呼べばいい?」
「遥でいいよ。夏樹君」
「わかったよ。遥」
夏樹はどこかまだ戸惑いを抱えながらも、不思議と胸のざわつきを感じていた。ふと、空を見上げると。巨大な入道雲が吸い込まれそうなほど深い青の空に、まるで泡のように浮かんでいた。蝉のけたたましい鳴き声が降り注ぐ、うるさく鳴く七月のとある日の出来事。
『フツー』を望む夏樹の日常に、甘酸っぱい炭酸の泡が静かに、しかし、確かに混ざり始めた瞬間だった。