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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

積乱雲と蝉の声

作者: 獅子唐麦香


 ペダルを漕ぎ熱波を切り裂く。


「どうだ! 風、来るか?」


「うん! 意外と涼しいね今日ー!」


「いやいや、三十五度以上あるんだぞ! 風のお陰だよ!」


 日向を避け安全運転に最大限の注意を注ぐ。子乗せの電動自転車を全力で漕ぎ後部座席にいる日菜子(ひなこ)に風を送る。

 こんな猛暑日に外に出るのは間違っている。本当は車で行った方が良い。だが、どうしても自転車で行きたかった。


「ほら、見てみろ! おっきいだろ!」


「モコモコだね!」


 澄み渡る青空には夏の雲がどっしりと浮かんでいた。いかにも堅そうな積乱雲(せきらんうん)の横には線を引いた様な巻雲(けんうん)が浮かぶ。


「雲って、面白いね!」


 小学校ニ年生の夏休み、夏の雲を自由研究の題材にした。父親に手伝ってもらい、二枚の模造紙に写真付きで雲の種類をまとめた。

 一つとして同じ形のない雲は、青空をキャンパスにその瞬間だけの輪郭を披露する。太陽の気まぐれがそれを彩る。


 夏空が好きになった。


 だがやがて、大人になりじっくりと空を眺める時間は無くなった。

 娘の日菜子が小学生になり、初めての夏休みを迎えた。


「今年は日菜子とプールに行くって言ってたよね? プール開き、今週末みたいだよ」


 県営プール近くの川沿いで、子供の頃に空を眺めた事を思い出した。家を出る直前に車ではなく自転車で行く事に決めた。


「あの雲、ワニみたい!」


「おおー、確かに見えるね!」


 背中越しに日菜子の嬉しそうな声を聞き、やはり親子なのだと思う。

 日菜子もまた、夏の雲が好きなのだ。



 駐輪場を出てプールの入口に向かう。


「そういえば、中田のおばあちゃんまた言ってたね」

「うん?」

「良いパパだねって」

「ああ、それね」


 向いに住む中田さんは、会うたびに「良いパパね」「優しいパパで良いわね」などと声をかけてくる。年配の人から見ると家事や育児をする父親は特別に見えるのだろう。

 嫌な気はしないが、今の時代男性が家事育児をするのは当たり前だ。どうも反応に困ってしまう。


「それと、若い女の人が刺されたって言ってた。あれもうちの近くなの?」

「うーん。ニュースになってたね」

「こわい」

「最近、物騒なだからね。うちも戸締まりには気をつけよう。お母さんと日菜子の事は、お父さんが必ず守るから」

「うん。泥棒もまた出たって言ってたし。そこに住んでたお婆さんが死んで可哀想って言ってた」


 いつもの事だが、物騒な話も子供の前で平気するのが中田さんの少し困ったところだった。



 入場を済ませ更衣室を出ると、県営最大規模のプール場が一面に広がった。

 まだ開園したばかりで人は少ない。晴れ渡る青空の下、人々は興奮を隠せない足取りでお目当てのプールに向かう。


「冷たーい!」


「ひゃーっ、冷たいねー!」


 入口に近くにあるシャワーのトンネルを通る。気温が高いため水の冷たさに思わず二人で声をあげた。


「あそこ行こうー!」


「走っちゃダメだよー!!」


 日菜子は子供用プールに一直線に向かった。その後ろ姿を見て思わず笑みが溢れる。

 気がつくと小学生になっていた。子供の成長は早い。最近は口が達者になり、妻にも堂々と口答えをしている。


「ねえ、浮輪は?」


「今膨らませるから待ってて」


  子供用プールを歩きながら浮輪に息を吹き込む。小さな浮輪はあっという間にパンパンになった。日菜子は嬉しそうに受け取ると、水深の浅いプールで何とか浮輪で浮こうと奮闘している。


「流れるプールに行こうか」


 流水プールは混雑時となると人でびっしり埋め尽くされるのだが、今はまだ隙間の方が多かった。ゆったりとした流れに浮輪を浮かべる。

 子供の頃、よくこの流水プールに皆んなでゴーグルをつけて潜った。小銭が至る所に落ちていたのだ。小学生にとっては五百円玉は大金だった。皆んながスライダーに行ってもひたすら小銭探しを続ける奴もいた。懐かしい記憶だ。


 日菜子は浮輪の上で気持ちよさそうに空を眺める。


「あの雲は、積乱雲て言うんだよ」


「せきらんうん?」


「そう、積乱雲。急に大雨を降らせたりする夏の雲だよ」


「へー。お父さんは雲に詳しいんだね」


「昔、おじいちゃんと夏休みの宿題で一緒に雲を調べたんだ。良かったら日菜子も自由研究のテーマにするといいよ」


「うん! わたしも雲を調べたい! お父さんも一緒にだよ! 約束だからね!」



 日菜子の乗る浮輪にしがみつき、水面を漂う。


 陽射しは強い筈だが暑さは感じない。


 水飛沫で濡れた頬を風が涼しく撫でる。


 蝉の声が遠く響いていた。



 その後も何周も流水プールを漂った。たわいもない会話が途切れる事はない。


「帰ったらゼリー食べたい」


「いいよ、一緒に作ろうか」


「夕方からお仕事じゃないの?」


「大丈夫。少し時間あるから作ろうね」


 流水プールを出ると滝のプールに向かった。しかし、滝のプールは閉鎖されていた。水深2メートル以上ある潜るプールも利用禁止になっていた。これも時代の変化なのだろうか。仕方がなく波のプールに向かった。


「あれ? (あつし)さん?」


 突然名前を呼ばれ声の主を探す。


「おお、直己(なおき)か。意外なところで会ったな」


「この前、敦さんがここのプール激推ししてたんで来てみたんですよ」


 言われて思い出した。仕事仲間の直己と珍しく仕事以外の話をした。海の話になり、そこからプールの話になった。俺がプールの魅力を語ると直己は笑っていた。


「お前、馬鹿にしてたじゃないか。でも、案外いいもんだろ? ま、楽しんでな」


 プライベートで会うのは何となく気まずく、直ぐにその場を立ち去った。


「お父さんのお友達?」

「いや、一緒にお仕事をしている仲間だよ」

「お部屋の壁に紙を貼る?」

「そうだよ」

 日菜子には仕事の内容を簡単にそう説明してある。

「あの人お洋服着て泳ぐの?」

「お洋服?」

「うん。腕も足も全部洋服で隠れてたから」

「ああ……あれはウエットスーツって言ってね、水に入る為に着るものなんだよ」

「そうなんだ」


 波のプールに着くと丁度波が発生する時間だった。奥に行くほど波は大きくなる。


「うわー!」


「もう一発来るぞー!」


 浮輪が上下に大きく揺れる。見た目よりもダイナミックな波に、日菜子は嬉しそうに悲鳴をあげる。

 子供の頃は波のプールは無かった。二十歳を過ぎ久々に訪れた時、このエリアが新設されていた。

 時代によって客の雰囲気も変わる。その頃のプールは日焼けと飲酒、そしてナンパの場所だった。友人と二人で訪れた俺は、一日中肌を焼く事に勤しんだ。


 波の時間が終わり一堂が一斉に引き上げる。


「お腹減ったー」


 昼にはまだ早いが水の中にいると腹が減る。


「それなら、いいもの食べに行こう」


 園内にいくつかある売店のひとつに向かう。


「うわっ! カップラーメンがいっぱい!」

「これは凄いな……」


 そこは昔からカップラーメンを売りにしていた店だが、数十年ぶりに来ると壁一面に様々な商品が積まれていた。お湯を入れるポットもずらりと並ぶ。


「わたしはこれがいい」


 日菜子は焼きそばを選んだ。俺は昔からあるシンプルな醤油味のラーメンを手に取る。何故かここで食べると家よりも美味しく感じるのだ。


 小腹を満たし外に出ると、日菜子がトイレに行きたいと言った。売店の近くにあるトイレに入る。入口から少し離れた場所で待つ事にした。

 正午近くになり陽射しが更に強くなった。乾いた体を早く水に浸したい。売店の周りには人が溢れていた。子供達がちょろちょろと走り回っている。

 目の前にスマホで自撮りをしている男がいた。こんなところで自撮りとは珍しい。外国人かもしれない。実際、久々に来て外国人の多さに驚いた。何気なく男の顔を見ると日本人のようだった。一瞬スマホの画面が視界に入る。幼い少女の水着姿が見えた。赤いボタンの表示された画面には、数メートル先にいる二人の少女の下半身が拡大されていた。

 男は満足したのかスマホを下ろしトイレに向かった。俺は自然な足取りで男より先にトイレに向かう。

 女性用と男性用トイレの間に多目的トイレがあった。静かにドアをスライドさせる。男性用トイレに入ろうとする男がすぐ横を通った。男の肩に手を回し多目的トイレに投げ込む。直ぐにドアを閉め鍵を掛け、濡れた床の上で恐怖の表情を浮かべる男のみぞおちに踵をめり込ませた。男は体をくの字に曲げ涙とよだれを撒き散らした。

 床に転がるスマホを室内の隅にある段差に立て掛ける。思い切り踏みつけると素早くドアを開け外に出た。日菜子はまだ出てきていないようだ。目の前を二人の少女が小走りで横切った。思い直し多目的トイレに戻り再び鍵を掛ける。便器にしがみつき震えている男の右足首を無理矢理持ち上げ股間を蹴り上げた。足の甲に何かが潰れる感触がした。外に出ると日菜子がいた。不安そうな顔は目が合うと笑顔に変わった。


「お父さんもトイレ?」

「ああ、お腹痛くなっちゃってね」

「大丈夫?」

「うん。もう平気だよ。さ、また水に入ろう」

「うん!」



 園内はだいぶ混み合ってきた。比較的空いていたプールに浮輪を浮かべ水面を漂う。何の特徴もないオーソドックスなプールも良いものだ。見上げた空には積乱雲が浮かんでいた。気まぐれで太陽の光を遮る。辺りは一瞬薄暗くなり蝉の声が大きくなった。


「変わらないな」


「お父さん、何か言った?」


「いや、なんでもない」


 周囲は親子連れだらけだった。飲酒が禁止になり、危険な要素のあるものは全て排除された。安全に最大限配慮した空間は、親子が安心して過ごす場となっていた。それで良いのだと思う。何事も時と共に変わっていくのだ。


「あれ、なんて書いてあるの?」

 日菜子が看板を指差す。

「うん? あれはね、刺青がある人は入場出来ませんて書いてあるの」

「いれずみ?」

「体に絵が書いてある人はプールに入れませんてことだよ」

「そうなんだ」

 日菜子がどれだけ理解したか分からないが、会話はそこで終わった。


「ただいまからプールの一斉点検に入ります! 今から十五分間、全てのプールには入れません!」


 全プールの一斉点検の時間になった。石を持ち上げられたダンゴムシ達の様に、人々は一様に日陰を求め散り散りになる。

 正午の太陽は影を作らない。園内の外れに何とか木陰を見つけた。そこは近くにプールが無く、見捨てられた様にひっそりと喫煙所だけがあった。

 タバコに火をつける。日菜子は少し離れた場所にある小川に足を浸していた。



「あ、どうも」

 喫煙所には直己もいた。

「さっき一緒にいたの彼女か?」

「ええ、まあ」

「そっか、大切にしろよ」

「うっす」

「それと、今夜の現場、人数揃ったのか?」

「はい。昨日の夜中に一人応募してきた奴がいて、なんとか」

「わかった。じゃあ、また今夜」

 それ以上話すことは無かった。

「……あの、敦さん。この前の現場の、縛って放置した婆さん、あの後……」

「直己、その話は無しだ。忘れろ」

 俺は半分以上残っているタバコを押し潰しその場を離れた。


 日菜子を探すが見当たらない。先程までいた小川を見て回るが何処にもいなかった。不安が一気に込み上げる。仕事をしくじった者に上層部は容赦しない。見せしめの意味もある。

 プールの点検が終わり、人々が一斉に動き出した。日菜子らしき後ろ姿が一瞬遠くに見えた。誰かに手を引かれているようだったが、すぐに人混みに飲まれ見えなくなった。


 プールサイドを全力で走る。監視員の怒声が飛ぶ。人をかき分けプールに飛び込む。直線距離はこっちの方が近い。対岸につき水からあがる。先程日菜子がいたのはこの辺りの筈だ。周囲を見回すが人が多過ぎる。恐怖が全身を包み込む。



「——お父さん!」


「日菜子!!」


 走り寄る日菜子を抱きしめる。


「急に走り出してどうしたの?」

「いや、日菜子が見当たらなくて」

「うん。ちょっとまたトイレに行ってたの。それより、走っちゃダメだよ。怒られてたよ」

「ああ、すまない」


 どうやら、先程見た後ろ姿は人違いだったようだ。危うく気を失いそうになる。足元を見るとアブラ蝉の死骸が転がっていた。



「せきらんうんだね」


 帰る前にもう一度流水プールに入った。日菜子は流れる浮輪の上から空を見上げる。積乱雲をすっかりと気に入ったようだ。そのあどけない顔は、あと数年もすれば大人のものに変わるだろう。いつまで側にいられるだろうか。

 きっかけは些細なものだった。二十代の頃に先輩から割の良いバイトだと誘われた。深く考えずに始めたが、すぐに後悔した。非合法な商売だった。気がつくと人生はがんじがらめになっていた。抜けようとしたり、指示に従わない人間の末路を何度も見た。組織の規模は大きいようだがその全貌は知る由もない。上から指示があればただ従うだけだ。

 俺の本当の仕事を知ったら日菜子は嫌悪するだろう。激しい憎しみすら抱くかもしれない。

 そして、その日はいつか訪れる。

 蝉の声が突然やんだ。

 蝉は地上に出た自分の命が僅かだと知っているのだろうか?

 だが、知っていようと知らなかろうと命の長さは変わらない。

 俺も最後の時まで鳴き続けるだけだ。


「なあ日菜子」


「なーに」


「また一緒に来ような」


「うん!」



 更衣室を出て水着を絞っていると、着替えた日菜子が戻って来た。


「疲れたでしょ? 帰りは寝ていいからね」


「眠くないよ。それよりゼリー食べたい」


「そうだったね」


 横断歩道を渡り駐輪場に向かう。午後の日差しは強く、濡れた髪があっという間に乾く。

 荷物を乗せ自転車の鍵を取り出す。


河内敦(かわうちあつし)さんですね? 少しお話しよろしいですか?」


 振り返るとワイシャツを着た男が二人立っていた。男は黒い手帳を取り出す。


 俺は深く息を吐く。それから空を見上げた。

 隣にいる日菜子もつられて顔をあげる。


 澄み渡る青空に、

 積乱雲がどっしりと浮かんでいた。


 それは父と子供の頃に見たままだった。


 遠く鳴り響く蝉の声が一際大きくなる。


 俺は娘と見たその夏空を、


 一生忘れないようこの目に焼き付けた。




 ——積乱雲と蝉の声——






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