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名探偵の回顧録  作者: 西季幽司
回顧録(二)「消えた篤志家」
31/72

葆光彩磁花瓶①

 岐山の花瓶から指紋の採取が行われることになった。

 田端文士村記念館の学芸員、中田から現在の花瓶の所有者を教えてもらっていた。花瓶の所有者、小田島宗治と連絡を取り、指紋を採取させてもらいたいと頼んだところ、「警察の捜査に協力するのは市民の義務ですから構いません。ただし、貴重なものですので、お貸しする訳には行きません。自宅に来て、指紋を採取して頂けるのでしたら、何時でもご協力します」と言う返事だった。しかも、「花瓶は何度も磨き上げているので、元の所有者の指紋が残っているとは思えません。ですが、花瓶が入っていた共箱に、誰のものか分からない指紋がついています。脂ぎった手で触ったのか、黒ずんだ指紋が残っているのです。岐山の指紋かもしれないと思い、そのままにしてありますから、違うのなら、この際、綺麗にしてしまいたいですね」と言うことだった。

 期待が持てた。我々は鑑識官を連れて、勇躍、小田島邸に向かった。

 小田島は銀座でギャラリー「カラット」と言う宝石店を営んでいる。警察の捜査に協力する為に、当日は自宅で待機してくれた。岐山の花瓶が心配だっただけかもしれない。

 花瓶は応接間のテーブルの上に無造作に置かれていた。

 淡い紫で紫陽花の花が、花瓶一面に描かれてある。神々しいまでの美しさだ。骨董品に興味が無い私でさえも、花瓶の発する気品に圧倒されてしまった。

 よく見ると、無造作に置いてあるように見えて、応接間の一番良い場所に、置かれてあった。小田島は宝石商とあって、見せ方を心得ている。

 現時点で、その価値は一億円を超えていると言う。「良い買い物をしました」と小田島は自慢顔で言った。

「花瓶に指紋は残っていないと思います。値段うんぬんより、我々、日本人の宝と言える代物ですから、申すまでもありませんが取り扱いは慎重にお願いします」丁寧だが、きっちり小田島からプレッシャーをかけられた。

 鑑識官が指紋の採取を始めた。手先が震えている。緊張が手に取るように分かった。

「ああ、そうでした。少々、お待ちください」小田島は我々を残して応接間から出てゆくと、「これです」と言って桐箱を持ってきた。花瓶が収められていた共箱だ。

 岐山の手によるものだろう「葆光彩磁花瓶」の文字が、力強い筆跡で墨書きしてある。崩してあるが岐山の署名と、昭和二十年八月と製作年が記されていた。

「ここを見て下さい。ほら、指紋がついているでしょう。ひょっとしたら岐山の指紋かなと思ったのですが、岐山ほどの人物が、大事な作品の共箱を汚い手で触るはずはないと思います。箱書きの文字は間違いなく岐山の手によるものですから、この共箱には史料的な価値があります。今回、箱の指紋が岐山のものかどうか、はっきりさせて頂ければ助かります。岐山の指紋でなければ、この際、綺麗に消してしまいたいと思っています」

 確かに黒ずんだ指紋が、共箱の裏に残っていた。これだけ鮮明だと、デジタル画像として記録し、指紋照合が出来そうだ。

 花瓶からは結局、所有者である小田島の指紋すら出なかった。日頃から手入れに余念がないようだ。桐箱から撮った指紋だけを持ち帰った。

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