表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

二つの国の狭間で

朝靄が首都ヴァルデンクラウスの石畳を覆う早朝、レインは古地図を広げていた。黄ばんだ羊皮紙の上で、彼の指先はエルギア帝国とセイラム連合の国境、そしてその間に広がる「終焉の地」を辿っていた。地図の端には、前世の習慣で無意識に書いた分析メモが並んでいた。


「おはようございます、レイン様」


ニーアが朝食を運んできた。奴隷市場で彼女を購入してから一週間が経ち、少しずつ彼女の表情は和らいでいた。以前のような恐怖や警戒心は薄れ、代わりに静かな信頼の光が瞳に宿り始めていた。彼女が置いた朝食の皿からは、焼きたてのパンと新鮮なハーブの香りが立ち上っていた。


「今日はいかがお過ごしですか」


「ああ、魔族の動向分析を続けるつもりだ」


レインが朝食に手を伸ばした時、玄関から鈍いノックの音が響いた。ニーアは小さく頭を下げると、応対に向かった。しばらくして彼女が戻ってきた。


「マーク・ベリウス様からの使者がお待ちです」


「さらなる指示か。ついに動き出したようだな」


レインは立ち上がり、鏡の前で襟元を整えた。マーク・ベリウス。エルギア帝国の最有力貴族の一人であり、魔族排除を強く推進する保守派の中心人物。数日前に彼から魔族調査の依頼を受けていたが、詳細な指示はまだだった。


レインは自分の心の内を探った。前世では企業の中間管理職として、上層部の横暴に黙って従うしかなかった。しかし今世では、彼には力があった。「恩恵視」という能力と、情報屋としての立場。それでも、彼の内心には古い従属意識と新たな自立心が交錯していた。誰かを支配したいという欲望は、今も彼の中で燻っていた。


応接室に通されたのは、前回とは異なる中年の使用人だった。彼は厳格な表情を崩さず、レインを見下ろすように立っていた。その姿勢からは、主人の権威を体現しようとする意識が読み取れた。


「マーク・ベリウス様が調査の詳細について直接お話ししたいとのことです。明日、午後二時、ベリウス邸へお越しください」


レインは表情を変えずに応じた。「承知しました」


使用人が去った後、ニーアが不安げな表情で聞いた。「大丈夫なのですか?貴族の館へ…」


彼女の声には懸念が滲んでいた。エルギア帝国では階級社会が厳然と存在し、情報屋のような存在が貴族の館に招かれることは稀だった。特に恩恵者は、その特殊能力ゆえに警戒される傾向にあった。


「心配するな。情報屋として呼ばれたのだから」


レインは言いながらも、自分の「恩恵視」が発する警告を無視できなかった。直感が彼に告げていた——この依頼には通常とは異なる何かがあると。


深紅に染まった夕焼けの空を見上げながら、レインはニーアに言った。「明日は一人で行く。お前は家を守っていてくれ」


ニーアは一瞬、失望の色を見せたが、すぐに従順に頷いた。「はい、レイン様」


彼女の反応に、レインは複雑な感情を抱いた。彼女が従順であることに満足感を覚える自分と、彼女の意思を尊重したいという新たな感情が混在していた。


***


ベリウス邸は首都の高級住宅街に建つ大理石の邸宅だった。宮殿を小さくしたような豪華な外観が、ベリウス家の権力を誇示していた。白亜の柱が立ち並ぶ玄関へと続く石畳の道には、魔族の骨から作られたという噂の装飾が埋め込まれていた。


門をくぐると、厳格な様相の執事が出迎えた。灰色の燕尾服を着た彼は、まるで館の一部のように無感情だった。彼はレインを中へと案内した。廊下の両側には魔族との戦いを描いた絵画が並んでいた。どの絵にも共通していたのは、魔族の残虐性と人間の勇敢さを誇張して描いたプロパガンダ的な様式美だった。


「ようこそ、情報屋殿」


重厚な書斎の扉が開き、中年の男性が振り返った。マーク・ベリウス。50歳前後、細身ながらも堂々とした体格、銀色を帯びた黒髪を後ろで束ねている。その鋭い目は、経験と知性、そして何か冷たいものを湛えていた。彼の指には黒曜石のリングが光っていた。


「お招きいただき光栄です」


レインは恭しく一礼した。表面上は従順な情報屋を演じながら、内心では恩恵視を用いてマークの本質を探っていた。彼の周りには紫と赤のオーラが交錯していた。野心と排他性。そして、その奥底に何か隠されたものがある。黒い霧のような影が、時折その光の間から漏れ出していた。


「評判は聞いていた。『真実を見る少年』とやら」


マークはレインを値踏みするように観察した。彼の声は低く、権威を帯びていた。部屋には高価な香木の香りが漂い、壁には古代の魔法書や文献が並んでいた。


「あなたの能力、『恩恵視』について詳しく聞かせてもらいたい」


予想外の質問だった。通常、貴族が情報屋に依頼する場合、能力の詳細を尋ねることは少ない。なぜなら、恩恵者の詳細は軍や研究機関が把握すべきものであり、個人が介入する領域ではないからだ。


レインは慎重に言葉を選んだ。「対象の本質を視覚化します。人や物事の真実を見抜く能力です」


「具体的には?」


「例えば、嘘をつく人間の周りには赤い靄が見えます。また、物の品質や特性も光のパターンとして理解できます」


マークの表情が微かに変化した。彼の目が細められ、口元に小さな微笑みが浮かんだ。


「それは…便利な能力だ」


レインは本能的に危険を感じた。マークの関心は、単なる魔族調査以上のものだった。何か別の目的があるのだろう。恩恵視が捉えたマークの黒い影が一瞬濃くなったように見えた。


「前回の依頼の詳細をもっとお聞かせください」


マークは大きく頷き、机の引き出しから一枚の地図を取り出した。それはエルギア帝国とセイラム連合の国境地帯を詳細に記した軍用地図だった。一般市民が持つべきではない種類のものだ。羊皮紙の表面には赤い印が付けられ、幾つかの地点が丸で囲まれていた。


「先日依頼した魔族の動向調査だが、もっと詳しい情報が必要になった。特に、食料の略奪パターンに注目してほしい」


レインは地図を見て、内心で驚いた。地図には軍の動きや防衛拠点まで記されていた。通常、こうした情報は厳重に管理されているはずだ。マークがこれを持っているということは、彼の権力が想像以上に大きいことを意味していた。


「なぜ私に?軍の諜報部ならもっと適任では?」


マークは冷笑を浮かべた。彼の表情には何か陰鬱なものが見え隠れしていた。


「軍は形式に囚われすぎる。私は…別の視点が必要なのだ」


彼はゆっくりと書斎を歩き回りながら続けた。足音は重厚な絨毯に吸い込まれ、ほとんど聞こえなかった。


「魔族について、君はどう思う?」


レインは表情を変えずに答えた。「調査対象です」


「そう、客観的な立場か」マークは首肯した。彼の指が本棚の上を滑るように動き、一冊の古い本を取り出した。「セイラム連合はどうだろう?彼らの『共存』政策について」


これは危険な質問だった。エルギア帝国とセイラム連合の関係は微妙だ。表面上は平和的だが、魔族問題に関しては根本的な対立があった。エルギアは魔族の排除を主張し、セイラムは交渉と共存を模索している。その違いは単なる政策の相違ではなく、文化的・歴史的背景に根ざした深い溝だった。


「政治的見解は持ち合わせておりません。情報の収集と分析が仕事ですので」


マークは満足げに微笑んだ。「賢明だ。では、依頼の詳細だが…」


彼は最近の魔族襲撃地点と襲われた物資について説明した。特に発酵食品や調味料が集中的に狙われていること、被害が増加傾向にあることを強調した。彼の声には、事実を述べているようでいて、どこか感情的な憎悪が混じっていた。


「私の予想では、彼らは何かの儀式を計画している。『共食の儀』という言葉を聞いたことがあるか?」


レインは心臓が跳ねるのを感じた。ガラスの遺品の中で見つけたその言葉。そして何より、ニーアの記憶の中に存在するという言葉。それをマークが知っているとは。恩恵視は彼に警告を発していた—マークはこの言葉に並々ならぬ関心を持っているようだった。


「伝説的な儀式と聞いたことがあります。詳細は不明ですが」


「そうか」マークは意味深に頷いた。彼の目に一瞬、鋭い光が宿った。「君の調査で、その詳細が明らかになることを期待している」


会談は一時間ほどで終わった。マークは高額の前金を支払い、一ヶ月後の報告を求めた。その金貨の重みには、単なる依頼以上の期待が込められているようだった。


帰り道、レインは考え込んでいた。マークの真の目的は何なのか。恩恵視が示した彼の本質——野心と排他性。そして隠されたもの。これは単なる魔族調査ではない。彼が求めているのは「共食の儀」についての情報だ。それが何を意味するのかは不明だが、レインは本能的に危険を感じていた。


***


「リディア・ノール?」


ニーアが不思議そうに首を傾げた。レインが夕食の席で語った名前に反応したのだ。ろうそくの灯りに照らされた彼女の表情には、純粋な好奇心が浮かんでいた。


「セイラム連合の有力商人、ノール家の娘だ。明日、彼女が首都に来るという情報を得た」


「セイラムの方が…なぜこちらへ?」


ニーアの質問には鋭いものがあった。彼女はレインの家で過ごす時間が長くなるにつれ、自分の考えを率直に表現するようになっていた。彼女の賢さと直感力は、単なる奴隷少女のイメージをはるかに超えていた。


レインは肩をすくめた。「商談だろう。公式にはな」


しかし、彼の直感はそれ以上のものを感じていた。マークからの依頼の直後に、セイラム連合の有力者が首都を訪れるのは偶然ではないだろう。特にノール家は魔族との交易を推進する立場で知られていた。エルギアの保守派と相容れない存在だ。


「何か…繋がりがありそうですね」


ニーアの洞察力には驚かされる。彼女は単なる奴隷として購入したはずだったが、日に日に彼の良き相談相手となりつつあった。彼女の「記憶の継承」能力も、魔族調査において大きな助けになる可能性があった。


「ああ、明日、リディアが滞在するというカフェへ行ってみよう。お前も来るか?」


ニーアは少し驚いたように目を見開いた。彼女のアンバー色の瞳が、ろうそくの光に揺れた。


「私も…いいのですか?」


「ああ、一人で行くより自然に見えるだろう」


実際は、彼女の感性が役立つ可能性もあると考えていた。そして何より、ニーアを一人家に残すのは気が進まなかった。彼女の安全を確保したいという思いが、予想外に強かった。前世では誰かを守りたいと真剣に思ったことはなかった。その感覚は、彼にとって新鮮で不思議なものだった。


ニーアは嬉しそうに頷いた。彼女の顔には、奴隷として購入された日には見られなかった生気が戻りつつあった。その表情を見て、レインは胸の内に複雑な感情が湧き上がるのを感じた。支配欲は依然として彼の中に存在していたが、同時に彼女への純粋な思いやりも育ちつつあった。


「では、どんな服を着れば…」


ニーアの問いかけに、レインは少し考えてから言った。「明日、市場で新しい服を買おう。奴隷用の衣服では目立ちすぎる」


彼女の目が輝いた。それはただの喜びではなく、何か深い感謝の光だった。レインは不思議な感覚に包まれた。前世でも今世でも、こんな風に誰かに喜んでもらえることはなかった。


***


翌朝、市場は活気に満ちていた。エルギア帝国の首都ヴァルデンクラウスの中央市場は、帝国の豊かさを象徴する場所だった。石畳の広場に並ぶ露店には、帝国各地から集められた新鮮な果物や野菜、高級な織物や宝飾品が並んでいた。


ニーアは好奇心に満ちた目で周囲を見回していた。奴隷として売られる前は、こんな大きな都市を見たことがなかったのだろう。彼女は特に花屋の前で足を止め、色とりどりの花々を見つめていた。


「何か欲しいものはあるか?」


レインの言葉に、ニーアは慌てて首を振った。「いえ、ただ…綺麗だなと」


彼女の素直な反応に、レインは思わず微笑んだ。彼女の純粋さは、彼の心の硬い殻を少しずつ溶かしていくようだった。


衣服店では、レインはニーアのために一般市民の少女が着るような質素だが上品な服を選んだ。深緑色のワンピースは、彼女の褐色の肌と黒髪によく映えた。


「これでいいですか?」


ニーアは試着してみたいと言いつつも、レインの前で着替えることに恥じらいを見せた。奴隷としての扱いに慣れている彼女にとって、プライバシーの配慮は新鮮な経験だったのだろう。


「店の奥で着替えてこい」


彼女が戻ってきたとき、そこには別人のような少女が立っていた。奴隷の粗末な服ではなく、一般市民の娘として着飾ったニーアは、驚くほど美しかった。彼女は少し恥ずかしそうに目を伏せ、そっと裾をつまんだ。


「似合っているか…」


「ああ、似合っている」


レインはそう言いながら、自分の心の内を探った。彼女を所有物として見ていた自分と、一人の人間として尊重したいという気持ちが入り混じっていた。彼の中の欲望は形を変えつつあったが、まだ完全には理解できていなかった。


昼過ぎ、彼らはヴァルデンクラウスの東区にある「シルフィードの庭」というカフェに向かった。異国情緒あふれる高級カフェは、セイラム連合の影響を受けた内装と料理で知られ、両国の商人たちの非公式な会合場所として利用されていた。


帝国の重厚な石造りの建物が並ぶ通りの中で、このカフェだけは異彩を放っていた。明るい色調の木材を使った建物は、ガラス窓が多く、光に満ちていた。入口には青と緑の植物が配され、セイラム連合の自然尊重の精神を表現していた。


レインとニーアは窓際の席に座り、店内を観察していた。ニーアは少し緊張した様子で、周囲を警戒するように目を動かしていた。彼女の緊張は当然だった。奴隷から突然、自由市民を装うことになったのだから。


「リラックスして」レインが小声で言った。「普通のカップルを装うんだ」


ニーアの頬が少し赤くなった。彼女はお茶を一口飲み、視線を落とした。レインはそんな彼女の反応に、不思議な温かさを感じた。前世では他者との親密さを面倒に感じることが多かった彼だが、ニーアとの時間は心地よく感じられた。


「来たぞ」


カフェの入口から、二人の女性が入ってきた。一人は30代前半、知的な美しさを持つ女性。セイラム連合の伝統的な青と緑を基調とした洗練された服装をしていた。もう一人は彼女の護衛らしき、筋肉質の女性だった。


「リディア・ノール」レインは小声で言った。「セイラム連合商議会議員ノールの娘にして、連合内で最も急進的な魔族共存派だ」


リディアは店内を一瞥し、奥の個室へと向かった。彼女の動きには余裕と自信があり、生まれながらの優越感が漂っていた。しかし同時に、セイラム連合特有の柔軟さと開放感も感じられた。


「彼女も…何か探しているように見えますね」ニーアが囁いた。彼女の直感は鋭かった。


レインは頷いた。「ああ、彼女の行動には明らかに何かの目的がある」


「どうしてセイラムの人が、ここエルギアで何かを探すのでしょう?」


「それが問題だ」レインは思案顔で言った。「セイラム連合とエルギア帝国は表向き平和だが、魔族問題では真っ向から対立している。セイラムは魔族との共存を図り、エルギアは排除を主張する」


「でも、どちらも…正しいようにも間違っているようにも思えます」


ニーアの言葉には深い洞察があった。彼女は単純に物事を見ていなかった。


「ああ、だからこそ二つの国は理解し合えないんだ」


二人はコーヒーをゆっくり飲みながら待った。セイラム連合の影響を受けたカフェの料理は、エルギア帝国の重厚な味わいとは一線を画していた。軽やかな香辛料の香り、鮮やかな色彩、そして微妙な甘みと酸味のバランス。それはまるで二つの国の文化的違いを象徴しているかのようだった。


約15分後、一人の男性がカフェに入ってきた。一見すると普通の商人のように見えるが、レインの恩恵視は彼が偽装していることを示していた。彼の周りには緑と青のオーラが漂い、潜入のプロであることを示唆していた。


「エルギア帝国の諜報員だ」レインは驚きを隠せなかった。「リディアは帝国の諜報部と接触している」


男性は周囲を確認してから、リディアのいる個室へと消えていった。彼の動きには計算された慎重さがあり、素人の目には決して怪しまれないようになっていた。


「どういうことでしょう?セイラムとエルギアは…」


「表向きは対立しているがな」レインは思案顔で言った。「何か大きな動きがあるようだ」


彼らは食事を続けながら、個室からの様子を窺った。約一時間後、男性が先に退出し、その後リディアも店を出て行った。彼女の表情には、何か決意したような凛とした空気が漂っていた。


レインとニーアもカフェを後にした。外に出ると、レインは恩恵視で周囲を確認した。カフェの周辺には数人の影が潜んでいた。リディアの護衛だけでなく、エルギアの監視員もいるようだった。


「私たちも見られていますか?」ニーアが不安そうに尋ねた。


「ああ、だがただの客として見られているだけだろう」


レインは彼女の肩に軽く手を置いた。その接触が、不思議なほど自然に感じられた。前世では他者との触れ合いに不快感を抱いていた彼だが、ニーアとの接触には安心感があった。


市場を通りながら、レインは自分の立場を考えていた。彼はマーク・ベリウスから依頼を受けている。しかし同時に、リディア・ノールの動向も気になる。二つの国の駆け引きの中で、彼はどちらの側に立つべきか。いや、そもそも側に立つ必要があるのか。ガラス爺の言葉が頭をよぎった。「七面神の真実を探れ」


「あの…レイン様」


ニーアの声が彼の思考を中断させた。彼女は市場の一角を見つめていた。そこには魔族の剥製が飾られていた。スウィフトクレイダーの姿だ。その赤い目は今も恐怖を誘うように輝いていた。


「大丈夫か?」


ニーアは震える手で自分の額を押さえていた。彼女の顔からは血の気が引き、冷や汗が浮かんでいた。


「すみません…頭が…」


彼女の記憶が反応したのだろう。レインは人混みから彼女を連れ出し、静かな裏通りへと導いた。彼は彼女を心配すると同時に、彼女の反応に何か重要な手がかりがあるのではないかとも考えていた。


「座れ」


石のベンチに座らせると、ニーアは深く呼吸をした。彼女の目には恐怖と混乱が交錯していた。徐々に落ち着きを取り戻したようだが、まだ震えは止まらなかった。


「何か…見えたのか?」


ニーアはゆっくりと頷いた。「村が襲われた夜の…断片的な記憶です。でも、今まで見えなかったものが…」


彼女は困惑したように目を瞬かせた。記憶が彼女の中で整理されていく様子が窺えた。


「魔族たちが…互いに話していました。人間の言葉で」


レインは驚いた。一般的に魔族は独自の言語を持つとされ、人間の言葉を理解すると考えられていなかった。もし魔族が人間の言語を理解しているとすれば、それは彼らがただの野蛮な生物ではないということを意味する。


「何と言っていた?」


ニーアは目を閉じ、記憶を辿るようにして言った。「『記憶の継承者を探せ』と…そして『共食の儀のために時間がない』と」


二人は沈黙した。この情報は重大だった。魔族が「記憶の継承者」を探しているということは、ニーアのような能力者を狙っているのかもしれない。彼女の安全が脅かされる可能性があった。その認識がレインの心に焦りを生んだ。


「帰ろう。今日はもう十分だ」


レインは決意した。ニーアを守るため、そして真実を探るため、彼は慎重に行動する必要があった。彼女の肩を抱くようにして支えながら、レインは警戒心を強めた。前世では誰かを守るという経験がなかった彼にとって、この感覚は新鮮だった。同時に、彼の中の支配欲も形を変えつつあった。ニーアを所有物として扱いたいという欲望は、彼女を守りたいという気持ちへと徐々に変化していた。


***


数日後、レインは前世の知識を活かし、魔族の行動パターンを分析していた。机上には地図が広げられ、襲撃地点がマークされていた。ニーアの協力で、彼女の村の位置も特定できた。彼は前世でデータ分析の仕事に従事していた経験を思い出し、点と点を結びつけようとしていた。


「パターンが見えてきた」


レインは地図を眺めながら言った。魔族の襲撃は、特定の線上に並んでいた。まるで何かをたどるように。彼は赤い糸で点と点を結んでいき、その線がある地点に収束していくのを確認した。


「彼らは何かを探している。無差別な襲撃ではない」


ニーアは彼の隣で考え込んでいた。彼女の「記憶の継承」能力は徐々に安定し、村の襲撃時の記憶をより鮮明に思い出せるようになっていた。レインは時々彼女の表情を窺った。彼女が記憶と向き合う勇気には感嘆させられた。


「レイン様、思い出したのですが…村長の家が最初に襲われました。そして村の記録庫も」


「記録庫?何が保管されていたんだ?」


「村の歴史や儀式の記録、出生記録など…」


彼女は言葉に詰まり、目を伏せた。何か思い出すことに苦痛を感じているようだった。レインは彼女を急かさず、静かに待った。


「そして…私の家系の記録も」


彼女の声は小さく震えていた。レインはその言葉を聞いて、全てが繋がったような気がした。魔族は「記憶の継承者」の血筋を追っているのだ。そしてそれは「共食の儀」と関連している。


「ニーア、お前の家系は代々その村にいたのか?」


「はい、何代も前から。祖母は村で最も古い家系の一つだと言っていました」


彼女の答えに、レインは考え込んだ。「七面神」「共食の儀」「記憶の継承者」。これらの言葉は全て繋がっているようだった。そしてその中心に、ニーアがいる。


「お前の能力が鍵だ」レインは確信を持って言った。「魔族が求めているのは、お前の継承した記憶かもしれない」


ニーアは震える息を吐いた。彼女の目には恐怖と同時に、何か覚悟のようなものも見えた。


「でも、私には…断片的な記憶しかありません」


「それでも、何かヒントがあるはずだ」


レインは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。夕暮れの街の喧騒を眺めながら、彼は決断した。どちらの国にも与することなく、独自の調査を進めることが、真実に近づく唯一の道だと。


「エルギアとセイラム、どちらにも完全には与せず、独自に調査を進める。そして、お前を守る。これが俺たちの道だ」


彼はニーアに向き直った。彼女の目には不安と共に、信頼の色も浮かんでいた。レインは彼女の勇気に心を打たれた。彼女は単なる奴隷ではなく、特別な存在だった。


「共に行こう、ニーア。二つの国の狭間で、真実を探るんだ」


ニーアは小さく頷いた。薄暗い部屋の中で、彼女の瞳には決意の光が宿っていた。


「はい、レイン様…共に」


その言葉には、単なる従順さではなく、互いを頼り合おうとする意思が込められていた。レインはその変化に気づき、自分自身の中にも変化を感じていた。誰かを支配したいという欲望は、いつの間にか誰かと共に歩みたいという願いへと変わりつつあった。


窓の外では、夕暮れの光が首都を赤く染めていた。魔族の謎を追う旅は、まだ始まったばかりだった。そして二人は、エルギア帝国とセイラム連合の政治的駆け引きの中に、否応なく巻き込まれていくことになる。


魔族の真の目的。「共食の儀」の意味。そしてニーアの持つ「記憶の継承」の能力の由来。全ての謎が、少しずつ明らかになっていくのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ