転生した情報屋
死ぬ瞬間、レイン・カノヴァの目の前に広がったのは、四十年間の人生の走馬灯だった。
「相変わらず、つまらない人生だったな」
自嘲気味に呟くと同時に、胸に鋭い痛みが走った。心筋梗塞。健康診断で何度も警告されていたにもかかわらず、過労と不摂生を続けた報いだった。
会議室の床に崩れ落ちる自分の姿を上から見ている。同僚たちの慌てふためく様子。誰も本気で悲しんでいる顔はない。そこに映っていたのは、四十歳の独身サラリーマン、レイン・カノヴァの、とるに足らない最期だった。前世の彼の名は日本名だったが、この記憶の中では既に現世の名前で自分を認識していた。
「こんな人生、やり直せたらな」
その思いが、闇の中に消えていく意識の最後の火花だった。
***
ガラス張りの窓から差し込む太陽の光に、レインは顔をしかめた。二十歳の若者の体には、前世の四十歳の精神が宿っている。その不思議な乖離に、彼はまだ完全には慣れていなかった。エルギア帝国の首都ヴァルデンクラウスで迎える朝は、前世の東京とはあまりにも違った。空気も、光も、音も、全てが異質だった。それでも、十五歳で転生してから五年の月日はレインにこの世界の生活を教えていた。
「わかったよ、ガラス爺。今起きる」
ベッドから身を起こし、部屋の中を見回す。質素ながらも整然と並べられた書物や文書。情報屋としての生活を表す調度品たち。エルギア帝国の首都ヴァルデンクラウスに位置するこの家は、レインが異世界に転生してから五年間を過ごした唯一の安住の地だった。
「爺とは何だ。ガラス・ヴァイトと呼べ、小僧」
白い長い髭を蓄えた老人が、不機嫌そうに言った。粗削りな外見に反して、その目は知識と経験に満ちていた。彼こそが、十五歳で異世界に転生し、路頭に迷っていたレインを拾い、一人前の情報屋として育て上げた恩人だった。
転生当初、レインは混乱していた。エルギア帝国とセイラム連合という二大国家が対立する世界。魔族の脅威。そして「恩恵」という特殊能力を持つ者たちの存在。全てが彼にとって未知の概念だった。ガラスは、そんな彼に世界の仕組みを教え、生きる術を授けてくれた。
「冗談だよ。今日の依頼人って誰?」
「マークス家の使用人だ。貴族からの依頼は珍しい。しっかりしろよ」
レインは急いで顔を洗い、服を整えた。前世では平凡なサラリーマンだったが、この世界では「恩恵」と呼ばれる特殊能力を持つ「恩恵者」の一人だった。
彼の能力「恩恵視」は、対象の本質を視覚化する特殊な目だ。使用すると瞳の色が青から紫に変わり、対象から発せられる独特のオーラのような光の筋が見える。それらの光の色、強さ、流れのパターンから、人や物事の核心、強みと弱み、時には隠された真実さえも見抜くことができる。嘘をつく人間の周りには赤い靄がかかり、真実を語る者からは清らかな青い光が放たれる。物の場合は、その品質や特性、時には歴史さえも光のパターンとして表示される。
この能力は情報屋としては理想的で、短期間でガラスの右腕として頭角を現していた。噂は瞬く間に広がり、「真実を見る少年」として、首都の裏社会では一目置かれる存在になっていた。
「レイン、急げ」
「はいはい」
階下に降りると、きっちりとした服装の中年男性が待っていた。貴族の使用人特有の威厳と忠誠心が、レインの恩恵視にはくっきりと見えた。
「お待たせしました。情報屋のレイン・カノヴァです」
使用人は少年の姿に一瞬驚いたが、すぐに表情を引き締めた。レインは相手の反応に慣れていた。エルギア帝国の上流階級は、「恩恵者」を畏怖と警戒の入り混じった目で見る。彼らにとって恩恵者は便利な道具であると同時に、潜在的な脅威でもあった。
「エルギア貴族、マーク・ベリウス様からの依頼です。境界地域での魔族の動向調査をお願いしたい」
マーク・ベリウス。エルギア帝国内でも屈指の影響力を持つ貴族の一人だ。保守派として知られ、魔族に対しては徹底排除の方針を貫いている人物。一方、セイラム連合は魔族との共存・交渉路線を模索しているという。二つの国の対立は、単なる領土や資源の争いではなく、こうした思想的な違いも大きかった。
レインは表情を変えなかったが、内心では驚いていた。魔族の調査は通常、軍や特殊機関の仕事だ。なぜ一民間の情報屋に?
「詳細をお聞かせください」
使用人は周囲を警戒するように目を光らせてから、声を落とした。
「最近、終焉の地に近い境界で魔族の活動が活発化しています。特に食料庫や穀物倉庫への襲撃が増えている。これは単なる略奪ではなく、何か計画的なものと主人は考えておられる」
レインは冷静に頷きながら、心の中で計算していた。危険な仕事だが、報酬は間違いなく良い。それに、魔族に関する情報は常に価値がある。
「終焉の地」——かつては豊かな土地だったが、古代の大戦により荒廃し、現在は魔族の住処となっている場所だ。エルギア帝国とセイラム連合の国境に広がるその不毛の地帯は、人間にとって極めて危険な領域とされていた。
レインは恩恵視を発動させ、使用人のオーラを確認した。青い光の筋に、ところどころ緑色の不安の色が混じっている。この男は真実を話しているが、全てを明かしてはいない。
「お引き受けします。ただし、現地調査には時間がかかります」
「急ぎません。正確な情報を求めています」
取引が成立し、前金として金貨の入った袋が机の上に置かれた。使用人が去った後、ガラスが茶を淹れながら言った。
「魔族の調査か。危険だぞ」
「わかってる。でも、これはチャンスだよ」
レインは窓の外を見つめながら言った。
「それに...」
口には出さなかったが、レインの内心には別の思いがあった。前世では何も支配できない人生だった。企業に支配され、社会に支配され、最後は自分の体にさえ支配された。誰からも本当の意味で必要とされず、誰も本当に従う者もいなかった。
だが今世では違う。彼には力がある。「恩恵視」という特別な能力。この世界での二度目の人生。そして何より、前世での経験と知恵。
「誰かを、完全に支配してみたい」
その欲望は、彼の心の奥底で静かに燃え続けていた。それは単純な権力欲ではない。むしろ、深い孤独と無力感から生まれた渇望だった。誰かの全てを知り、その人の全てを掌握したい。そうすれば、二度と自分は孤独にならずに済む——そんな歪んだ論理が、彼の心に巣食っていた。
最近、彼はよく奴隷市場に足を運んでいた。この世界では、奴隷制度は当たり前のように存在していた。戦争捕虜や犯罪者、借金者、そして魔族襲撃の生存者たちが、そこで売買されている。完全な所有権。それこそがレインの求めるものだった。
***
情報収集は、レインの得意分野だった。前世でのデータ分析の経験が、思いがけず役立っている。
「過去三ヶ月の魔族出現地点をマッピングすると...」
机の上に広げた地図に印をつけながら、レインは魔族の行動パターンを分析していた。明らかに彼らの行動には規則性があった。
「食料、特に発酵食品と調味料を狙っている...なぜだ?」
「よく気づいたな」
レインが振り返ると、ガラスが部屋に入ってきていた。老人の手には古い革表紙の本が握られていた。
「魔族の食性についての古い記録だ。お前の調査に役立つかもしれん」
本を受け取り、レインは中を開いた。魔族の種類や特性について詳細に記されているが、食性については曖昧な記述しかない。
「『魔族は人間の食べ物を求める』...これだけか?」
「七面神の神殿にはもっと詳しい記録があるはずだが、アンリフトは遠い」
七面神。この世界の主要な信仰対象だが、レインはまだその全容を理解していなかった。
「ガラス爺、七面神ってそんなに重要なのか?」
老人は深いため息をついた。
「レイン、お前がこの世界に来て五年。そろそろ真実を知るべき時かもしれん」
ガラスは窓際に移動し、遠くを見つめた。
「七面神は単なる信仰ではない。恩恵の本質と深く関わっている。お前の目の力も、その一部だ」
レインは思わず自分の目に触れた。恩恵視。この世界で生きる上での最大の武器だ。
「教えてくれ」
「いや、まだ早い」ガラスは首を横に振った。「まずは自分の目で見て、自分の頭で考えろ。それがお前の仕事だ、情報屋として」
その夜、レインは魔族に関する資料を読み漁った。スウィフトクレイダー、ブルートクレイダー、様々な種族と能力。そして、どの記録にも共通して出てくる「共食の儀」という謎の言葉。
「共食の儀...何だ?」
眠る前、レインは窓の外の星空を見上げた。前世では見たこともないような鮮明な星々。異世界に来て良かったことの一つだ。
だが、彼の心の片隅では、あの欲望がまだ燻っていた。誰かを完全に自分のものにしたい。誰かの全てを支配したい。
「この世界なら、それも可能かもしれない」
彼はそう思いながら、明日の奴隷市場訪問を心に決めていた。情報収集のためと自分に言い聞かせながら。
***
翌朝、ガラスの様子がおかしかった。
「どうした?具合でも悪いのか?」
「...少しな」老人は弱々しく微笑んだ。「歳には勝てん」
レインは心配したが、ガラスは彼を追い出すように手を振った。
「行け。依頼の調査だ。老人の世話より、それが先だろう」
嫌な予感がしたが、レインは言われた通りに外出した。一日中、魔族の情報収集と奴隷市場の下見で過ごした。恩恵視を使って、各奴隷の特性を観察する。しかし、心に響くものはなかった。
「明日また来よう」
家に戻ると、異様な静けさが漂っていた。
「ガラス爺?」
返事はない。書斎に駆け込むと、机に伏したガラスの姿があった。脈はない。
「嘘だろ...」
机の上には一枚の紙切れ。そこにはガラスの震える字で書かれていた。
「七面神の真実を探れ。お前の目は、その鍵だ」
レインは初めて、この異世界で涙を流した。前世でも、今世でも、本当に大切に思える人は稀だった。ガラス・ヴァイトは、そんな稀有な存在だった。
葬儀は簡素に済ませた。ガラスには親族がいなかった。参列者は主に取引先や情報源たちだ。皆、口々にレインを気遣った。
「これからどうする?」
「店は続けるのか?」
「若いが、お前ならやれるだろう」
レインは淡々と応えた。「ガラス爺の仕事は俺が引き継ぐ」
家に戻り、ガラスの遺品を整理しながら、レインは決意を新たにした。魔族の調査、七面神の真実、そして...自分の欲望の追求。
「明日は奴隷市場だ」
自分の部屋に戻り、窓から見える街の明かりを眺めながら、レインは考えた。前世での後悔と孤独。今世での可能性と力。
「今度こそ、自分の望む人生を生きてみせる」
その決意と共に、レインは新たな一日に向けて目を閉じた。明日、彼の人生は大きく変わることになる。それが、どれほど彼の予想を超えるものになるかも知らずに。




