頂き女子
一歩、足を踏み込むと足元の雪が沈み込む。その沈み込みは、体重だけで沈むのではなく、背負っているザックの重みも相まって、街中で雪を踏むよりも深く沈み込んだ。体重をしっかりと支えられる地面を靴裏から感じ取り、千里璃々は安堵する。
冬、富士山。
新幹線から見える遠くの富士山は、まさしく日本の風景の一つとして数えられるほどに美しい。白い雪を被った富士山の美しさは何とも言えない。しかし、今、千里璃々の足元にある富士山の山肌は美しくはあれども、それよりも、厳しさと強さ、鋭さを兼ね備えた白い牙のように私に襲い掛かってきていた。
吐く息、吐く息の一つずつが白く、視界を曇らせる。
千里璃々は、冬富士に挑んでいた。単独登頂、かつ、最小限の荷物である。富士山は世界遺産にも認められている観光地として有名だろう。その字だけを読めば親しみやすい山であるように感じる。が、それでも山は山であり、ある程度の危険が伴う。そして、冬富士はその危険度が難易度が跳ね上がる。
一説によると厳冬期の冬富士は、ヒマラヤ以上の難易度を誇る。天候に恵まれなければ、気温氷点下30度という極寒の空気に包まれ、さらに毎秒30メートル超える風が吹く事もある。もしも、その風に吹かれれば体幹気温としては、氷点下60度から70度という世界になる。そんな環境下で、凍った山肌に居れば、命を落としかねない環境だ。
何故、そのような無謀な事をしたのか。それは、彼女が登山系配信者だからだ。
インターネットで自ら録画したの登山の様子を配信する。
今回はその企画の一つである。
承認欲求が高い、強い、と言ってしまえばその通りである。
しかし、それが一つの原動力になっているのは間違いない。
「まだか」
千里璃々は目線を下に向け、足を一歩、また、一歩と確かめながら歩き、呟いた。
最悪の状況に放り込まれていた。天候は悪く、軽い横殴りの風と雪によって、視界が悪い。言ってしまえば、吹雪の真っただ中を歩いているようなものだ。おかげで、時間の流れがわからない。白い視界は時間を、認識から奪っている。
もしかすると、もう富士山頂が近いのかもしれないが、逆に、遠ざかっているのかもしれない。
失敗。
常識的な登山者、山屋であれば、そう判断する。少なくとも、天候の回復を待つのが王道である。
しかし、千里璃々は違った。
彼女はこの状況を心のどこかで密かに楽しんでいた。
なぜだろう。
危険でしかない。理性は止めておけと警鐘を鳴らしてくる。が、足は止まらない。
一つは焦りがあった。登山系配信者としての自らの立ち位置だ。趣味として配信を始めたときは、ぽつぽつとあった反応。しかし、同じように登山系配信者が出てくることでその反応が無くなっていった。これではいけない。その焦りが、彼女の心の炎を燃え上がらせて、足を前へと進ませるのだった。
「私が、本当の頂女子なんだ」
気が付くと、千里璃々は鳥居の前にいた。だが、そこは目的地ではない。確かに山頂ではある。だが、目的地ではない。馬の背と呼ばれる尾根へと向かってゆっくりと歩く。富士山頂というのに、人気はない。千里璃々も、まさか、吹雪の中に人がいるとは思っていない。
馬の背を抜けて、日本の最高地点、剣ヶ峰へと向かう。すると、見えてきた建物。吹雪の向こうにうっすらと見えてきた建物を見て、千里璃々の顔がはっと引き締まる。間違いない。吹雪に隠されて影形しか認識できないが、間違いなく、富士山気象観測所の建物である。はやる気持ちを抑えながら、一歩一歩と近づくたびに、影は形を明らかにする。
富士山頂気象観測所が見えた。
「あと少しだ」
自分に言い聞かせるように、千里璃々は言う。
富士山頂気象観測所の近く、二等辺三角点へと到達した。吹雪の雪が横から吹きさらしてくる中において、その二等辺三角点は雪が周りに積もっていた。しかし、かろうじて、何度も見たことのあるその石の柱は私の記憶に残ったそのままである。
私はそれに手を添える。
冬富士の登頂。単独登頂である。
女性としての登頂は、あまりないはずだ。その達成感が、千里璃々の心を満たしていた。一晩、山頂付近で吹雪が止むのを待った。山を下山する時こそ危険とは言うが、幸いな事に、吹雪が止んだ折に出発することで、その危険を回避することが出来た。
何とか下山した時、千里璃々に声をかけてくる登山客がいた。
ちょうど顔なじみの山屋であったので、千里璃々も笑みを見せて応じる。
「こんな冬富士を一人でか?」
「そうよ。これで私が本物の頂女子よ」
登山客はぎょっとした表情で、千里璃々の言葉を聞いた。
その頂女子というのが、どのような意味を持つか、千里璃々が知るのは録画した登山動画を投稿した頃であり。まだ、少し先の事となった。