第8話 夕映え
マーブル・ドラゴンは、私に向けて大理石の礫を吐きかけた。目を閉じていても気配でそれと分かる。
しかし、私はほとんどダメージを受けなかった。補助魔法を自分にもかけているとはいえ、こんな至近距離であれを浴びて平気でいられるはずがない。これは不自然なことだった。
恐る恐る目を開けると、ラックが両手を広げて私の前に立っていた。陰になっていて見えないが、ラックの背中には無数の大理石が突き刺さって、そこから血が吹き出していることだろう。それでもラックは笑っているように見えた。
私は驚いて、危うく酸を濃縮する呪文の詠唱を途切れさせそうになったけれど、我慢してつづけた。そういえば一瞬前に「おっと」というラックの躓く声が聞こえた気がする。あのときと同じだ、と私は思った。
「ラック」と呼びかけたい気持ちをぐっと堪えて、私は酸の濃縮を続けた。マーブル・ドラゴンは口を閉じてこちらを見おろしている。ドラゴンも驚いているのかもしれない。ファンドとレイが少しよろめきながら足速にこちらに近づいてきた。二人とも、もうさっきのように走ることはできないらしい。
「分かっとるな、レイ」
「ああ、じいちゃん」
二人は並んでラックとドラゴンの間に割って入って、交互に一歩出ながら連続で攻撃をしかけた。一撃、一撃の威力は抑えて、とにかく速さを優先する戦法のようだ。二人が仕掛ける連続攻撃を受けて、ドラゴンはじりじりと後ろに下がっていった。ドラゴンも反撃しようとしているが、二人は先手を打って口や腕や脚を次々に斬ってそれを封じた。
しかし、そんな力任せの攻撃をいつまでも続けられるわけがない。やがて二人とも攻撃のスピードが落ちて、とうとうドラゴンから猛烈な大理石の礫を吹きかけられてしまった。二人はそれを防御の体勢を取ることもできないまま全身に浴びてしまい、傷だらけになって倒れてしまった。二人が仕掛けたのは、残る力をすべて剣に注ぐ、捨て身の攻撃だった。
ドラゴンは二人から斬り砕かれた体を復元するためにしばらく立ち止まっていたが、受けた傷は多くても浅いものばかりだったので、すぐに全身を復元して、またこちらへ歩いてきた。ファンドとレイは立ちあがることができない。
ラックはいつのまにか私の前を離れ、ドラゴンの後ろに回り込んでいた。そして、その長い尻尾を掴んで綱引きのように引っ張った。ドラゴンは立ち止まって尻尾を激しく振りまわしたが、ラックは手を離さなかった。ドラゴンは尻尾を高く振り上げ、地面に激しく打ちつけた。ラックは全身を強く打って、そのまま倒れてしまった。
これで邪魔者はいなくなったとばかりに、ドラゴンは悠然とこちらへ歩いてきた。いよいよ私とマーブル・ドラゴンの一騎打ちだ。私の覚悟はとうに決まっていた。ドラゴンをできるだけ私に引きつけてから魔法を放つのだ。酸の濃度をぎりぎりまで高めて確実にドラゴンに命中させるにはそれ以上の方法はない。もし今、魔法を放てば、ラックやファンドやレイにも酸の雨が降り注いでしまう。ドラゴンを私の近くに引き寄せてから魔法を放てば、私もドラゴンと一緒に酸の雨を浴びてしまうけれども、それはやむをえない。どの道この魔法でマーブル・ドラゴンを仕留められなければ、私たちは皆殺しにされてしまうだろう。ここで私がドラゴンと刺し違えることができれば、他の三人は生き延びることができる。もう全滅するのはごめんだ。
私は再び目を閉じて酸の濃度を高めることに努めた。でも、呪文を詠唱することに意識を集中させようとしても、勝手に別の想念が浮かんできた。それはまだ幼い頃、トモシハの教会の裏庭の木に吊されたハンモックで遊んだときの思い出だった。そのハンモックにはまだ三つか四つだった私とラックが並んで横になっていて、それをアレンさんがやさしく揺らしてくれている。三人とも声を上げて笑っていて、特にラックの体からは大はしゃぎする振動が直に伝わってくる。もっと揺らして、もっと揺らして、と私たちは飽きることなくアレンさんにねだりつづける。春の、穏やかな午後で、陽の光も、繁った木の葉も、揺れるハンモックも、アレンさんも、ラックも、すべてが黄金色に輝いている。どうしてこんなときにそんな遠い記憶が蘇ってくるんだろう。そうか、私が死ぬからなんだな。そう思うと妙に気持ちが静まった。タント、待っててね。今、仇を討つから。
ドラゴンの気配が私のすぐ近くまで迫ってきた。私は静かに目を開き、両手を挙げて、大きく息を吸った。
「超・酸の豪雨!!!」
私は眼前にいるマーブル・ドラゴンの頭上に魔法を放った。ドラゴンと私の真上に、私も見たことがないほど巨大な酸の塊が現れる。これが豪雨となって降り注ぎ、私もろともドラゴンの体を溶かすはずだ。私は最期まですべてを見届けるつもりで刮目していた。ドラゴンも私を睨んで、口を開けながらこちらへ歩いていた。
「燃焼!」
その声が聞こえた瞬間、私は腰に激痛を感じながら後ろに吹き飛ばされた。いったい何が起こったのだろう。私はいつのまにか仰向けに倒れていた。そう自覚するのと同時に、坑道中に響き渡るような禍々しい音が聞こえた。それは酸の雨が凄まじい勢いで降り注ぐ音、酸がマーブル・ドラゴンの体や坑内の地面をシュウシュウ溶かす音、それにドラゴンの断末魔のうめき声が混ざり合う、今まで耳にしたことがない音だった。その音が私の聴覚を埋めつくし、白い煙が視界を覆いつくした。私は痛みを堪えて上体を起こし、そのままじっとしていた。
坑道全体が悲鳴を上げているような音と、間近で火山が噴火しているような煙は長く続いた。しかし、しばらくするとそれらは徐々に薄らいでいった。代わりに私の視界に現れたのは、クレーターのような大きな穴だった。その穴は、酸の雨が坑内の地面を解かしてできたものだった。
私は腰の左側を押さえながら立ちあがってその穴の縁まで歩き、底の方を見おろした。どれだけ目を凝らしてもマーブル・ドラゴンの姿は見当たらない。すべて酸に溶けて、消滅してしまったのだろう。半分になってもなお強大だったあの大理石の体は、一片も残らず消えてしまったのだ。
「か、勝った・・・・・・」
その言葉は、私の口から自然に湧き出てきた。
「勝ったー!!!」
私は渾身の力を込めて叫んだ。
「おぉー!!!」
穴の向こう側でファンドとレイも叫んだ。
声を上げたあと、ふと私はどうして自分が生きているのかと不思議に思った。さっきから痛んでいる腰を見てみると、短剣を提げていた剣帯がなくなっている。振り返って地面を見たら、剣帯は千切れ、鞘は砕けて散乱していた。私は引き返して鞘の向こうに投げ出されていた短剣を手に取った。短剣にはまだ熱が残っていた。
私が魔法を放った直後に聞いた「燃焼!」という声は、まぎれもなくラックのものだった。私は腰に激痛を覚えて後ろに吹き飛ばされながら、ラックが倒れたまま左の掌を私に向けているのを見た。
つまり、私が魔法を放ってから、酸の雨が降り注ぐまでの一瞬に、ラックは私に燃焼魔法を放って、私を後ろに吹き飛ばしたのだ。でも、通常の燃焼魔法は燃え広がるだけで人を吹き飛ばすような力を持っていない。私に放たれたのは燃え広がろうとする炎の力を一点の圧力に変換して物を吹き飛ばすという特殊な魔法だった。それは熟練の魔法使いでも使いこなすのが難しい高度な技だ。しかも、ラックはその特殊な魔法を、私が腰に提げていた剣の細い鞘に当てて私を後ろに飛ばしたのだ。そのおかげで私は腰こそ痛むものの、火傷も骨折もせずに、こうして立って歩けている。いったいいつのまにラックはそんな魔法の技術を身につけていたのだろう。十五年も一緒にいるのに、ラックには分からないことが多すぎる。私はそれ以上このことについて考えるのをやめ、ラックがまた私の命を救ってくれたことに感謝した。
私は抜き身の短剣を持って大穴の向こう側まで歩いていき、三人に回復魔法をかけ、自分にもそれをかけた。私は一人ずつ手を差し出して立ちあがらせて、心からのお礼を言った。ファンドとレイも私の健闘を讃えてくれた。そして、またファンドを先頭にして三番坑道の出口に向かった。
坑道を出ると、そこには多くの人が集まっていた。美しい夕陽が町と人を照らしている。どうやら坑道の外でも魔物との戦いは終わったようだった。
三番坑道から姿を現した私たちに、どっと人々が押し寄せた。みんな不安そうな顔をして中の様子について口々に質問してくる。あの禍々しい音は坑道の外まで響き渡っていたようで、中の様子が気になりながらも、あまりの恐ろしさに誰も中に入ることができなかったそうだ。
ファンドがみんなを手で制しながら、私たち三人を小高い場所に連れていった。
「みなの衆ー! よーく、聞いてくれー!」
ファンドが人々を見おろして話しはじめると、群衆は口を噤み、次の言葉を待った。
「ここにおられる『裁きの道化』こと、僧侶のリースさんと遊び人のラックさんが、我らの敵、あの憎き、マーブル・ドラゴンを、退治してくださったぞー!!!」
まず、驚きが波紋のように群衆に広がり、返す波のようにどっと歓声が湧いた。人々は互いの肩をたたき、涙を流して喜び合った。いたるところで鬨が上がった。
大歓声の中、ファンドは私とラックとレイの手を静かに取って、私が抜き身で持っていた短剣を四人で天に掲げた。短剣は夕映えの中で輝き、群衆の歓声はいっそう大きくなった。
「我々は勝った! 魔物たちから町を取り返したのだー!!!」
その姿勢のまま、ファンドは大声で叫んだのだが、もう誰もそれを聞いていなかった。群衆は私たちに押し寄せ、そのうちの何人かが私たち四人をそれぞれ肩に担いで、そのまま歩きはじめた。私も軽々と持ち上げられ、人々を傷つけないようにと手を上げていたら、そのまま私が短剣を高く掲げる形になり、私を先頭に、ラック、ファンド、レイがパレードのように人々の肩に乗せられたまま、大歓声の中を練り歩く形になった。ラックは満面の笑みで、みんなの勝利だ! ありがとう! などと叫びながら人気役者のようにまわりに手を振ったり、投げキッスをしたりしていた。
人々の興奮はいつまでも収まらず、そのままケノの教会前の広場を中心に大きな祝賀会が開かれることになった。人々は心ゆくまで歌い、踊り、美酒に酔いしれた。私とラックとレイは葡萄ジュースをがぶがぶ飲まされた。もう飲みきれないというのに、次々に誰かがジュースを注ぎにくるのだった。そして、私たちは数え切れないくらいマーブル・ドラゴンを倒したときの話をさせられた。
ファンドに手招きをされて、私たち三人は教会の中へ行った。祝賀会の最中でも、そこなら静かに話ができそうだった。ファンドは私たちを椅子に座らせてから言った。
「この度は、わしらの町を救ってくださり、本当にありがとうございました。あらためてお礼を申し上げます」
ファンドは私とラックに向かって深々と頭を下げた。
「あなた方なら、きっと魔王討伐を成し遂げてくださると、わしは信じております。そこで、ひとつお願いがあるのですが」ファンドはレイの方を見てから言葉を継いだ。「孫をあなたたちの旅の仲間に加えていただけないでしょうか?」
「えっ! いいの?! じいちゃん!」
レイは目を輝かせた。
「未熟者ではありますが、剣の腕は確かです。物心がつく前から私が鍛えてきましたし、ケノの自警団の一員として実戦の経験も積んでおります。ただ、傭兵の仕事ばかりさせてきてしまったので、もっと広い世界を見せてやりたいのです。いかがでしょう。畏れ多いお願いであることは分かっているのですが」
「お願いです! ぼくを仲間にしてください!」
レイも頭を下げた。
ラックは二人の話の途中から、もうウンウン頷いていた。
「こちらこそ、ぜひ、お願いします」
私が頭を下げてそう言うと、レイは躍り上がって喜んだ。
「レイさんが私たちと一緒に来てくれるなら、こんなに心強いことはありません。本当はファンドさんにも一緒に来ていただきたいのですが」
「はっはっはっは。ありがとうございます。お誘いいただけて光栄です。ご一緒したいのはやまやまですが、もう歳ですし、この町を立てなおす仕事も残っとります。私には、ここでみなさんの旅の無事を祈らせてください。どうぞ、孫をよろしくお願いします。レイ、頑張ってこい!」
ファンドはレイの背中をどんと叩いた。レイははにかむような笑みを浮かべて、おう、と頷いた。
「よし、それじゃあ今夜は壮行会じゃ! また、みんなで飲みなおそう!」
こうして魔王が復活する九年前のある日、私たちは宿敵マーブル・ドラゴンを倒し、人々はケノ奪還戦に勝利した。
その日から私とラックのパーティーにレイが加わった。
十五歳の僧侶と遊び人、そして剣士のパーティー。
私の胸には希望が満ちていた。