第1話 旅立ちの朝
ラックは笑った。
先生は怒った。
みんなはあきれていた。
いつものことだ。ラックはどんなときでもふざけている。その日も魔法調薬の時間に、みんなは燃焼魔法を唱えて鍋を火にかけているのに、ラックはおならに火を点けようとして自分のおしりを燃やしたのだった。
「冷凍!」
先生は素早く冷凍魔法を唱えて、ラックのおしりの火を消してから怒鳴った。
「ラック! 私は薪に火を点けろと言ったんだ! 股に点けてどうする!」
「鳥になるのは人の夢♪」
ラックが二発目の構えに入ったので、先生は再び冷凍魔法を放った。でも、ラックが「燃焼」と唱えるのが一瞬早くて、彼が飛び上がったあとの地面を凍らせただけだった。
今度はおならを爆発させることに成功したラックは、高らかな笑い声といっしょに弧を描いて飛んでいき、窓ガラスを割って教室の中へ消えた。そして、にっこり笑いながら両手を挙げて、また校庭に出てきた。ガラス片が刺さったおでこからまっすぐ血が流れて、ラックの顔はピエロみたいになった。
笑っているのはラックだけだった。みんなはまた授業が中断されたことにうんざりして、やれやれという顔でラックから目を背けた。いくつもため息が漏れた。
「危ない魔法の使い方をするな! いつも言ってるだろう!」
先生は怒りつづけていた。
「危険は安全♪ 安全は危険♪ 安全な魔法じゃ使えない♪」
ラックは自分の白いおしりを指さしながら言った。ズボンの後ろ半分が燃えてなくなっていた。
「今度という今度は許さんぞ! 校舎まで壊しおって!」
先生は声だけでなく、全身が震えていた。
「回復」
ラックのおでこに向かって呪文を唱える私の声が、校庭に小さく響いた。
結局、アレンさんが学校に呼び出され、ラックはその日をもって学校を退学させられることになった。アレンさんは教会の孤児院でいつも私たちの世話をしてくれる人で、私やラックにとってはお母さんみたいな存在だった。
いつも先生の指示に従わず、授業の邪魔ばかりしていること、他の生徒を危険な目に遭わせていること、本人に反省の色がまったく見られないこと、の三つが退学の理由だった。ラックはまだ十歳なのに、学校から放り出されてしまったのだ。
先生との面談の間、アレンさんは悲嘆に暮れていたけれども、ラックは陽気に歌ったり、わざと椅子から転げ落ちたりしつづけていたという。これはアレンさんから直接聞いた話。これからラックに何をさせたらいいのか分からない、と私に話すときにもアレンさんは暗い顔をしていた。
ラックと私は一緒に教会の孤児院で育った。物心がつく前から二人ともそこにいた。ラックは小さい頃から奇行が目立つ子どもだった。食事のときにパンを鼻から食べたり、みんなが賛歌を歌っているときに勝手に合いの手を入れながら踊ったり、いつも変なことをしてまわりの人たちを困らせた。
まわりの大人たちは何とかラックに普通のことをさせようとして、ときにやさしく言い聞かせ、ときに厳しく叱ったけれど、ラックは変わらなかった。人から何を言われても、ラックはただひたすらにふざけつづけていた。
だから、ラックは大きくなるにつれて、町の誰からも相手にされなくなっていった。私たちの住むトモシハは小さな町だったこともあって、さすがに表立ってラックのことを悪くいう人は少なかったけれど、変わった子ども、迷惑な子ども、かわいそうな子どもとして敬遠されるようになった。学校でも、最初はまわりの子どもを笑わせることもあったけれど、すぐに冷たい視線を向けられるようになった。ラックがまた何かおかしなことをしている、と。ラックの笑い声は絶えることがなかったけれど、いつも寂しく谺していた。
それでも私はラックの傍を離れなかった。同じ孤児院で育ったから、自然とラックの世話係を任されることになってしまったというのもあるけれど、私にはもっと特別な理由があった。それは誰にも言えない私の秘密に深く関わっている――。
私には前世の記憶がある。
こんなことを誰かに話したら、きっとラックとは別の形で変人扱いされるに決まってるから黙っているけれど、私は前世のことをはっきりと憶えている。
前世で私が暮らしていたのは、魔法の代わりに科学というものが使われていた不思議な世界だった。人々は魔法ではなく科学を使って、何かを熱したり、動かしたり、その他にもいろいろなことをしていた。想像つかないかも知れないけれど、その世界の人々は科学の力で鉄の船を作って、空を飛ぶだけでなく、他の星にまで出かけていたのだ。そこでは科学こそが世界を支える当たり前のもので、魔法はおとぎ話に出てくる想像の産物だった。私が今いる世界は、前世の世界で想像されていたおとぎ話の世界にそっくりなのだ。
中でもRPGという、これも科学によって作り出された遊びの世界によく似ている。私も遊んだことがあるけれど、そのRPGの有名な作品のひとつに、遊び人が成長すると突然悟りを開いて賢者になるという、びっくりすような仕組みを取り入れているものがあった。この仕組みに説得力があるのは、そもそもシッダールタという偉大な賢者が、若い頃に断食などの苦行をしても悟りを得られず、別の方法を探して悟りを開いたという伝説がよく知られていたからだと思う。私も前世でその賢者について書かれた物語を読んだことがあった。
このように私が前世でいた世界では遊び人が賢者になるという発想があったけれど、今いる世界にそれはない。遊び人は、ただ軽んじられ、疎まれるだけの存在だ。でも、私は今、遊び人が賢者になる可能性に賭けてみたいと思っている。たとえ前世の世界の人々から、RPGの中の話を本気にするなんて、とばかにされるとしても。世界の成り立ちが根本的に違うからこそ、前世でいた世界の遊びの中に、今いる世界の真実が隠されているはずなのだ。
私がここまで遊び人の可能性にこだわるのは、今、新たな賢者の出現が切実に求められているからだ。教会や学校で私たちが教わった、今いる世界の歴史は次のようなものだった。
はるか昔、賢者スイは魔王を封印した。魔王の力は絶大で、多くの人々が命を奪われ、封印が成功したときには世界の人口は十分の一にまで減ってしまっていた。賢者スイは、この封印が残念なことに千年しかもたないことを人々に言い遺してからこの世を去った。
災厄を生き延びた人々は、魔王の復活に備えて、再び子どもを産み育て、城塞都市を築き、さまざまな産業を発展させながら、魔法をはじめとする自分たちの武力をできる限り高めることに努めた。
ただ、賢者スイの予言した千年後がいつにあたるのかという問題が、人々を悩ませた。賢者が魔王を封印したときに使った最終魔法の力があまりに大きかったため、惑星の軌道が僅かにずれてしまったのである。その変化は短い期間で見れば取るに足りないものだったが、千年積み重なると大きな誤差につながる。天体の運行が変化したことからこの事実に気がついたとき、占星術師たちは愕然とした。
人々は暦に修正を重ねて、何とか賢者スイが予言した千年後を算出したが、それが本当に正確なものなのかは誰にも分からなかった。占星術師たちの計算によれば、予言された千年後とは今から十四年後にあたるはずだった。魔王の封印が再び解かれようとしている今、世界は新たな賢者を必要としている。
近年、魔物たちの数が明らかに増え、その凶悪さも増してきている。これは魔王が復活する日が近づいていることの予兆にほかならない。大きな不安が人々を覆っている。新たな賢者と噂される者は次々に現れるが、最終魔法を使える者は現れていない。賢者スイがこの世を去って以来、魔法をはじめとするさまざまな分野での研究と開発が進み、人間の武力は千年前とは比べものにならないほど強大になっているが、はたして最終魔法なしに魔王を倒すことができるのかは誰にも分からない。
これが今いる世界の歴史。
遊び人が本当に賢者になれるのか、私にも分からない。でも、遊び人が賢者になるという前世の記憶を持っている私が、ラックと同じ孤児院で育てられたことには意味があるのだと信じたい。どうせ何もしなくても、十四年後には他の人たちと一緒に魔王に殺されてしまうかもしれないのだ。それなら私は今、自分が知っているこの可能性に賭けてみたい。
「アレンさん」
ラックのズボンを縫いなおしていたアレンさんは、手を止めて私を見上げた。
「今まで育ててくれて、本当にありがとうございました。私は明日の朝、ラックと一緒に旅に出ようと思います」
黙って孤児院を出ていこうかとも思ったけれど、やっぱりアレンさんにはちゃんとお礼を言っておきたかった。急に私たちがいなくなったら、心配して探しまわるかもしれない。
「旅って、どこへ?」
「魔王を倒す旅です」
「ま、魔王?!」
アレンさんは目を丸くして、私の瞳を覗き込んだ。
「本気なの?」
アレンさんの目をまっすぐ見返したまま、私は頷いた。
「いつか、あなたちがここを旅立つ日が来るだろうとは思っていたけれども、いくらなんでも早すぎない? リース、あなたはまだ十歳なのよ」
「分かっています」
「しかも、ラックと一緒だなんて!」
アレンさんは天を仰いだ。
「確かに、あなたはしっかり者だし、魔法も大人顔負けの腕前だけれど、ラックと一緒に魔王を倒しにいくなんて、無謀にも程がある。魔王のところに辿り着くはるか手前で二人とも死んでしまうに決まってる」
アレンさんは目を閉じて、眉間のしわを深くした。
「ああ、私がいけないのね。いつもリースにラックの世話を頼んできたから。ラックが学校を辞めさせられたのは、あなたのせいじゃないのよ。あなたひとりで彼のことを全部背負わなくてもいいの。だからお願い、考えなおして!」
「違うんです、アレンさん。私はラックを助けるためじゃなくて、彼に助けてもらうために旅に出たいんです」
「助けてもらう? ラックに? リース、あなたはいったい何を言っているの? ラックのことは私たちが何とか面倒を見るから、せめて誰かもっと頼りになる人と一緒に旅に出てちょうだい!」
「すみません。分かってもらえないと思いますが、ラックと一緒じゃなきゃ意味がないんです。頼りになる仲間は、これから自分たちで探します」
「もう、あなたを引き留めることはできないのね?」
私は再び頷いた。
アレンさんはどうしてよりによって、とか、私がいけなかったんだ、とか独り言を言いながら、しばらく考え込んでいたけれど、やがて諦めたように大きなため息をついて立ち上がり、物置部屋へ行った。そして、小さな木箱を持ってきて、私に渡した。
箱を開けると、小さなペンダントが入っていた。手に取ってみると、見たことがない紋章が刻まれている。
「ラックがここへ来たときに、身につけていたものなの。あの子はまだ赤ん坊で、手にそれを握っていた」
「この紋章は?」
「いろいろと調べたけれど、分からなかった。たぶん高価なものではないと思うけれど、いつか彼の出自が分かる手がかりになるかもしれないわ。持っていってあげて」
私はアレンさんを力いっぱい抱きしめて言った。
「今まで、本当にありがとう」
ラックは教会の裏庭にいた。薪とそれを割るための手斧を使って、切り株の上でジャグリングをしていた。
「ラック」
「ほっ♪ ほっ♪ ほっ♪ ほっ♪」
呼びかけても、ラックは手を止めなかった。
私が太めの薪を拾って投げると、それをラックはジャグリングしながら手斧で見事に真っ二つにした、というのは嘘で、薪はラックの後頭部をしたたかに打ち、手斧はラックのおでこを割って地面に落ちた。
「天も号泣♪ 薪と手斧の雨が降る♪」
ラックは蹲って、両手で頭を押さえながら空を見上げた。満天の星だった。
「回復」
私は呪文を唱えてから言った。
「ラック、明日の朝、私と一緒に旅へ出よう」
「……」
「魔王を倒すのよ。私とあなたで」
「……」
「ううん、魔王を倒すのはラック、あなたなの。あなたはこれから偉い賢者になるのよ。お願い、私たちを助けて」
「ゴェッ」
ラックはげっぷをした。私はまた太い薪を拾って、ラップ、じゃなかった、ラックの側頭部を思い切り殴った。
「回復」
私は仰向けになったラックにまたがって、両手で顔を摑んだ。
「いいよね! 行くよね!! 魔王倒すよね!!!」
ラックはうんうんと頷いた、というのも嘘で、そう見えるように私が彼の顔を動かしただけだった。
こんな下品な奴、マジでここに置いて行こうかと心底思ったけれど、私は何とか思いとどまった。ラックが最低な奴だからこそ、私は彼と一緒に旅に出なければならないのだ。つらい。
翌朝、私は以前からこっそり用意しておいた真新しい僧侶の服に袖を通した。
ラックには、これも用意しておいた新品の道化の服を着せ、鼻には赤いボールをつけ、首にはアレンさんから託されたペンダントをかけた。こんなに派手な格好なのに、それは部屋着のようにラックに馴染んでいた。
「それでは、行ってきます」
「無理だと分かったら、すぐに帰ってきてね。今日中に帰ってきてもいいんだよ」
アレンさんの目がきらきらしていた。近所の人たちも私たちを見送りにきてくれた。たとえ未熟な者であっても、魔王討伐を目指して旅をする者に礼儀を尽くすのが、この世界の習わしだ。教会の人たちは私たちのために祈りを捧げてくれた。あの先生まで、私たちを見送りにきてくれていた。
「こんなにたくさん餞別もいただいて、本当に感謝しています。大切に使います」
私は頭を下げた。
アレンさんは私とラックを抱き寄せようと腕を広げたけれど、ラックはバック転でそれをすり抜けて、逆立ちをしたまま、すたすたと出発してしまった。
「足が鳴るけど腕は棒♪ 肘が笑ってしょうがない♪」
膝くらいの高さから笑い声が聞こえた。
「ラック、待って!」
こうして魔王が復活する十四年前のある朝、私とラックは旅に出た。
十歳の僧侶と遊び人という異色のパーティー。
私の胸には大きな不安とともに……いや、大きな不安しかなかった。